『せっかく百之助君が獲ってきたんだもの。お鍋にしたらきっと美味しいよ』
微睡む意識の中、白くぼやける景色の向こうに鴨を片手に持った一人の幼い少年がいる。表情は分からないけれど、一人でぽつんと寂しそうにたたずむ彼に思わずそう言ってしまった。
ふとソファの上で目を覚ます。ちらりと辺りを見渡せば、そこは見慣れたリビングであり、開いたカーテンの伱間から見える窓の外は真っ暗に染まっていた。
いつの間に寝てしまったのだろう。
ゆっくりと体を起こし、壁に立て掛けられた時計を見ると針は夜の八時を指していた。夕食を作り終えて、ソファに座りうとうとしていたところでいつのまにか寝てしまったのかもしれない。
ソファから立ち上がりダイニングへ戻る。起きたばかりであるためか視界が歪み、軽い立ちくらみが起こった。少しばかり寝ただけだというのに何時間も眠り続けていたような感覚がする。
しかし私には、それこそ何年もの長い間ずっと夢を見ていた気さえもしていた。詳しくは思い出せないのだが、一人の男に散々振り回された女の一生を見ていたような気がする。
時は明治くらいだろうか。幼馴染である男とその女は結婚したものの結局二人は紆余曲折を経て別れてしまったのだ。
それにしても夢の話だとはいえ、とんでもなく厄介で面倒くさい男だったと思う。音信不通になったり勝手にどこか消えてしまったり、更には女と不倫をするような男であった。私ならあんな男と結婚したくない。
けれど何故かその男に何故か懐かしさと、自分でも信じられないくらいの愛おしさを感じていた。
するとその時、玄関のインターホンが鳴った。
おそらく彼であろう。モニターで確認すれば、想像した通りの人物が立っており自然と笑みが浮かぶ。
廊下の電気をつけて玄関の戸を開ければ、スーツ姿の一人の男が入ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ」
猫のような目に顎に特徴的な傷を付けたその男は『尾形百之助』といい私の旦那である。ちなみにその顎の傷は学生時代、大学の狩猟部で活動していた時に事故にあって残ってしまったそうだ。
ため息を深々と吐きながら靴を脱ぐ彼を見て首を傾げる。いつも飄々としている男が珍しく疲れている。
「何かあったの?」
「杉元の野郎がな」
「杉元さんに仕事中に会ったのね」
百之助さんの言葉に私は納得した。
杉元さんとは彼の勤めている企業の競合他社の社員であり、おそらく営業先にて鉢合わせしてしまったのだろう。時折彼の口から出てくる杉元さんの話題に私は顔を合わせたことはないものの、その存在をよく知っていた。
「相変わらず仲悪いのね」
そう言えば百之助さんは不機嫌な猫のように鼻を鳴らす。
そんな分かりやすい彼の表情を見て、私はこの男と初めて出会った時のことをぼんやりと思い出していた。
百之助さんと出会ったのは私の勤めていた企業の懇親会だった。ホテルのホールで開かれたそれに私は事務の同僚とともに隅の方で飲んでいた。しかし同僚は気分が悪くなったといって恋人に迎えに来てもらい早々に帰ってしまった。
そして私も一次会で帰ってしまおうかとロビーで思案していたところで彼と出会ったのだ。
『こんなところにいたのか』
そう言ってそばにやって来た彼は、何故か大層馴れ馴れしかった。
尾形百之助といえば私の勤めている企業の営業先であり、やり手の営業だと噂で聞いていた。
しかし事務である私が彼と実際に顔を合わせたのは今回で初めてである。何の用かと首を傾げた。
『尾形さん、何かご用ですか?』
誰かと間違えているのではと思い苦笑しながら尋ねれば、百之助さんは一瞬顔をしかめた後胡散臭い笑みを浮かべ首を振る。
『いや、大した用じゃないが、ずっと探していたんだ』
そう言って笑う彼に不信感と何故か懐かしさが込み上げたことを今でも鮮明に覚えている。
それから連絡先を交換し、様々なことがありながらもトントン拍子に話は進んで何の縁か百之助さんと結婚することとなったのだ。
夕飯の支度をしながらぼんやりと百之助さんとの出会いを思い出す。今思えばあれは新手のナンパであったのだろうが、本人に聞いてもきっとはぐらかされて終わるだけであろう。
夢の中で見た男に対してあんな男とは結婚したくないと思いつつも、自分も何だかんだ不思議な男と結婚したものだと思う。
そして当の彼はといえば、スーツから着替えたのかリビングに戻ってきたところであった。猫のような目に特徴的な顎の傷、そしてがっしりとした体躯。
昔から何故か百之助さんを見るとどこか懐かしい気持ちになった。
