北××荘 101号室



清掃と朝礼を終え、メールチェックへ移行。片田舎の弱小企業といえど仕事は毎日そこそこくる。というのも、看板を掲げて大々的に宣伝している一般的な不動産売買業以外に(主に私が不本意ながら)生業としている特殊分野があるからだ。



クライアントからの依頼をダブルクリック。別窓で開いたそれに目を通しつつ、spamメールを迷惑リストへ振り分ける。【株式会社宝見不動産 売買営業部 みょうじ様】いつも大変お世話になっております、なんてビジネス定型文をなぞっている内、真ん中あたりで漸く出てきた物件名に手が止まった。

【"北××荘101号室"につきまして】

ああ、きたよ……きたきた。

思わず洩れそうになった溜息を呑み込む。社長は昼からしか来ないけれど他三人がまだデスクに向かっている朝一番、まさか陰気な空気を伝染させてしまうわけにいかない。グッと我慢しながら左手前方、固定電話の受話器を持ち上げる。取り敢えずアポイントをとらねばと、発信ボタンに続いてメール最下部記載の代表番号を押した。







―――"北××荘"

その名が挙がったのは約一ヶ月半前。何社か抱えている得意先の一つである管理会社との電話口。担当さんは毎度お馴染み愛想の良い女性で、確か解決済み案件のお礼ついでだった。


『そうそう、これオフレコなんだけど"北××荘"で仏さん出てさ。高齢だったし普通に老衰っぽいからハウスクリーニングかけるだけの予定なんだけど、もし何かあったらお願いね〜』


つまり"何かあった"から依頼がきているわけで、更に直通アドレスとなれば、その"何か"が他では扱っていない特殊分野に該当するだろうことは想像にかたくない。そして勿論私が担っている仕事内容ドンピシャなわけだけれど、実はこれがとってもとーっても苦手な、所謂"心霊関係"だった。

孤独死・事故死・自殺や他殺等、あらゆる理由で借り手や買い手に困っている通称"事故物件"は少なくない。その中でも心霊現象が起こっている建物を見に行き、呪霊を発見した場合、祓うことを仕事としている呪術師を呼ぶ。まあ早い話が祓い屋と民間人の仲介役。苦手。……いや、まあやるんですけどね。優秀な人材ばかりが揃うこの職場で生きていくためにも、月給+成功報酬型お賃金なんて世知辛い世の中で夢を叶えるためにも泣く泣くやるんですけど。だって広いお庭付きの新築住宅でおっきいワンちゃん飼いたい! 毎日もふもふしたい!!

ってなわけで繋がった電話でアポイントを取り、他の依頼メールは甘谷くんに頼むもとい押し付けてカバンを引っ掴む。はたと思い出したのは未署名の書類。そういえば五条さんの押印待ち書類がまた溜まってる。どうせ出掛けるついでだし、帰りにちょっくら寄ってこよう。A4ファイルを追加で詰め、皆からの「行ってらっしゃい」「気を付けてねー」「事故んなよ」って声にいざ行かん。

みょうじなまえ、今日も元気に行ってまいります!







2階建瓦屋根の木造アパート。故人は92歳の男性。少々痴呆気味。ゲートボール仲間から連絡がとれないと報告が入り、安保確認に訪問したものの反応無し。僅かな異臭もあったため、警察立ち合いのもと破錠。入居者は布団の中で眠るように亡くなっており死後一週間ほど。シーツが吸水材代わりとなったおかげで建物自体の汚損は殆どなく、荷物撤去後ハウスクリーニングのみ施工。現在空室。入居者絶賛募集中。

現地で待ってくれていた仲介兼管理会社の営業さんの話を玄関前でノートに記す。布団の状態まで詳しく説明してくれようとするものだから慌てて遮り―――だって死人の体液でぐちゃぐちゃだったなんて聞きたくないし、聞かなくたって分かる。これでも専門家だ―――早速鍵を開けてもらった。

玄関は靴が3つ並ぶか並ばないかくらいの狭さで廊下右手に簡易キッチン、反対側に水廻りへ続く扉が一つ、奥に6畳の和室。いかにも一人暮らし、といった間取り。さすがに経年劣化は窺えるものの、彼が言った通りクリーニング後なだけあって、未清掃の物件よりは遥かに綺麗だった。


「有難うございます。経緯は良く分かりました。で、弊社へご依頼頂くに至った理由もお聞かせ願えますでしょうか?」


脱いだパンプスを端に揃え、ご丁寧に用意された案内用だろうスリッパへ履き替える。依頼メールに怪奇現象の報告はなかった。まあ社内のデータ文にオカルトチックな眉唾ものを残しづらい、って気持ちは十二分に理解出来るので良しとして、私にとっての最重要部分はそこだ。

先に和室へ足を踏み入れた営業さんは、掃き出し窓の向こう。光を遮っている雨戸のロックをしゃがんで解除しながら、渋い顔で吐息をこぼした。


「いやね、実は告知してないんですよ。客に。老衰だし綺麗だし、一週間って結構微妙なラインじゃないですか。でも一応、なんか言われたら嫌なんで賃料は下げてるんです。だから問い合わせもそこそこあって何組か案内したんですけど……結構言われるんですよ」


