数年後、あれから私は変わらず叔母の経営する旅館で働いていた。
 百之助さんとは書面で離縁をし、あの男から付けられた傷は時間が経っても決して癒えることはなかった。
 けれどその数年の間に私は彼以上に大事な存在と出会うこととなった。

「栄吉。お使い行ってきてくれる?余ったお金でお菓子買ってもいいから」

 旅館の裏口にて、今年で十歳になる幼い少年に私があずま袋を持たせて言う。それに彼はビー玉のような目をきらきらさせて頷いた。

 奉公で旅館にやって来たこの少年は栄吉という。彼は炭鉱事故で両親を亡くした孤児であり叔母に引き取られたのだ。忙しい叔母に変わって何かと世話を焼いている内に私は栄吉のことをまるで弟か息子のように思うようになっていった。

 跳ねるように駆け出す栄吉に大丈夫かと心配気に見つめていれば、彼は私の視線に気付きくるりと振り返る。その小さな体を目一杯のばして手を振る彼の姿に、私は笑みをこぼした。

 そして栄吉の後ろ姿が見えなくなるのを確認して、私は旅館の中へ戻る。頭の中で今からやらねばならない業務を順に思い浮かべた。
 するとその途中、通路の向かい側から一人の男が歩いてくる。

「栄吉はどこ行ったか知らないかい?」

 この旅館で番頭を勤める男だ。私は首を横にふった。

「あの子ならさっきお使いに行ってもらいましたよ」
「入れ違いになっちまったか。まあ、いいや。呼び止めて悪かったな」

 そう言って番頭の男はため息を吐いて立ち去っていく。
 あの男は栄吉と仲が良く、休日には彼を伴って山に狩猟へ出掛けにいくことが多かった。

 幼い栄吉が銃を扱うのはまだ早いのではと叔母とともに心配しているが、日が明るい内に帰ってくることと、山の奥までは入らず狙う獲物もせめて鳥や兎などにすることを約束している。
 番頭の男に連れられて獲ってきた獲物を、栄吉は嬉しそうな顔をして私達に見せるのだ。それを見てしまうと私も叔母もこれ以上何も言うことができなかった。

 そしてそんな栄吉の姿を見て私はとある男の幼少期を思い出す。獲ってきた鴨を母に渡そうとするあの幼かった頃の男と栄吉が重なってしまうのだ。
 私はそれを思うと栄吉の獲ってきた土産を受け取らないなんてこと、できるはずがなかった。



「栄吉、それは?」

 お使いから帰ってきた栄吉の手には頼んだもの以外に、彼が土産に買ってきたのだろう飴玉の包みと一枚の葉書があった。
 その葉書を栄吉は私に差し出す。

「知らないおじさんが渡せって」

 栄吉から渡されたそれに私は首をかしげる。
 差出人の名前は書いていなかった。けれど葉書には私の名前と美しい雪山の景色が描かれており、香でも焚かれていたのかわずかに花の香りがする。
 誰からだろうか。
 すると栄吉はそんな私にぽつりと言う。

「不思議な雰囲気の男の人だったよ。猫みたいな目をしてて顎にお髭みたいな傷がついてた」



 珍しく栄吉は番頭の男と山へ狩猟に行かず、今日は私と買い物に出かけていた。
 街では月初めに開かれる市がやっておりいつもよりも人通りが多い。そのため私はしっかりと栄吉の小さな手を握り歩いていた。

 建物と建物の間にはまだ昼だというのに明かりのついた橙色に光るの提灯がいくつも吊るされており、高い屋根から散らしているのかひらひらと空から淡い色の紙吹雪が雪のように降っていた。そして焼いた肉や香ばしい醤油の匂い、香辛料のつんとした匂いがどこからか香り自然とお腹が空いてくる。遠くの方からは花火の弾ける音が聞こえた。
 街の浮き足立った空気に私も栄吉も笑みをこぼす。

 するとその道中にて、往来の端の方でこんもりと人垣ができていた。そこから時折歓声がわっと湧き上がる。
 ふと私達は顔を見合わせて近寄って見てみれば、その人垣の中心で旅芸人達の一座が大道芸をやっていた。派手な着物を身に纏い顔に化粧を施した彼らは、天狗のようにひょいひょいと飛び跳ねている。

