残夜は誰も殺さない

ふ、と浮き上がるような目覚めだった。殆ど開かない瞼を押し上げ、ぼやけた視界を何度か閉ざす。薄暗い。今何時だろう。頭痛がする。ここは何処だろう。ああ、まだ息がし辛い。

両の肺が欲するままに吸い込んだ酸素をゆっくり吐き出す内、漸く鮮明さを宿した天井は見慣れたもので―――


「起きたか?」


居る筈のない声に、心臓が跳ねた。無骨でいて艶のある低声。良く知らないそれを、けれど鼓膜は覚えていた。あの男だ。




出来るだけ頭を揺らさないよう気を付けながら発声源を辿る。すぐ隣。カーテン越しの薄明かりに照らされ、ぼんやり浮かんだ人型の輪郭は立てた片膝に腕を置いて座っていた。途端、芽生えた既視感に記憶が巡る。仕事を終え、男を見付け、治し、倒れ。それからぷっつり途絶えるまでの温もりが、じんわり思い起こされる。

自宅の住所と鍵くらい、カバンの中を見れば分かること。わざわざ運んでくれたのか。路地の隅に放置、あるいは金を抜くなり乱暴するなり色々使いようはあっただろうに、変わった人。家まで運んでベッドへ寝かせ――どれくらい眠っていたかなんて皆目見当もつかないけれど、目を覚ましても尚帰ろうとしないなんてね。


ただ見つめ返すだけの私に、彼は続けた。


「具合どうだ。なんか飲むか?」


まるで良い人の皮を被った台詞。いや、実際良い人なのかもしれない。警戒心がないだとか早く帰れとかもういいとか。あの時、彼が発した言葉はどれも私を案じていた。


「……みず」
「ん」


立ち上がったシルエットは、まるで勝手知ったる家であるかのような足取りでキッチンの方へと消えていった。






気怠い腕を頭上へ伸ばし、電気のリモコンを手繰り寄せる。眩しさに備えて目を閉じながら中央にある円形のボタンを押すと、瞼の向こうが明るくなった。シーツに腕をつき、重い上体をなんとか起こす。目眩に眉を寄せながら開けた視界で気付いたのは、社の制服であるベストが脱がされていること、ワイシャツの襟元が第二ボタンまで開けられていること、スカート内に仕舞っていた裾が引っ張り出されていること。きっと少しでも楽な格好にと配慮してくれたに違いない。有難いやら、情けないやら。



もそもそ脱いだストッキングを床に落としたところで、彼は戻ってきた。手には500mlのペットボトル。てっきり水道水をコップにいれてくると思ったのに、既に我が家の冷蔵庫事情までご存知らしい。

癖のない黒髪、緑というには幾分明るい枝豆色の双眼。細身ながらがっしり引き締まっているだろう体躯。初めて光の下で視認した容姿はおよそ非の打ちようもなく、ただ口端に走る傷痕だけが歪に見えた。


乾いた喉で礼を述べる。確かに掴んだはずのペットボトルは、けれど手のひらを器用にすり抜け、カシャンと落ちた。軽快に転がっていくそれを拾い上げた彼が笑う。ごめんなさい。まさかこんなに力が入らないだなんて思わなかったんだよ。


「まだ本調子じゃねぇだろ。無理すんな」
「優しいんだね」
「女にはな」


パキッ。ニヒルな笑みを引っ込め、わざわざキャップを開けてくれた彼は「こぼすなよ」と差し出した。私がしっかり掴んだことを確認してから離れゆく、筋の浮いた手。

喉を潤し、ひと息。未だ頭部を這い回る鈍痛が煩わしい。それでも多少マシにはなったか。少なくとも意識はハッキリしている。


キャップは未だ、彼の手の中。こちらへ寄越す気配はなく、三口飲み終えたペットボトルを持ったまま戸惑っていれば「もういいのか?」と奪われた。面倒見がいいのか、はたまた思惑があるのか。また少しクリアになった頭で考えかけ中断する。それより仕事が気になった。あいにくこんな状態じゃ暫く出社は難しい。そもそも今日は何日だろう。意識を失ってからの経過時間が知りたかった。


「ねえ」


テーブル上で揺れる透明。ペットボトルを置いた彼が振り向く。


「私、どれくらい寝てた?」
「あー……五時間くれえか?」
「五時間……」


なるほど。どうりで外が静かなわけだ。まだ日付が変わって数時間。夜というには明るく、朝と呼ぶには些か早い。

……まあ、それならそれで今日は休み。明日の欠勤連絡は昼でいい。むしろその方が、朝一番より信憑性が上がるというもの。電話口の言い訳は、蓄積された疲労が一気にきました、で事足りる。たとえ疑われても、労働基準を真っ向から無視した連日勤務と残業を乗り越えた後。文句は言われまい。


「有難う」
「ん?」
「運んでくれて、居てくれて……」


服も、と付け足せば彼は瞠目した。拍子抜けしたような呆れたような、なんとも微妙な表情で息を吐き「術師にしちゃぁズレてんだよな……」と首裏を掻いた。