―――"庭にいるのはオーナーさんですか?"って。


賃貸物件の案内中。同じ空間に存在するのは仲介業者である営業一名と内見希望の客一組。極たまに家主であるオーナーが立ち会うこともあるけれど、基本的に仲介料を支払う心積もりで業者へ任せているのだから、わざわざ表立って面倒なことをしようなんて思わない。そもそも業者側も営業がし辛く、そういった申し出があってもやんわり断ることが殆ど。

この物件も例外ではない。

いくら一階とはいえ目隠し用のフェンスで覆っている、しかも、ちゃんと鍵が掛かっていた空室の庭にいるなんて有り得なかった。それでも聞かれるのだと言う。中には急に玄関を振り返り「今、誰か通りましたよね……?」と眉を顰める客もいたらしい。人一人分の幅しかないこの廊下で、擦れ違った、と。


「僕は何も見えないし感じないんですけど、別営業が来た時も"何か風呂場にいます"って嫌そうにすんですよ。さすがに借り手もつかないし、妙な噂が広がったらそれこそ大変なんで、どうかお願いしますって感じです」


立ち上がった彼の手が雨戸に掛かる。錆びているのか、ギィ、と嫌な音を立てて開いた先。


「………」
「……?」


いた。


「………」
「みょうじさん?」


3畳分ほどの小さなお庭。その中央に佇む、間違っても"オーナーさんですか?"なんて聞けやしない、異形の物体。

大小様々な風船が結合したように膨れ上がった暗赤褐色の体表はところどころ黒く変色し、背中側半分は溶けてドロドロ。かろうじて老人であることが窺える白髪が、頭部と思わしき箇所へ申し訳程度にくっ付いている。内側から押し出されたように突出している目玉は遥か頭上を仰ぎ、焦点はない。

一般市民には"アレ"が人に見えるんだろうか。いや、そもそも彼らに異形の物体―――呪霊を見る力なんて備わっていやしない。ただ故人や遺族の残留思念が五感へ何らかの影響を及ぼし、幽霊という名の幻を認識させているに過ぎないのだろう。


陽の光を全身に受け、日向ぼっこをしているようにも見える"ソレ"が一歩、びちゃっと踏み出す。未だきょとんとしている営業さんの左肩を擦り抜け、ゆっくりこちらへ向かってくる。


びちゃ、びちゃ――……
びちゃ、ぴちゃ――……


「―――ッ」


鼓動が早鐘を打つ。引き攣る喉から飛び出かけた悲鳴を呑み込めたのは、培ってきた経験と努力の賜物。震える指先で胸に抱いたノートを握り締め、棒のような脚に鞭打ち後ろへ猛ダッシュ。


「え、みょうじさん!?」
「っ!」


最早営業さんの声など気にしている余裕はなかった。だって怖い。キモいしグロいし無理。あんなの絶対無理ムリむり!


スリッパのまま玄関から飛び出し、敷地の端にある垣根まで全力疾走。あの気持ち悪い音が背後からしないことを確認しつつ一も二もなく取り出したのは、命綱同然のマイスマホ。

ホームボタンを押した画面左下。緊急の二文字をタップし、発信・着信共に親より多い11桁の番号を呼び出す。2コールで応答したのは、ややお疲れ気味の聞き慣れた声。途端、ドッと押し寄せた目いっぱいの安堵は、社会人としての面子も体裁も何もかもを丸っとかなぐり捨てるに十分だった。


『どうしました?』
「ぅ"ぅ"〜〜っ! 伊地知さぁぁぁぁぁん!!」
『っ、またあなたは耳元で大声を……みょうじさん、大丈夫です。落ち着いてください』
「うえ"ぇぇムリです"〜〜っ」


響き渡った私の濁声に、何だ何だと近隣中の窓が開く。通行人がビックリ顔で立ち止まり、後を追ってきた営業さんもギョッとする。でもそんなの知ったこっちゃない。私は今それどころじゃない。伊地知さんの声がするだけのスマホに縋りつきたい気持ちで満杯だし、鼻の奥もツンとする。なんならもう泣いている。


『大丈夫ですから落ち着いて下さい。呪霊は近くにいますか? いませんね? 直ぐに手配しますので、もし危険でしたら安全な場所まで移動して下さい。呪霊の予測等級は分かりますか?』
「ん"〜〜四級ですた"ぶん"! 害無さそうなので! でもめちゃくちゃ気持ち悪いです……っ」
『分かりました。すみませんが一旦電話は切りますので、位置情報の送信を忘れずお願いします』
「ぐす……伊地知さん……」
『はい、何でしょう?』
「判子……」
『……善処します。では』


鬼の早さで静かに終話。さすがは頼れるパシ―――おっと口が滑った頼れる男伊地知さん。判子、の一言だけで"押印書類がたんまり溜まってそろそろ経理に、何も締めらんねえだろが判子もろくにもらってこれねえのかオラオラ、って詰められる―――これがまためちゃくちゃ怖い―――ので、出来れば五条さんを呼んできて欲しい”って私の切実な願いを汲んでくれたらしい。