「見ていかない?」

 私がそう言えば、栄吉は目をきらきらとさせて頷いた。
 そしてそんな私達に気付いた周りが少し体をずらして道を開けてくれる。人垣の前では背の低い子ども達が集まって大道芸を見ていた。

 私は彼らに礼を言って栄吉に前の方で見てくるように言う。すると栄吉は嬉しそうに顔をほころばせてその子ども達の集団に混じって行った。後ろからでは彼の顔が見えないが、旅芸人が陽気に跳ねたり飛んだりしてみせると小刻みに体を揺らすものだからおそらく笑っているのだろう。

 栄吉のその様子にふと安堵する。
 するとその時、ぬらりと一人の男が私の隣に立った。
 気にすることなく私がぼんやりと栄吉の後ろ姿と大道芸を見ていれば、横から声がかかる。

「随分とでかい子どもだな。まさか隠し子でもいたのか?」

 大道芸への歓声のその間に、私の耳に入ってきた懐かしい声に固まる。
 私はふと息をするのも忘れてその場で立ち尽くした。低い声音と太々しいその物言いに私は一人の男を思い出す。数年前に自分を捨てた幼馴染の彼が脳裏に浮かんだ。
 揺らぐ心を抑え込んで小さく息を吐く。けれど自分を捨てた男に動揺しているなんて悟られたくなかった。
 そして世間話するかのように言った。

「そんなわけないじゃない」

 そう返せば、彼はくつくつと笑う。それに苛立ち続けて言った。

「あなたこそ私と結婚している間に女の人と散々遊んでたんでしょう?家永さんとの間にお子さんでもいるんじゃないかしら」

 するとそれには笑えなかったのか、彼は途端に黙り込んだ。その様子に私はほくそ笑む。

 そして私はちらりと横目で見た。そこには、百之助さんがいた。
 白いシャツに黒いスラックスを履いた彼は一見どこかの会社に勤めている人間に見える。がっしりとした体躯も何を考えているのかいまいち分からない能面のような顔は何も変わっていなかった。ただ、怪我でもしたのか、片目に眼帯をつけていた。髪も少しだけ白髪が散らばっているあたりおそらく苦労はしていたのだろう。

 改めて百之助さんの姿を見てしまうと、私は途端に彼との過ごしてきた日々を思い出した。散々彼に振りまわされてきたものの、あの懐かしく愛おしい日々が脳裏を鮮明に駆け巡る。
 すると百之助さんは目線だけこちらに向けて私を見つめる。
 そしてしばらくして口を開いた。

「変わったな」

 その言葉に私は首を傾げる。

「髪もそうだが、着てるものに色がついてる」

 確かに私は長かった髪をばっさりと切り、今では肩につくくらいの長さにしている。着物も昔から落ち着いたものを好んでいたが今は淡く明るいものを着ていた。
 栄吉が奉公に来たばかりの頃、緊張する彼がたまたま私の着ていた着物に描かれた鮮やかな小鳥を見て嬉しそうに笑ったのが忘れられず、それ以来彼と出かける際には色のついたものを着るようにしていたのだ。

「男でもできたのか?」

 百之助さんの言葉に私は笑う。

「ええ、もちろん。あなた以上に大事な人ができたわ」

 一瞬百之助さんは顔をしかめたが、私の視線の先にいる少年を見て納得したように頷く。そして私も彼に否定することなく黙っていた。

 それにしても今になって何しに来たのだろうか。ふといきなり現れた百之助さんに対して疑問に思う。
 あの頃、彼を取り巻いていた事柄はもう済んだのであろうか。
 しかしそれを聞いたところで私は彼とよりを戻すつもりは一切なく、聞いても無駄だと思い口を噤んだ。

 一緒になると、どうしても互いが不幸になる存在はいる。もしかするとそれが私であり百之助さんなのかもしれないと思った。彼の顔を見ると愛おしさが込み上げるが、もうあんな身を引き裂かれるような思いは懲り懲りである。
 こんな面倒くさくて気分屋で、自分の母親まで殺したというとんでもない男は最初からきっと私には荷が重かったのだろう。

