浅い残響の住処
術師。
懐かしい響きだと目を伏せて「違うよ」と否定する。
「あ? 反転術式使えんだろ?」
「形だけね。出来損ないなの」
つい前のめりになってしまう自嘲を押し殺した声は、我ながら、いつになく淡然と口から洩れた。
やはり呪術関係者。一般人に紛れて暮らす普段ではとんとご無沙汰な名称が、草臥れた感傷を呼び寄せる。遠い昔、忘れたくても忘れられない日々の虚無が、胸の端をガジリと喰らう。痛いのか、辛いのか。もう感覚など麻痺してしまって良く分からない。涙はとうに枯れていた。
ふーんって相槌を尻目にベッドからおりる。
ふらつく足で床を擦り、引き出しから掬い取った部屋着を手に進んだ洗面室。バスマットが湿っているのは、きっと彼のせい。カゴには濡れたタオルが引っかかっていて、洗濯機のランプは点いたまま。きっと彼の仕業。ペットボトルを取りに行った時の淀みない足取りを思い出す。どうやら随分勝手な男らしい。そりゃそうか。女には優しいと言っていた。おまけにあのルックス。引く手数多であろうことは想像にかたくない。他人の家だろうと女の部屋だろうと、関係なんてないのだろう。別に使うのは構わない。ただ電源くらいは切っておいて欲しいと指を伸ばす。ピッ。
「……はぁ」
扉を閉め、シャツを脱ぐ。あちこちに水滴が残る浴室内。せり上がる吐き気を呑み込んで、ぬるいシャワーを浴びた。
髪を乾かしてから部屋に戻ると、彼は転がってテレビを見ていた。クッションへ片肘をつきながら一瞥を寄越し「気にせず寝ろよ」と、ひらひら手を振る。どちらかというと、それは私の台詞のような気がするけれど、まあどうでもいい。お言葉に甘え、水分補給をしてからベッドへ上がった。
枕にふわふわのタオルを敷いて沈み込み、ほうっと息を吐く。自分の部屋に誰かが居るっていうのは、変な感覚だった。慣れていないのは元より人を家に入れることすら、もしかしたら初めてかもしれない。ずっと独りだった。世話係の式神が消えてからというもの、自分以外との関わりなんて仕事だけ。仲の良い友人は疎か、連れ立って出かける異性も居やしない。
視界下方、黒い後頭部をぼんやり眺めていると枝豆色が振り向いた。
「なんだ。寝れねぇのか?」
「そんなことないよ」
「顔真っ白だぞ」
「だろうね」
「吐きそ?」
「ううん、……大丈夫」
答えながら自分自身に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。相変わらず頭は痛いし胸の辺りもなんだか気持ち悪いけれど、身綺麗になったからだろう。気分は薄ら晴れていた。肌から香るホワイトピーチが心地良く、艶やかな低声も悪くない。唯一多少煩わしかったテレビ音も、やがて途切れた。面白い番組がなかったのか、あるいは対象興味が移っただけか。
のっそり起き上がりベッド脇へと座り直した彼は、その無骨な指で私の髪をゆるゆる梳いた。
「……お腹、ちゃんと治った?」
「おう。おかげさんで」
「そう」
やけに手慣れた優しい撫で方。無遠慮なようでいて繊細で、たとえば犬や猫を扱うよう。
自然と凪いだ心拍に、ただただ呼吸を繰り返す。「何も言わねぇんだな」って呟きに「洗濯機の電源は切っといてね」と、閉じた瞼を持ち上げる。枝豆色が丸まって、それからふ、と軽く笑った。
「よりによってそれか」
「他に何かある?」
「色々あんだろ。家入んなとか勝手に使うなとか帰れとか」
「あー……」
「ねえのかよ。居着くぞ」
耳裏をすりすり愛でられて、擽ったさに身を竦める。笑い混じりの口振りだった。片口を引き上げた、なんとも意地の悪い笑み。
余裕綽々とした態度が癪で、何か言ってやろうかと模索する。けれどどこを探してみても、自責の念が邪魔をした。やはり迷惑をかけた身。彼が全くそう感じていなくても、救われているのは事実だった。
「オマエ生まれは?」
「? 埼玉だけど」
「そうじゃねぇ」
乱した髪を整えるよう頭の丸みを撫で下ろした温もりが、首筋へと着地する。動脈が温まり、程良い重みにどうしたって安心感が膨らんだ。
「術師の家系か?」
「……、うん」
少し逡巡したけれど彼が一般人でない以上、別段隠すことでもない。どうせ役に立たない力と一切合切使えない体。生まれ持った自分の術式さえ定かでなく、家とは既に絶縁状態。何を知られたところで、私に利用価値はない。何も生まない無駄な命。
「御三家って知ってる?」
「……ああ」
「その分家の……まあ下請けみたいなところの、妾の子」
一瞬揺れた空気を吸い、瞼を下ろす。細く長く息を吐く。
「なんでか反転術式しか使えない……そのくせ体が弱くてこうなっちゃうから小さい頃に捨てられた――っていうか、なかったことにされた、かな」
脳裏に浮かぶ失望だらけの遠い過去。失敗作と嘆かれて、出来損ないと蔑まれ、最終的には生まれなかった命とされた空っぽな記憶。いっそ殺してくれれば良かったものをおざなりな式神を一体つけて、この殺風景な雑居ビルへ隔離した。理由は知らない。あの頃は、推察出来るほどの歳じゃなかった。
まあ少なからず誰かの良心が作用して、そうするしかなかったのだろうと今は思う。希少価値がある反転術式使用者。それも、これから料理し放題の幼子だ。本家の役に立つ為、優秀な術式を欲する分家に知れてしまえば、上手く育てられない能無し一家と鼻で笑われ監視が一層強まるに違いない。新生児は全て差し出せと強制されるか、最悪クビを切られかねない。彼らはそれを何より恐れていた。まるで世界の終わりみたいに。だから別に憎んじゃいない。だって何も悪くない。強いていうなら、そういう世界で中途半端に生まれてしまった私が罪。
「呪霊が見えても祓えない。だからただの一般市民と同じ。探る腹もないよ」
安心して、と言いかけやめる。家主が言うのは、なんだか違う気がした。けれど開いた口を閉じるのは憚られ、代わりに「あなたは?」と重い瞼を僅かに開く。傷を携えた唇が「甚爾」と、ぽつり。
何を答えてくれたのか分からないまま復唱し、ああ彼の名前かって理解した。
「術師じゃねぇが似たようなモンだ」
首から浮いた手のひらで、視界をやんわり塞がれる。真っ暗闇で、形を持たない彼の声がじんわり泥む。
「安心しろ」
なんでかなあ。根拠も何もないってのに、こんなに落ち着いてしまうのはなんでかなあ……。
久し振りの人肌か、耳馴染みのいい低音か、それとも凪いだ声色か。ぽかぽかとした波打ち際で、ゆっくりゆったり微睡むよう。再び閉じた視界の外。私の髪を梳く指は、上手に意識を浚っていった。