ヒイラギが帰宅した後、謝罪しなくてはならない事があると言えば彼女は不思議そうな顔つきでサヨを見つめた。
 そしてサヨが正直に昼間の暴れ馬の一件と買い物を駄目にしてしまったことを話せば、ヒイラギは一瞬きょとんとした後「ああ、そう」と気にした様子もなく応える。

「大丈夫だった?怖かったでしょう」
「はい。でも親切な方に助けていただいたので」
「良かった。無事で何よりだわ」

 そして彼女は今、サヨの用意した夜食をつまみながら雑誌を読んでいる。
 ヒイラギの性格からして訳を話せば理解してくれると思っていたものの、こうも呆気ないとサヨは拍子抜けしてしまった。

 また気のせいかもしれないが、いつもとヒイラギの様子が少し違う気がするのだ。
 どこか気落ちしているというか、疲れているのか。サヨは彼女に違和感を感じていた。

 何か温かい飲み物でも用意した方が良いだろうか。
 そう思い甘い卵酒を作って彼女のもとへ持っていけば、それを見てヒイラギはふと笑った。

「なあにそれ。私は怒ってないから、そこまで気を回さなくても大丈夫よ」

 サヨのご機嫌取りだと思いヒイラギはくすくす笑いながら湯呑みをとる。

「あの、少し元気がないようでしたので」

 しかしそんなサヨはと言えば、おそるおそるヒイラギの様子を指摘した。
 内心、出過ぎた真似をしてしまったかもしれないと恐々としていたわけだが。

 するとヒイラギはサヨが俯いて顔を逸らしている内に目を丸くさせる。

(確かに今日は監督と少し言い争っちゃって疲れちゃったけど、そんなに顔に出てたかしら?)

「そう見えた?」
「気のせいでしたら良いのですが、何かあったのではと思って」
「そう」

 そして手に取った卵酒に口を付ける。

「甘いわね。美味しい」

 そう言えばほっとした様子で胸を撫で下ろすサヨを見て、ヒイラギはぼんやりと昔のことを思い出していた。

 

◆◇◆

 

 初めてサヨという少女に出会ったのは二年前。

 ふらふらと夜の繁華街を歩いていた彼女をたまたま巡回中だった憲兵が保護したそうだ。
 セーラー服の女学生の格好に立ち振る舞いも丁寧な少女はどう見ても良家の出の子女だった。

 けれどいくら身寄りを聞いても何も応えることはない。
 しかしその代わりに、彼女は自分のいた場所の地名や年号などを聞いてきたらしい。

 その様子に事件性を感じ捜査をすると、彼女はとある財閥の会長の隠し子であることが発覚したのだ。
 情報元であるその財閥一族の使用人から話を聞けば、サヨの母親は年老いた会長の情婦だったらしい。

 当時一族に子供がいなかったことから仕方なく彼らはサヨを家に置いていたのだが、これまた扱いも酷いもので。
 女学校へ通わせてはもらっているものの家に帰れば召使いのような扱われたのだ。
 会長の男も、そしてその情婦であった母親も病気で亡くなり、彼女は一人疎まれながら生きてきたらしい。

 しかしそんな中、つい先一族に待望の男児が産まれたそうだ。
 財閥一族は大層喜んだそうだがここで厄介になってくるのはサヨの存在。
 そして彼女もそれを感じ取ったのか、それとも長年の苦しみにとうとう耐えきれなくなったのか。身一つで家出をしてきたのだろう。

 サヨ自身何も話そうとはしなかったが、当時彼女の処遇を一任していた軍の部署はその推測に落ち着いた。

 おまけに恐らく長年の精神的な疲労から病んでしまったのか、一部記憶が朦朧としているように見受けられる。
 憲兵に保護されてから彼女は何も語ろうとしないし、一族の人間もこれを機に彼女と縁を切ろうと口を一切割ろうとしない。