「元気にやってるの?」
「何回か死にかけた」

 百之助さんがため息を吐きながら答える。
 けれどこの男のことだ。何があってもしぶとく生き残りそうだと私は苦笑した。

「ねえ、ところであの葉書って、あなた?」

 栄吉が私に手渡した葉書のことだ。あれを栄吉に持たせたという人物の特徴を聞いて間違いなく彼だと私は気付いていた。
 私がちらりと横を見れば、百之助さんは観念したように小さく頷いた。

「香まで炊いてくれたの?」

 くすくすと笑うと彼は不機嫌そうに眉をひそめる。そして彼は口を開いた。

「やっと返せた」

 その一言で私は理解する。
 戦時中、私は百之助さんに手紙を送り続けたがいつまでも返事が返ってこず、いつしか送るのを止めてしまったのだ。もしかしたらその返事のことをも言っているのかもしれない。

 けれどそこでまたも私は呆れてしまう。返せたも何もあの葉書には返事の一文だって書かれていなかったのだ。きっと百之助さんのことだから何を書けば良いのか分からずそのまま栄吉に渡したのだろう。肝心なところで不器用で言葉足らずなのは今も治っていないらしい。

 するとその瞬間、周りの歓声が一際大きくなった。そろそろ終盤なのであろう。
 栄吉の方を見ればこちらを見て嬉しそうに笑っていた。頬を赤く色づかせ興奮している。それに私も笑みをこぼした。

「お前が俺以外の男と添い遂げていても良かった」

 百之助さんがぽつりとこぼす。それに私は驚けば、そのまま彼は続けて言った。

「お前が元気そうで良かった」
「え、本当に思ってる?あの百之助さんが?」
「お前な…………」

 それに私は苦笑する。
 そして目を伏せて息を吐いた。もう春だというのに札幌の街は肌寒く、吐き出した息は白く色づく。

 彼の言葉を脳裏で反芻させながら私はぼんやりと思った。何故、今になってそんなことを言うのだろう。もう離縁している今、何の意味もないというのに。私が息災にしているのか確認したいだけであるならば、こうしてわざわざ話す必要はない。
 彼の性格からして何か目的でもあるのだろうか。

 そう思い私は百之助さんの方へ顔を向ければ、ふと顔に影がかかる。暗くなった視界に驚いて立ち尽くしていれば、その一瞬で唇に柔らかい何かが当たった。
 それが何なのか分かった瞬間、私は目を丸くさせる。そして彼はぽつりと呟いた。

「またな」

 その言葉に私は言葉を失う。
 まさかもう一度自分と会うつもりなのだろうか。あんな別れ方をしておいてそんなことを言えてしまうこの男が分からない。

 しかし彼の目を見つめた瞬間、言葉を噤んだ。
 昔から、百之助さんは時折言葉よりもその空洞のような瞳でゆうゆうと訴えかけてくることがあった。分からないことの方が多いけれど、今彼がこぼしたその言葉にどれだけの願いを込めているのかを理解した瞬間、私は目を伏せて笑った。

「さようなら」

 百之助さんとは様々なしがらみがあり、たとえ一緒になってもまた不幸になり離れて行く予感がした。
 彼につけられた病のような傷は時折思い出してはじくりじくりと痛み出す。こうして顔を合わせ懐かしい日々が脳裏を駆け巡るとともにあの残酷な別れをどうしても思い出してしまうのだ。
 まるではじめから無かったかのような愛だったけれど、あの頃感じていた彼への気持ちだけは決してまやかしなんかではなかった。
 だからこそあの別れは辛く、いつまでも私の傷は癒されない。よりを戻したとしてもそれを思い出してはきっともう私は彼を許せない。

 そう思った瞬間、私は自嘲するように苦笑した。
 もし添い遂げるのなら、それこそ互いが生まれ変わるほどのことがない限り難しいのかもしれない。
 彼は私の言葉を聞き、薄く笑う。私にはもうやり直す意思がないのを理解したのかもしれない。

 そして百之助さんはその場から踵を返した。
 人垣から離れ雑踏に紛れて消えていく彼の後ろ姿を、私は止めることなく、栄吉が声をかけてくるまでいつまでも見続けた。







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