「おい、起きろ。おい」

 ───夜明け前の、閑静な小樽の住宅街。往来に建ち並ぶ木造住宅の中の小さな平屋の一軒家にて。
 その一室で布団に包まりながら寝ていたところ、私はゆらゆらと何者かに揺さぶられていることに気付いた。
 微睡みながら瞼をゆっくりと開き、分厚い掛け布団を少しだけずらしてみれば布団の真横にぬらりと一つの人影が浮かび上がる。
 窓から差し込む青い月明かりが逆光となって、それは影法師のように真っ黒に塗りつぶされていた。

「おい、起きたか?」

 その人影はぼうとする私を見て再び口を開く。
 この家には私以外住んでいる者はいない。それならば寝ぼけている自分に気安く話しかけてくるこの人物は一体誰なのだろうか。

 ………もしかして、泥棒?

 そう思った瞬間、私は雷に打たれたかのように覚醒し布団から飛び起きた。
 そして悲鳴をあげようとしたその時、相手は強い力で口を塞いでくる。

「お前な、自分の旦那の顔忘れてんじゃねえよ」

 そんな雑な扱いにどこか身に覚えがあると思いながらも、あまりの恐怖に固まってしまう。
 けれど徐々に目が暗闇に慣れていき、自分の目の前にいる男の顔がぼんやりと見えてきた。

「もう寝ぼけてねえよな?」

 そこには黒目がちで猫のような目をした男『尾形百之助』がいた。暗闇でぼうと浮かび上がる自分の旦那の顔を見て私は目を丸くさせる。
 何故、ここにいるのだろう。驚いている私の様子に気付いたのか、彼はすっと口から手をはなした。

「説明してる暇はねえ。今すぐ着替えてここを出ろ。こっちで粗方荷造りしておいた」

 そう言われても何が起こっているか全く理解できなかった。
 彼の視線の先に目をやると、そこには二つの大きな鞄がある。おそらく私が寝ている間に全て済ましたのだろう。

「百之助さん、ちょっと待って。何でこんな………」

 動揺してしまい、とっさに言葉が出てこなかった。
 この尾形百之助という男は、突拍子もないことをやってのける男である。しかしここまで想像以上のことをされると流石の私も頭が痛くなった。

 なんせ百之助さんと私は夫婦であるが、会うのはおよそ一年ぶりなのである。
 結婚と同時に戦争が始まり、それから一年。百之助さんは無事戦地から帰ってきてくれたものの、その後すぐに理由も言わず姿を消したのだ。
 そして彼の部下だと名乗る兵士(確か谷垣と名乗っていた)が訪れて「尾形上等兵はしばらく兵舎で寝起きすると伝言を預かっております」と言われてしまった。
 はあ?とその部下だと名乗る男に顔をしかめたのは申し訳ないが、そんなことを他人の口から言われても意味が分からないし納得できるわけがない。
 けれどその男が疲れ切ったような困り果てた子熊のような顔をしてひたすらに謝ってくるものだから、それ以上強く問いただすことはできなかった。
 もしかしたら彼も私と同じように、百之助さんに振り回されているのかもしれない。

「ここを出ろってことは、離縁するってこと?」

 久しぶりに顔を合わせる旦那の行動に頭を抱えながら尋ねた。
 百之助さんと結婚をする時にてっきりここで一緒に暮らすとばかり思っていたが、その平屋の一軒家から出て行けということは、つまりそういうことなのだろうか。
 すると彼は目をにんまりと細めた。

「離縁はしない。札幌で旅館をやってる叔母がいただろう。朝一の列車に乗ってそこへ行け」

 その言葉に顔を上げる。確かに私には北海道の札幌に母方の叔母がおり結婚するまで彼女の旅館で働いていた。
 しかし何故そこへ行かねばならないのだろう。
 そう疑問に思っていれば、彼は世間話でもするかのように答えた。

「第七師団を抜けてきた。ここにいればその内他の奴らがやって来る。面倒なことになりたくないなら、大人しく出た方がいいぞ」
「………………え、ちょっと待って。本当に?」
「待ってられっか。早く着替えろ」

 そう言って百之助さんは布団から中々出ようとしない私の腕をぐっと引っ張る。
 しかしちょと待ってほしい。この男は今何と言った。
 彼の言葉に戸惑いながら布団の上で呆然と座り込む。

「あなた、本当に、ええ………?」

 百之助さんの所属する『第七師団』とは北海道の各地に部隊をおく大日本帝国陸軍の師団である。
 噂によると、彼は第七師団の狙撃手としてそれなりに活躍していたらしい。兵舎を出入りしている街の業者から聞いたことがあった。
 なのに何故、そんな自ら裏切るような真似を。事情を一切知らされていないためどうしてそのような事態になっているのか、私は理解できなかった。

