半年前、軍に所属する人員の配置について書かれた機密文書の内一枚が盗まれたらしい。
その容疑者として挙げられたのが日本に出張と称してやって来た貿易商の英国人『エドワード・スミス』だった。
結城中佐の口から伝えられたそれを聞きながら、三好は手元の書類を見つめた。
───エドワード・スミス
趣味は演劇鑑賞で休日には頻繁に舞台に足を運ぶ。
交友関係は決して狭くなく、月に一度仲の良い者を集めてはホームパーティーを開く。
最近ではR座の看板女優『ヒイラギ』を気に入っており、頻繁に家に招いているそうだ。
「参謀本部からの依頼だ。文書の在処と奴に協力している日本人内通者を洗い出せ」
結城中佐の言葉に頷き、三好はさてどうするかとぼんやりと思案した。
◆◇◆
英国大使館の職員に、先日日本に戻ってきた外交官。
エドワードに協力している内通者の存在はある程度洗い出した。
しかしエドワードが盗み出したという肝心の機密文書が一向に見つからない。
業者に装い彼のアパートや内通者の家に忍び込んで探していたものの、目星をつけていた所には何もなかった。
彼がスパイであるということは調べもついているが、肝心の証拠がなければ意味はない。
そこで不意にエドワードの気に入っている舞台女優ヒイラギを思い出す。
彼女は頻繁に彼のアパートに出入りしている上に過去に軍の男と付き合っていた経歴があった。
しかし彼女がエドワードと知り合ったのはほんのつい最近の事であり動向を調べていくと、早い段階で彼女が白であると分かった。
(もう一度調べてみるか)
これまでトントン拍子に事が進み過ぎていて妙な違和感も感じる。
おそらくヒイラギの周辺で何かあるのかもしれない。
───そして三好はD機関に用意された人物『吉木』に成りかわった。
ヒイラギが贔屓にしている菓子屋の男なのだが、個人的にも彼女と仲が良くたまに相談相手として外で会うこともある。
またヒイラギの屋敷に勤める女中の少女とも仲が良く、菓子屋に買い物に来る彼女に対して兄のように構っていた。
ちなみに本来の吉木は陸軍に徴兵され、今はもう日本にいない。
(文書があるとしたらヒイラギの屋敷か?奴も薄々憲兵を通じて疑われていることに気付いてるだろう。自分の手元にあるとは思えない。ヒイラギとの接触が増えた今、文書は彼女のもとにあるのか)
先日、稽古帰りのヒイラギに偶然会った体を装って彼女を喫茶店に連れて行った。
その時に遠回しにエドワードのことを聞いたのだが、決して深い仲を匂わせるようなことはなかった。
どうやら良き話し相手として関わっているらしい。
「エドワードってあんまりそういう目で見れないのよね。それに今ってそれどころじゃなくて色々あって忙しいのよ」
「忙しい?何かあったんですか?」
「大したことじゃないけれど舞台の方で色々あってね。今度演出の方もやってみないかって言われてて、本気かは分からないけどそれでちょっと忙しいの」
「へえ!すごいじゃないですか!じゃあ今は舞台の方にかかりっきりなんですね」
「えぇ。でもどうなるかは分からないけどね。でもやっぱり大変よ。ついつい言い合いになっちゃったりするし」
ヒイラギが屈託なく笑う。
普段の妖艶な雰囲気を纏う彼女は時折こうして少女のような顔をする時がある。
色恋の多い女性だがこういったところも彼女の魅力であり男を惹きつけるのだろう。
ヒイラギが最近舞台の方で忙しく働いているのは事実だった。
夜遊びは控え、恋人のいない今は仕事一辺倒のようだ。
「それで家に戻ると、やっぱり機嫌悪いのサヨちゃんにばれちゃうのよね。この前なんか顔に出さないようにしてたんだけど、気付いたみたいで卵酒用意してくれちゃって」
「ははっ、そうなんですか?やっぱりまだ子供だと分かるんですかね」
「そうよねえ。やっぱり分かるものなのかしら」
ヒイラギの口から出た女中の少女サヨの情報を頭の中から引っ張り出す。
二年前からヒイラギのもとに女中として雇われた少女。
表向きは奉公と称してやって来たらしいが、正体は戦争によって巨万の富を築き上げた金井財閥会長の愛人の娘。
一族による長年の虐待から家出してきたところ憲兵に保護され、軍の知り合いの口添えでヒイラギのもとにやって来たのだ。
まだサヨとは会ってはないがいずれ会うことになるだろう。
「あの子、不思議なのよね。頭も良いし、結構あれではっきり意見を言う所が気に入ってるんだけど……。たまにすごく鋭くて、少し怖く感じる時もあるの」
「へえ、僕はあまり感じませんが……」
「そう?あなたもサヨちゃんとは結構仲が良いから気付いてたと思ってたんだけど」
「ヒイラギさんだからこそ彼女はよく見てるんだと思いますよ」
「そうかしら?まぁ、嫌な感じはしないけれどね。吉木君もいずれ分かるわよ。占い師みたいに見透かされちゃうんだから」