 こんなことを公にさせるわけにはいかないし相手は国の経済を担う財閥の一族だ。
 サヨを保護した軍の部署はそんな彼女をもちろん持て余した。

 ───しかし何故かここで紆余曲折を得て、なんとヒイラギのもとに彼女はやってきたのだ。

 当時恋仲だった軍の男が外旋してきたためである。
 確かにその頃ヒイラギには手伝いの女中はいたものの、盗み癖があったためにどうにかできないか彼に相談していた。

 しかしいくら何でも、そんな面倒くさそうな人間を家に上げるなんてできない。
 
 一応雇い主になるかもしれないとのことで財閥名などの一部の情報は伏せられ説明されたのだが、彼女の事情はどう考えても厄介であるし何ならもう全て聞かなかったことにしてしまいたかった。

 けれど当時の恋人に頼み込まれ、しぶしぶ試しに一週間という期限付きで雇ってみたのだが存外サヨはてきぱきと働いた。

 長年酷い扱いを受けてきたそうだがそんな影も見せることもなく、また性格も変に捻くれていない。
 おまけに彼女はよくヒイラギを見ており、気分が滅入っていると表には出してないにも関わらず気にかけてくれるのだ。

 そして一週間、一ヶ月、三ヶ月、と雇用期間が長引いていき、気が付けば彼女が隣にいるのが当たり前になってしまっていた。


 

「どうかいたしました?」

 サヨをじっと見つめて物憂げな顔をするヒイラギに尋ねる。
 先程までこの目の前の少女の過去に思いを馳せていたヒイラギはぼんやりと応えた。

「何でもないわ」

 けれどヒイラギは知らないだろう。

 今まで苦労して生きてきた少女の中身が、実は平成の世に生まれた少女の人格であることを。
 


◆◇◆

 

 あくる日、とっぷりと日は暮れ稽古帰りのヒイラギを屋敷で待っていると、彼女は隣に男を連れて帰宅してきた。

 そこまでならたまにあることなので何も驚かないが相手の男はなんと、金髪翠眼の外国人だった。
 イギリスからはるばる日本にやってきた男の名は『エドワード』でヒイラギの友人だと言う。

