まだ幼い頃。青い山々に囲まれたとある茨城の農村に、二人の母子が引っ越してきた。白い肌をした美しい女性とその息子である背の小さな少年だ。
 二人は私の隣に住む老夫婦のもとにやって来て暮らし始めた。
 母から話を聞いたところ、その女性は精神を病んでしまったそうで療養のために茨城の実家に戻って来たらしい。

 前々から隣に住む高齢の老夫婦をお節介焼きの私の両親が度々気にかけていたが、その二人がやって来てからは殊更心配するようになった。
 そして私はというと、その息子である幼い頃の尾形百之助の遊び相手として紹介されることとなる。

「───あら、こんなところにいたの。ちょっとこっちにいらっしゃい」

 庭先で夕飯に使う豆の鞘取りをしていたところ、私は母に呼ばれた。
 そして居間に行けば隣に住むおばあちゃんと、自分と同じくらいの年齢の少年が座っていた。
 母に促されるまま腰を下せば、おばあちゃんはくしゃりと笑って私に話しかける。

「久しぶりねえ、イトちゃん。元気かい?」
「うん。おばあちゃんはどう?腰の調子とか………」
「平気よ。ありがとう」

 その言葉を聞いてほっと安堵する。
 そしてその隣に座る少年を見つめた。村では見たことのない少年だった。おそらく彼が最近隣に引っ越してきた子なのだろう。母から話は聞いていたものの、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
 特徴的な眉と猫のような目。ぴくりとも表情を変えない人形のような少年だ。その少年もじっと私を見つめている。彼の真っ黒な空洞のような瞳に居心地が悪くなりながら、おそるおそる口を開いた。

「宮内イトです。あの、よろしくね」

 けれど彼はふいと目をそらした。その様子を見ておばあちゃんは顔をしかめる。

「百之助。イトちゃんに失礼でしょう」

 それに慌てて大丈夫だと言えば、百之助と呼ばれた少年は気にくわなさそうな顔をして眉をひそめた。
 そんな彼の表情に私の母はからからと笑い出す。

「隣の家に引っ越してきたって話したわよね?この子が百之助君よ。同い年同士仲良くね」

 ぶすくれている少年を前にすっかり萎縮してしまったのだが私は母の言葉に頷いた。
 仲良くできる気は少しもしなかったものの母やおばあちゃんが期待した眼差しで見つめてくるのだ。断ることもできず私は曖昧に笑うしかなかった。

 これが後に私の旦那となる彼との出会いであった。
 それからひと月経っても、私は周りの期待をよそに百之助君と関わることはほとんどなかった。顔を合わせる度に挨拶はするものの、彼は私が気に入らないのかふいと目をそらしてすぐにどこかへ行ってしまう。
 そして最近、百之助君は自身の祖父から古い猟銃をもらったらしい。それで狩りをするのに夢中で、専ら村ではなく山の方にいるようだった。この間も猟銃を持って山へ向かっていく彼を見かけた。そのため日中村で過ごす私は彼と顔を合わすのが随分と少なくなった。



 ◇



 月に一度、村の河原沿いでは市が開かれる。そこでは畑で採れた野菜や川魚の乾物、また街の方で売られている流行りのものなどが並べられる。
 私は母に頼まれて薬草を買いに市に出向いた。無事に買えたものの、たくさんの薬草の入った竹籠からつんとした匂いが漂ってきて目眩がしてしまう。

 そしてその帰り道に、私は自分を嫌う一人の少年について考えていた。顔を合わせただけでそっぽを向いてしまう彼の姿をぼんやりと思い浮かべる。
 やはり私が知らぬ間に百之助君に対して何かしてしまったのだろうか。そうでなければ私の顔を見た瞬間、嫌そうに顔を歪めて去って行くはずない。
 それを思うと、ずんと胸が重くなったような気がした。きっと初めて会った時に百之助君を怖がったのがいけなかったのだろう。もしかしたらそれがあの子にも伝わってしまったのかもしれない。
 彼に対する自分の態度を思い出して後悔する。未だにあの暗い穴底のような瞳に慣れないものの彼を傷つけるような態度をとってしまったのならば謝らなければならない。
 けれど、それとは反対にいっそのこともう関わろうとしない方が良いのかもしれないとも思っていた。たとえ謝ったとしても相手が迷惑に思うかもしれないのだ。
 鬱々とした気持ちになりながらため息を吐く。