 昔からこの男はそうだった。
 彼と私は茨城にいた頃からの幼馴染である。病んだ母と年老いた祖父母、そして幼い彼の住まう家を近所に住んでいたお節介焼きの私の両親が気にかけていたのだ。
 知り合った当初は互いに距離があったものの、成長していくにつれて彼は段々慣れてきたのか私にやれ鳥を捌くのを手伝え、やれあんこう鍋を作れ、と遠慮がなくなっていったのを覚えている。
 それから百之助さんの母が病死したのを境に箍が外れたのか、さらに口うるさく私に指図することが多くなった。
 逆らうとこれまた面倒くさく能面のような顔でじっと無言で睨みつけてくるものだから、当時気の弱かった私は大人しく付き合っていたわけである。

 そして互いに十二歳となり、私が茨城から北海道に住む叔母の旅館へ働きに行くまでその関係は続いた。
 幼い頃から百之助さんはわがままでどこか掴み所がなく、何かある度に私は仕方がないなあと思って彼の言うことを聞いていた。しかしそれで済ますにはいささか厄介すぎる。
 これがこの男の性格だからと済まそうとしている自分に慌てて否定した。

「どうした?」
「何でもないわ………」

 布団の上で項垂れている私に百之助さんが不思議そうに尋ねる。
 それに首を振りながら、ぼんやりと彼との過去を思い出した。

 あの時だってそうだった。北海道の札幌へ働きに出てしばらく、成長した私のあまりの男っ気の無さに叔母が心配し、見合い相手を紹介された時のことだった。
 叔母から紹介された見合い相手とは実際に会ったことはなく写真で見ただけであったが、穏やかそうな面持ちで印象は悪くなかった。むしろ自分には勿体ないくらいの人である。
 そしてそのまま見合い話は進むとばかり思っていたのだが、残念ながら相手には恋人がいたらしくそれは破談となってしまった。
 相手に恋人がいるならば仕方ない。そう自分に言い聞かせ話はそこで終わるかと思っていた。
 けれど何故か私の見合い相手に幼馴染である百之助さんがかわりに充てがわれたのである。

 何故、茨城にいるはずの尾形百之助がどうして北海道にいる………?

 そう強く思ったのを今でも鮮明に覚えていた。
 どうやら百之助さんは第七師団に所属し北海道へやって来たらしい。数十年ぶりに再会する幼馴染と自分の間に何か呪いじみた悪縁があるのではと本気で思った。
 そして紆余曲折はありつつもあれよあれよと話は進み、私はこの面倒くさい幼馴染と結婚することになったのだ。

 側から見れば丸く収まってしまったわけなのだが、見合い相手として彼の顔を見た瞬間絶望したのを今でも忘れられない。未来の旦那との穏やかな日々を少女のように思い描いていたにも関わらず、幼少の頃より見知ったとてつもなくひねくれた男と結婚してしまうなんて。
 おまけに何故自分と見合いをしたのかと聞いてみれば、彼は私の顔を見ながら鼻で笑って答えたのだ。周りに独り身の女がお前しかいなかったからだ、と。
 それを思い出すと、何だか腹が立ってきた。

 しかも結婚したら平屋の一軒家に一人、妻になった女をほったらかしにするような男だ。手紙を送っても一度も返事は返ってこず、自分のことなんて忘れているのかもしれないと思った。
 兎に角、百之助さんは昔から周りを振り回すだけ振り回して挙句に放置をする男なのである。今回の突然の来訪も彼らしいと言えば彼らしいが、これまでの過去を振り返ってみれば嫌な予感しかしなかった。
 いつになったら自分の待つ家に帰ってくるのだろうと思ってはいたものの、まさかこんな形で再会するとは。第七師団を追われるように抜けてくるなんて一体何をしたのだろうか。

 するといつまで経っても布団から中々出ようとしない私に不機嫌そうに言う。

「なんだ。渋って」

 いや、渋るだろう。
 何を言っているんだとため息を吐けば、彼の口から再びこれまた突拍子もない言葉が飛び出してきた。

「間男でもいるのか」
「はあ?」

 いるわけがない。旦那があの尾形百之助ということで私に手を出してくるような男は一人もいないのだ。
 しかしそれよりも、妻を一人残しておいていけしゃあしゃあと言い切るこの男に腹が立つ。彼は手紙も寄こさず戦争が終わった後も自分を放っておいたのだ。きっとその間に女でもできていただろうに。

「い、いたらどうするの」

 このいけ好かない男の鼻を明かしてやろうと憮然とした態度で言ってみせる。
 しかし言ってみたものの百之助さんは特に何か反応を返してくることもなく、ただ能面のような表情でじっと私を見つめるだけだった。
 しばらくして彼は再び口を開く。

「早く着替えろ」

 どうやらこの話は終わりにしたいらしい。
 私は腕を引っ張る彼に引き摺られてようやく布団から出た。温かい布団に包まって現実から目を背けて眠りについてしまいたかったが、もう無理だ。
 きっと私が何を言っても聞かないだろう。