ふう、と一つ息を吐く。漸く落ち着いたところで振り向けば、営業さんの目が点になっていた。ごめんなさい。そういえば現場でした。


「申し訳ありません、取り乱してしまいまして……」
「いえ、あー……やっぱり、その……」
「残念ながら……でもご心配には及びません! 専門家を手配いたしましたので、妙な話とは今日でお別れです」
「はあ」


どうやら見えないだけあって興味はないらしい。良かった。根掘り葉掘り聞かれるよりも楽で良い。

とりあえず営業さんの後ろについて、玄関まで戻る。置き去りになっている私のパンプスにそそくさ履き替え、再び外へ。室内は見ない。見たくない。呪術師と一般スタッフの対面は出来るだけ避けた方が良い―――だって仮に五条さんが来たとして、白髪に目隠しって出で立ちだ。普通に引くし完全に不審者。私まで変な目で見られかねない―――ので、すみませんと頭を下げる。やっぱりさして興味がないのか、いえいえお構いなくと言ってくれた営業さんに鍵の預かりを申し出た。結果、同業者だしあっさりOK。鍵はパイプスペース内のキーボックス、戸締りさえきっちりしてくれれば問題ない、とのことだった。そして帰っていった。神か?







黒い車が現れたのは、それから少し。思っていたよりも早いご到着でみょうじはもう大歓喜です。良かった今日は定時で帰れる! しかも助手席から出て来たのは、なんとなんと待ちに待った五条さん! もちろん判子的な意味で。有難う伊地知さぁん!


「やっほーハンコちゃ〜ん」
「お疲れ様です五条さん!」
「はい、お疲れサマンサー」


陶器の如く白い手をひらひらさせた五条さんに、すかさずカバンから引っこ抜いたA4ファイルをスタンバイ―――しようと思ったわけなんだけれど、あれ? あれれ? 一人じゃない……?

後部座席からおりてきた、ピンクと黒のツートン髪に視線を向ける。高専の制服に赤いパーカー、赤い靴。日に焼けた健康そうな肌色は正しく高校生!って感じで、綺麗なお顔の伏黒くんとは正反対。ぱちりと合わさった大きな瞳が瞬いた。


「そう言えば初めてだったね。紹介するよ。新入一年生の悠二」
「こんちは。虎杖悠二です!」
「こっちは不動産屋のハンコちゃん」
「はん……?」
「っちょっと五条さん! 紹介くらいあだ名やめてくださいもう!」
「あっははは痛い、痛いよハンコちゃ、ゴメンゴメン」


人より高い位置の腰―――くそぅ、いつ見てもスタイルがいい―――をぺしぺし叩いて抗議すれば、乱暴だなぁ、なんてちっとも痛がっていない声が遥か頭上に浮いては消えた。

気を取り直し「宝見不動産・営業のみょうじなまえと申します。よろしくお願いします」と、光の速さで装備した名刺を差し出しながら頭を下げる。つられたのか腰を屈めた虎杖くんは、しっかり両手で受け取ってくれた。しかも「俺名刺もらったん初めてかも!」なんて嬉しそうな笑顔付き。

え、可愛い。控えめに言って凄く凄く眩しいし、めちゃくちゃ可愛い。え? カワイイ……最早大型犬にしか見えない。どうも、と素っ気なく片手で掬った伏黒くんとは本当に全然全く違う。いや、彼は彼で懐かない猫ちゃんみたいで大変良きです。

でも五条さん。お願いですから「ど? 握手でもしとく?」とか、毎回そんな軽々しく言わないで下さい五条さん。私の心臓止まります。アーッおやめ下さいお客様! 状態ですマジで! なんせもうとっくに未成年を卒業している身。いくらチンチクリンに見えようと、男子高校生に触れるだなんて言語道断。捕まりますのでお控え下さい。


「それより五条さん! 呪霊と判子! 書類はたん〜〜っまりあるので! 今日こそ押印お願いします!」


呪霊はあっちと扉を指せば「悠二GO!」「押忍!」、番犬よろしく虎杖くんが向かっていった。元気だなぁ。害無し低級呪霊とはいえあくまで素人判断なのに、新入生一人で大丈夫かな。一般市民の安い心配は、自身のポケットを叩きながら判子を探す五条先生の声で晴れる。だいじょーぶ、悠二強いから。

それならそれで、私は私の仕事へシフトするとしよう。ついさっき取り出し損ねたA4ファイルをカバンの中で引っ掴む。


「あー、ハンコちゃんハンコちゃん」
「はい何でしょう?」
「ごめんね」
「ん?」
「今日判子ないわ」
「…………キョウハンコナイワ?」
「うん」
「ウソでしょ」
「ホント。また今度持ってくよ」
「……や、」
「や?」
「やだああぁぁぁぁ〜〜〜〜っ!!!」


日が暮れてきた住宅街に、私の叫換がこだました。本日二回目。おのれ五条悟。遺憾の意。



/北××荘 101号室 fin.