 するとその時、道の向こうから小さな人影がのそのそとやって来るのが見えた。目を細めて見てみれば、その人影は今ちょうど思い浮かべていた少年だった。
 ───百之助君だ。
 挨拶をしようか。けれどまたいつものように嫌そうな顔をされてしまうかもしれない。
 前から近付いてくる百之助君にどうしようかと悩んでいると彼が右手に何かを持っているのに気付いた。だらんと首が垂れた立派な鴨がその小さな手に掴まれていたのだ。
 私は思わず立ち止まって、それを凝視する。

「………………なんだよ」

 するとそんな私の視線に鬱陶しそうに顔をしかめながら、珍しく百之助君の方から話しかけてきた。
 それにはっと顔を上げて口を開く。

「その鴨、どうしたの?」
「山で獲った」
「誰が獲ったの?」
「俺に決まってるだろ」

 無愛想にそう言う彼に目を丸くさせた。彼がおじいちゃんから猟銃をもらい山へ出掛けているのは知っていたが、こうして獲物を持っているところを見るのは初めてだった。

「すごい!」

 声を上げると百之助君はびくりと肩を揺らす。
 そして私はそんな彼を目を輝かせて見つめた。
 まさか私と同じ年齢の子が銃を扱い立派に狩りをしてみせるなんて。私は目の前の少年が素晴らしい才能を持っているのだと深く関心した。
 けれど百之助君は顔をしかめた。

「すごくない。それに獲っても捨てるだけだ」
「え、どうして?」

 彼のその言葉に聞き返す。これだけ大きく立派な鴨を仕留めたのだから家族で食べたら良いのに。

「飯の作り方が分からん」

 それに私は首を傾げる。
 しかし今朝方母が言っていた言葉を思い出した。
 母曰く、今日おじいちゃん達は朝から市で野菜の販売をするべく店を出しているらしい。そのため今家にいるのは百之助君と彼の母しかいないのだ。
 彼の母が療養している今、飯を作ってもらうのは忍びないと思っているのかもしれない。包丁などの刃物を持たせるのはとても心配であろう。

「私が作ろうか?」

 余計なお世話かもしれないが百之助君の家にそういった事情であるのなら何か手助けできないものだろうか。それに彼のその瞳がかすかに陰ったのを見て、何とかしてやりたいと思ってしまった。
 そんな私の言葉に彼は顔を上げる。

「せっかく百之助君が獲ってきたんだもの。お鍋にしたらきっと美味しいよ」

 しかし百之助君の呆けた顔を見て自分が彼に嫌われているということをはっと思い出した。嫌いな相手の飯なんて望んでいるはずないだろう。

「百之助君が良ければだけど………」

 ぼそぼそと誤魔化すように小さな声で言う。もしかしたら烏滸がましい提案をしているのかもしれないと思い、段々と恥ずかしくなってしまったのだ。

「作ってくれ」

 けれど百之助君は口を開き私に言った。今度はこちらが目を丸くさせれば、彼はお前が言ったんだろうと呆れる。

「いいの?」
「別に。それにお前がそう言ったんだろ。作るんなら作ってくれ」

 ぶっきらぼうにそう言うが言葉の端々に棘はないように感じた。それにほっと安堵して強張っていた身体の力が一気に抜ける。
 もしかしたら、彼と仲良くなれるかもしれないと思った。