ホテルのロビーで初めて出会った時にも感じたのだが、不思議とずっと前から彼と出会っていたような気さえしていた。しかし小中高、そして大学まで女学校に通っていたため百之助さんと学生時代に会うはずはなかった。もしかすると、どこかですれ違ったのかもしれない。
「百之助さん、茨城のおばあちゃんから手紙きてるわよ。テーブルの上にあるから見ておいてね」
「ああ」
私の言葉に百之助さんは頷いて、テーブルの置かれた手紙の封を開ける。
彼の実家は偶然にも私と同じ茨城であり、そこに住んでいる彼の祖母はたびたび百之助さんを気にかけていた。もちろん私も彼の祖母とすでに顔を合わせており、幼い少女にするように可愛がられたのを思い出した。
そしてそこでふと、『百之助さん』という呼び方に違和感を覚える。これまでごく普通に呼んでいた呼称を、何故今となっては疑問に感じるのか不思議であった。
百之助さん、いや、もっと別の名で彼を呼んでいた気がする。
その瞬間、私の脳裏に一人の少年の姿が思い浮かんだ。
丸い坊主頭に古びた着物を着た小さな少年だ。手に猟銃を持っている。
そうだ。先程見た夢で現れた男の、小さい頃の姿だ。その夢の女はその少年のことを何と呼んでいたのだろう。
「百之助君」
ぽつりとこぼす。それがあまりにも口に馴染み、不意に驚いた。
ちらりと彼を見れば、テーブルに置かれた茨城の祖母からの手紙を読んでいる。
そして私はダイニングから話しかけた。
「ねえ、付き合いはじめの頃からずっとあなたのこと、百之助さんって呼んでたわよね?」
そう言えば百之助さんは手紙から顔を上げる。私は皿やコップをテーブルに置きながらそのまま続ける。
「何でか分からないけど百之助君って呼んでいたような気がするの」
「懐かしいな」
彼がふと薄く笑いながら言う。それがあまりにも柔らかく、とても大切な何かを思うような表情をしていたのに驚く。
しかしそんな彼の顔に違和感を覚えた。いつもなら私が何となしに言った言葉を適当にあしらうはずの男がまさかそんな顔をするなんて。
私は眉をひそめて彼の顔をまじまじと見つめた。
もしかして…………。
「ねえ、もしかして昔の彼女にそう呼ばれてたの?」
はっとしてそう言えば、百之助さんは呆れたような顔をする。
すると彼は仕方ないとでもいうように言った。
「お前は昔から変わんねえな。女の影が見えるとすぐに突っかかる」
「昔?」
「自分に嫉妬してどうすんだよ」
そしてにやりと口を三日月のように歪めて笑った。
昔?自分?一体どういう意味なのか。
「ええ?」
言っている意味が理解できず私が呆けていれば、百之助さんはあと大きなため息を吐いた。
「いつになったら思い出すんだろうな」
はたまた彼がよく分からないことを言うものだから眉をひそめる。
けれど彼の口ぶりからして私は自分が何か大切なことを忘れてしまっているような気がした。
「ねえ、やっぱり私達、ずっと前に………」
会っているんじゃないのだろうか?そう聞こうとしたところで私は口を閉じる。
いくら思い出そうとしても、自分の人生を振り返ってみても、彼の影は何一つないのだ。自分の両親や周りの友人に聞いてみても『尾形百之助』という男を知る人は誰もいなかった。
「ううん。何でもないわ」
首を振って苦笑した。
「でもやっぱり懐かしい気がするの。変なこと言ってごめんなさい」
百之助さんと出会ってからずっと感じているその感情に一切の説明はつかないけれど、時折込み上げる懐かしさは一体何なのだろうか。彼のことは愛しているが、それ以上に泣きたくなるくらいの愛おしさが不意に胸を満たすのだ。
するとその時、彼は口を開く。
「お前、今不満とかないか?」
手紙をテーブルの上に置き、目の前に立つ。私の顔をじっと見つめる彼に首を傾げる。
「不満?特に無いけど………」
百之助さんとの結婚に特に不満はなかった。家事の手伝いもこなし結婚前と変わらず休日には私と出掛けてくれる。
いまいち何を考えているか分からない時もあるが、今のところ生活に支障が出たことはなかった。
何よりも仕事が忙しいだろうにも関わらず、彼がなるべく早く家に帰ってきてくれることが嬉しかったりする。こうやって、毎日帰ってきてくれるため寂しさを感じたことは一度もなかった。
しかしそのことを面と向かって言えばからかわれるだろう。口にはしないが、私は百之助さんが思っているよりずっと彼のことを好いていた。
「ならいい」
私のその様子を見て彼は頷く。
安堵したような、どこか満たされたような表情をしていた。
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