 そしてサヨが台所に戻り居間で待っているだろう彼らにお茶を淹れていると、後ろから男の声が飛んできた。

「君がサヨだね。ヒイラギからよく聞いてるよ」

 振り返ってみると、台所の戸を開けてイギリス人の男が一人立っていた。
 あまりにも流暢な日本語で話すものだから驚いていると、彼は戸を閉め台所に入ってきた。

 いつの間に来たのだろう。というよりヒイラギはどうしたのだろうか。
 それとも、もしかしたら待ちくたびれてやって来たのかもしれない。

 慌てて頭を下げようとすれば、エドワードは「いいよ」と言って制止した。

「ヒイラギから預け物をしていてね。彼女は今それを取りに行っているよ。それで暇になってしまったものだから、来ちゃったんだ」

 そう肩をすくめながら朗らかに笑うエドワードは彼女のすぐそばまでやって来る。

「私の娘と同じくらいだったんだ。もう今はいないけどね」

 そしてサヨの丸い頭を小さい子供にやるように撫でてきた。
 ぽかんとしたまま彼女は固まっていると、それがまたツボに入ったのか彼は楽しそうに笑う。

「ヒイラギが言っていたよ。よく働いて、気にかけてくれるって」
「え?」

 ヒイラギに何となく良くしてくれるとは思っていたが、他人にこうやってサヨのことを話しているとは思わなかった。

 するとエドワードは何か閃いたのか、スーツの裏ポケットから名刺入れくらいのケースを取り出した。

「良かったら君にこれをやろう。ヒイラギにでも渡そうかと思ったんだが、生憎可愛すぎるからね。君の方が似合うだろう」

 そう言って渡されたのは小さなコンパクトミラーだっだ。
 銀色のそれは表面に薔薇の装飾がされており、ビーズのような色ガラスが散りばめられている。

「こんな上等なものもらえません。勿体無いです」

 ぎょっとし慌ててエドワードに返そうとするが、彼は両手を上げながら茶化すように言う。

「いや、持っていても仕方ないしね。それにこう見えて大したものじゃないんだ」
「でも」
「彼女には内緒だよ」

 そう言ってさり気なくサヨの手に小さなコンパクトミラーをのせる。
 そんなエドワードにサヨはどうしようかと戸惑っていると、台所の戸が開く音がした。

「あ、こんな所にいたのね!あら?どうかしたの?」

 そこにはヒイラギがきょとんとした顔で立っていて、手には革でできたキーケースが握られている。

「いや、何でも。噂のサヨと話していたんだよ。君の事で」

 コンパクトミラーを手にしたサヨを隠すようにエドワードは振り返る。
 その際サヨに対してお茶目にウィンクしてくるものだから、おずおずと彼女は腰エプロンのポケットにコンパクトミラーをしまった。

「ちょっと、サヨちゃんに変なこと教えないでよね。あと、はい。舞台の客席に忘れてくなんてエドワードも意外と抜けているのね」
「悪いね。今度何か食事でも奢らせてくれよ」
「もう」

 そう言ってヒイラギは仕方なさそうに笑う。

 サヨはエプロンのポケットに入れたコンパクトミラーがずしりと重く感じた。

 

◆◇◆

 

「何かあったのかい?」

 翌日、ヒイラギに言われ馴染みの菓子屋でカステラを買いに行くと、店の会計所で店員の男に話しかけられた。

 この男は『吉木』という。
 顔馴染みの彼は、定期的にこの菓子屋のカステラを買いに来るサヨに良くしてくれた。
 最初の頃はこの時代の、この場所に慣れず、サヨは毎日不安で仕方がなかったが菓子屋の店員の吉木はそんなサヨに対して親切にこの街について教えてくれたのだ。

 やれ「あの八百屋は値段が安い」だとか「あそこの肉屋は質が悪いからちょっと歩いてでも違う所に行った方が良い」だとか。

 まるで兄のように吉木という男は面倒見よくサヨに構った。

「何かって、どうしてですか?」
「気のせいだったら良いんだけど、ちょっとサヨちゃんが落ち込んでいるような気がしてさ。噂で聞いたんだけど、サヨちゃん、馬車に轢かれそうになったんだって?大丈夫だった?」

 レジにもたれ心配そうな顔をして吉木が聞いてきた。

 確かに以前は馬車の件に対して参っていたが、今は昨晩屋敷に訪れたエドワードについて気にしていた。

 あのコンパクトミラーは今、屋敷のサヨの部屋に置いてある。
 あれはやっぱり、エドワードに返さなくてはならない気がした。

(せっかくもらったけど、やっぱり申し訳ないし。でも、返すのって反対に失礼にあたるのかな。もう一度会った時に話してみて、それでも貰っても大丈夫って言われたらありがたく頂こう。だけど何て言おうかな……)

 頭の片隅でぼんやりと考えながら吉木に対して答える。

「大丈夫でした。危なかったところに親切な人に助けていただいて、怪我もありませんでしたし」
「そっか。それなら良かった。でも本当に大丈夫?相談とかじゃなくても、色々話とか聞くよ?サヨちゃんは思ってても溜め込んじゃう性格だし」

 そして吉木が人の良さそうな笑顔で言った。
 サヨはこの彼の笑顔で何度も救われたのだ。

「そういえば、吉木さんも何かありました?」

 すると吉木が「ん?」と穏やかな顔で聞き返す。

「何かって?」
「吉木さん、ちょっと嬉しそうな顔してたから」

 サヨ自身よく分かっていないところがあるのだが、以前カステラを買いに行った時の吉木と少し雰囲気が違う。
 いつもより多く、彼は朗らかに笑っているような気がしたのだ。

(何でだろう。ちょっと気になるような、ならないような。良いことでもあったのかな)

 すると吉木がそんなサヨに対して困ったように苦笑しだす。

「そりゃあ、馬車の噂を聞いてたからね。サヨちゃんがこの店にやって来て、無事な様子だったから安心したんだよ」
「そうだったんですね。ご心配おかけしました」

 そう言って眉を下げて笑う吉木にサヨもつられて笑い出した。


 

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