「うん。美味しいの作るね」

 百之助君は私に鴨を差し出す。彼の母の手に渡ることのなかったそれを受け取った。

 そしてこれを機に百之助君は私と積極的に関わるようになった。山で獲ってきた鴨やうさぎを鍋にするよう頼んできたり、ほつれた縫い物を持ってきて縫うよう言ってきたりするなど、あれやこれやと遠慮なく言いにくるようになったのだ。
 彼と仲良くしたいと思っていたものの、これではまるで世話係ではないか。
 しかしそう思いながらも面と向かって断ることができず、私はずるずると彼のわがままに付き合っていた。

 そして百之助君との距離が縮まっていくその最中に、彼の母は亡くなった。彼女の死因は分からなかったが病死として片付けられた。



 ◇



「なあ、鍋を作ってくれ」

 百之助君の母が亡くなって数日後、彼は自分で仕留めただろう鴨を持って私のもとにやって来た。
 家の庭先で芋の皮を包丁で剥いていた私は突然やって来た彼にびくりと驚く。

「危ねえな。ちゃんと手元見とけ」

 手に怪我はしてないが、そんな危なっかしい私を見て彼は眉を寄せる。

「百之助君がいきなり来るから………」
「そりゃ悪かったな。ほら、鍋」

 抗議しても彼はどこ吹く風で、人の家の庭に勝手に入ってくる。そして私の座る縁側に座った。

「おばあちゃんの腰、悪いの?」
「ああ」

 大抵百之助君がここに来てご飯を強請る時はおばあちゃんの体調が悪い時だ。動けないおばあちゃんの代わりに私や母が夕食を作りにいくことがある。
 ちなみにおじいちゃんはどうしたと聞けば、親戚の家に用事があるらしく明日まで帰ってこないらしい。

 最初の頃と比べて随分と距離が縮まったものだと思う。彼の遠慮のなさに面を食らってしまうことはあれど、まるで小さな弟ができたようだった。
 要は百之助君の態度に慣れたのである。

「これが終わって、お母さんに手伝ってきて良いか聞いてくる。多分行って来なさいって言うけど」

 百之助君は私の両親に気に入られていた。前までは誰彼構わず借りてきた猫のように大人しくしていたけれど、今では大人の前だけ愛想の良い可愛げある少年に態度を変えるのだ。

「鴨は自分でしめてね」

 そう言えば百之助君は頷いて鴨の毛を毟り出した。ここでしめるのかと思い、鴨の毛が散らばる前に庭先に転がっていた桶を持ってきて目の前に置いてやる。

 そんないつもの通りの彼の様子に私はふと思った。
 百之助君は落ち込んでいないのだろうか。ついこの間、母を亡くしたばかりだというのに。彼は昔から感情を表に出すような子ではなかった。もしかしたら母を亡くしたばかりで実感がないのかもしれない。
 けれどそれにしてもいつも通りであった。百之助君の複雑な出自はおばあちゃんから聞いたことがある。彼が外に出ている時、少しだけ教えてもらったのだ。
 百之助君が妾の子どもであり実父は本妻との間に子が出来たことから遠のいて、彼の母は精神を病んでしまったらしい。実父が葬式に来なかったことも気にしていたりするのではないだろうか。

「今日は鴨だが明日はあんこう鍋が食いたい」

 すると百之助君がぽつりと呟く。

「あんこう鍋、本当に好きだね………」

 それを聞いて思わず苦笑した。
 彼の母がまだ生きていた頃、病んでいた彼女はあんこうがとれる時期なるとずっとあんこう鍋を作っていたのだ。何故彼女が狂ったようにあんこう鍋を毎日作っていたのか分からなかったが、それでも百之助君は飽きることなく好きだと言う。