そしてヒイラギが猫のように笑った。
◆◇◆
エドワードがヒイラギの屋敷に招かれたらしい。
舞台の客席に忘れていったキーケースを取りに来ただけなのだが、もしかするとそのケースの中に文書が入っているのかもしれない。紙一枚程度なら折りたたんで入れることは可能だ。
菓子屋の会計所で吉木に成り代わった三好は先日得た情報を思い出す。
するとその時、菓子屋の扉が開きベルの鳴る音がした。
瞬時に本物の吉木のように人当たりの良い朗らかな笑みを浮かべる。
そこにはサヨの姿があった。
「こんにちは、吉木さん」
「サヨちゃんじゃないか。今日もヒイラギさんにカステラ?」
「はい。いつもありがとうございます」
「ちょっと待ってね。今包むから」
そう言うとサヨは控えめに笑って頷いた。
そして彼女はケースに置かれた洋菓子や砂糖漬けの果物の見本を見ながら、静かに吉木を待つ。
黒いワンピースに腰エプロンをかけた、女中の少女。
ヒイラギの言うように、この目の前の少女が恐ろしいくらいの鋭さを持っているとは思えなかった。
気付かれぬよう三好はサヨを観察してみたが、至って普通の子供のように見える。
しかし『いつも』の彼女ならば吉木に対してもう少し無邪気に振る舞うはずだ。
ここの菓子屋の他の従業員曰く、最初の頃サヨは借りてきた猫のように大人しく、行儀ばった様子だったらしい。
しかしそれが吉木にとって可笑しかったらしく、そんな彼女を構い倒していたようだ。今では本当の兄妹のように吉木はサヨを可愛がり、サヨも吉木に色々と相談して甘えている。
「何かあったのかい?」
そう聞けば、サヨは首を傾げた。
「何かって、どうしてですか?」
「気のせいだったら良いんだけど、ちょっとサヨちゃんが落ち込んでいるような気がしてさ。噂で聞いたんだけど、サヨちゃん、馬車に轢かれそうになったんだって?大丈夫だった?」
情報を集めていく上で知った、サヨが馬車の暴れ馬に轢かれそうになった事件を口にしてみる。
しかしそのことが明確な原因ではないらしく、少しぼんやりとした様子で答えた。
「大丈夫でした。危なかったところに親切な人に助けていただいて、怪我もありませんでしたし」
「そっか。それなら良かった。でも本当に大丈夫?相談とかじゃなくても、色々話とか聞くよ?サヨちゃんは思ってても溜め込んじゃう性格だし」
そう言いながら安心したように笑ってみせると、彼女もつられて口元をゆるめる。
するとしばらして、サヨは笑うのを止めて不思議そうな顔をして三好に尋ねた。
「そういえば、吉木さんも何かありました?」
それを聞き三好は首をかしげてみせる。
そして目の前の彼女は吉木に変装した三好をじっと見つめ言い放った。
「吉木さん、ちょっと嬉しそうな顔してたから」
サヨの丸い瞳が三好を捉える。
一瞬虚を突かれたが表には出さず、流れるように三好は答えた。
「そりゃあ、馬車の噂を聞いてたからね。サヨちゃんがこの店にやって来て無事な様子だったから安心したんだよ」
「そうだったんですね。ご心配おかけしました」
そう言って眉を下げて笑う三好に、サヨもつられて笑い出す。
いつも通りの『吉木』を演じていた自信はあった。
現にサヨよりも吉木と付き合いが長い菓子屋の従業員も気付くことはなかった。
───ちょっと嬉しそうな顔をしてたから。
そんな何気ない一言をサヨは意図せず言ったのだろう。
そしておそらく三好の変装にも気づいていない。
しかし吉木に変装した三好に、彼女が何か違和感を感じて言い放ったのは明らかだった。
『吉木』であることを意識してやり取りをしていたのが、反対に違和感を与えてしまったか。
けれどそんな些細な、それでこそ空気だとか雰囲気だとか目に見えないものを彼女は本能的に感じ取ったのだろうか。
ヒイラギの言った言葉が蘇る。
───たまにすごく鋭くて、少し怖く感じる時もあるの。
ヒイラギの感じているサヨの怖さとは、こういったところなのだろうか。
「はい、これ」
包み終わったカステラを渡すとサヨはぱっと顔を明るくさせ、手持ちの買い物袋から財布を取り出した。
封から香る甘い匂いに顔を綻ばす。
こうして見ると本当に街中を歩くごく普通の少女に見えた。
しかしそこで三好は彼女に対してあることに気付く。
長年虐げられ、家出までするような少女が果たしてここまで『普通』なものだろうか。
今日初めてサヨと出会ったわけなのだが、彼女のこのほんの僅かな得体の知れなささはどこからくるものなのか。
「ありがとうございます。それじゃあ」
「また来てね」
そう言って手を振れば、サヨは軽く頭を下げて菓子屋の扉から出て行った。
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