「あなたはこれからどうするの?」

 おそるおそるそう聞けば、彼は鼻を鳴らして「さあな」と言った。

「野暮用がある。全部済んだら戻るつもりだ」

 野暮用?詳しく聞き出そうとしたがそれ以上話す気はないらしい。無言で早く着替えろと目で訴えてくる。
 ノミのような心臓をばくばくとさせながらも、やはりどうしても納得がいかなかった。この自分の要求が通って当たり前だと言わんばかりの顔をする生意気な幼馴染が憎たらしい。
 ばしりと苛立ちを当てつけるかのように彼の背を叩く。眉をひそめて嫌そうに顔をしかめているが知ったことではない。
 そして私は渋々とこの面倒くさい幼馴染の言う通り着替えはじめた。



 ◇



 外出用の着物に着替えて外に出てみれば、空はうっすらと青みがかっていて明るかった。小樽を囲む山並みには朝日の淡い桃色の光がかかっている。
 そして私は家の外で待っていた百之助さんの顔を見て目を見開いた。
 暗闇の中で気付かなかったが彼の顔に傷があるのだ。両頬から顎にかけて縫った跡が痛々しく残っている。

「顔の傷………」

 思わずそう呟けば、さして気にした様子もなく別に良いだろうと言われてしまった。
 それから私の荷物の入った鞄を二つ持ってさっさと歩き出した。慌ててその後に続き鞄を一つくらい持とうとすれば大丈夫だと言われる。

 前を歩くその背を見つめ、さて何から聞こうかと口ごもる。色々と言いたいことも聞きたいことも山程あるのだ。
 今まで自分のもとに帰ってこなかったのは何故なのか。そして第七師団で彼の身に何があって抜け出したのか。それを聞こうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
 けれどそのかわり頭の中では関係のないことがつらつらと浮かび上がり始める。
 兵舎ではちゃんとご飯を食べていたのだろうか。それから彼に限って虐められることはないだろうが、誰かこの人から虐められていなかっただろうか。それに顔の傷だって一体どうしてついたのだろう。
 そしてふとあることを思い出す。

 そういえば百之助さんは私が出した手紙を読んでくれていたのだろうか。
 戦時中、他愛のないことをつらつらと書き述べた手紙を出していた。結局一度も返事は返ってこなかったが彼はそれを読んでくれていたのだろうか。
 しかし、この男が自分の出した手紙を素直に読んでいる姿がどうにも想像できなかった。

 ───駅には早朝だというのに人気は多く仕事へ向かう労働者や仕立ての良い服を着た観光客で賑わっている。
 駅に着く道のりで私は百之助さんの身に何が起こっているのか聞いてみたが飄々とはぐらかされてしまい、何も聞くことができなかった。
 それから朝一の列車に乗る前に彼の方から叔母には既に話を通してあると言われた。いつ叔母の連絡先を知ったのか知らないがそれに頷く。

「じゃあな」

 札幌へ向かう列車に乗り込めば百之助さんは一言そう言ってさっさと立ち去ってしまった。
 結局何が起きているのか聞くことはできず、私は呆然と段々と小さくなっていく背を見続けた。彼は自分だけで納得してそれ以外はどうでも良い節がある。
 けれどここまで何も言われないと幼少の頃より見知った仲である自分でもやはり困惑してしまう。

 そして人波に紛れて百之助さんが姿を消したのを確認した後、とり残された二つの荷物を持って列車の中へ入っていった。

 列車の中は駅以上に混み合っており席は全て埋まっていた。通路には人がずらりと並んでおり、起き抜けの早朝であるからか皆どこか眠たそうに顔を伏せていた。
 人の多い狭い列車の中、通路の隙間を見つけてそこに入り込む。
 そして荷物が邪魔にならぬよう近くの網棚へ置こうとすれば、ちょうど隣にいた紳士が手助けしてくれた。
 それに礼を言うと、その紳士は口を開く。

「どこまでで?」
「札幌です」
「そうか。私もそこで降りるからまた荷物を下ろすのを手伝おう」

 それに礼を言えば、紳士の隣に立っていた婦人がにやりと笑った。

「良いのよ。この人、若い子にかっこいいところ見せたいの」

 二人はきっと夫婦なのだろう。紳士がばつの悪そうに笑っている。
 改めて彼らに礼を言い、ぼんやりと列車の窓の外を見つめた。そろそろ出発時刻になるのか遠くから甲高い笛の音が響く。列車ががたりと動き出し、ゆっくりと窓の外の景色が横へ流れていく。

 隣にいる夫婦は朝早くから旅行にでも出掛けるのだろうか。羨ましい。仲の良さそうな姿に不意にそう思ってしまった。
 昔は私達もよく二人で一緒にいたというのに。

 緩やかに走り出す列車の振動に揺られながら、私は幼少の茨城にいた頃の記憶を思い出した。






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