「でも、私なんかよりお母さんの方が上手に作れると思うから頼んでみようか?」

 私の母のご飯は美味しい。そしてその方が百之助君も喜ぶであろう。そう思い顔を上げて言う。

 しかしその瞬間、私の体は不意に硬直した。
 百之助君は鬱蒼とした笑みを浮かべて私を見ていたのだ。その顔にどきりとしてじわじわと爪先から冷えていく心地がした。目の前の少年が『尾形百之助』の皮を被った何か別の薄ら寒いもののように感じた。
 不意に怖いと思ってしまう。この彼のおよそ子どもらしくない焦点の合わない瞳で笑うその表情を、私は彼の母が亡くなってから何度か見たことがあったのだ。
 私にあんこう鍋を作らせる時なんか特にそうだった。

「いや、イトが作ってくれ」

 百之助君が私にそう頼む。それにおそるおそる頷けば彼は満足そうに頷いた。
 以前、おばあちゃんがぽつりとこぼしていた言葉を思い出す。

『百之助は、あの子を母親と重ねてるんかねえ』

 百之助君の家に家事の手伝いをしに行った時におばあちゃんの一人言を聞いてしまった。まるで可哀想にとでも言うかのような口ぶりだった。
 百之助君のその表情を見るたびに私は冷水をかけられたような心地がする。親の死を気にしてないはずないのだ。こうして彼自身も彼の母と同じように病んでしまっている。
 何で私なんだろう。百之助君が、自身の母と私を重ねる理由が分からなかった。

「おい、どうした?」

 するとその時、ぼんやりと考え込む私に彼が尋ねた。俯く私をじっと見ている。いつも通りの幼馴染の顔だ。好奇心旺盛な子猫のような瞳で見ている。
 それにはっと我に返り、ゆるゆると首を横に振った。

「な、何でもない。ぼうとしてたの」
「包丁持ってるんだから気をつけろ」
「うん、ありがとう」

 しかしいくら百之助君のことを気味悪く思ってしまっても、この少年は私にとって幼馴染なのだ。
 そんな彼のことをはっきりと拒絶することはできなかった。

「あんまり、心配するようなことしないでね」
「心配するようなことって何だ」
「あ、いや、言い方悪くてごめんなさい。あんまり抱え込んで、みたいな………」

 思わずぽつりとこぼした一言に百之助君は眉をひそめた。それにしどろもどろ答えれば彼はふんと鼻を鳴らした。
 私は百之助君が自分には想像もできないような手に負えない程の恐ろしいことをやってのけてしまいそうで不安だったのだ。

「もう遅い」
「え?」

 百之助君の言葉を聞き逃してしまい首を傾げる。しかし彼は何でもないと言って再び鴨の毛を毟る作業に戻ってしまった。



 ◆◇◆



 幼い尾形はちらりと横に座る幼馴染の少女、宮内イトを見る。視線に気付いていないのか、イトは黙々と芋の皮を包丁で剥いていた。

 少しだけ日に焼けた肌にふっくらとした丸い頬。そして生まれもった緑色に光る美しい黒髪。
 尾形はこの少女を見ると、どうしても自分の母のことを思い出してしまう。
 芸者として華やかな顔を持っていた母と目の前の少女は似ても似つかないが、イトのその甲斐甲斐しさに惹かれていた。ああだこうだと我儘を言えば、彼女は嫌そうに眉を寄せるものの結局は付き合ってくれる。拒絶せず、母を亡くしたばかりの自分に同情し面倒さえ見るのだ。

 その甲斐甲斐しさが病む前の母の姿と重なる。まだ精神を患っていなかった頃、母もこうして幼い自分の面倒を見た。
 自分と同じ歳の少女だと理解していても尾形は幼馴染の少女に自分の母の面影を探してしまう。

「うわ、びっくりした。何見てるの?」
「………いや」
「鴨の毛、毟るの出来そう?あとお芋を一個剥けば私のお仕事おわるから手伝うね」

 そう言って、ほらと小さな手で芋を掲げる。

「ああ、頼んだ」

 それに尾形は頷いた。
 彼女に母の面影が重なるだけではなかった。
 イトが自分の面倒を健気に見る度に言いようのない快感が支配する。それが一体何なのか、当時の幼い彼には分らなかった。








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