02.プラタナスー好奇心ー





「ヒッヒッヒッ…」
「…なるほど。○○さんは今日休みだったけれども、シゲさんがぎっくり腰になったと連絡を受けて、手伝いに来てくれた…と言う事だな」
「はい…」
「ヒッヒッヒッ…」
「それは申し訳なかったな、折角の休みだったのに」
「いえ、どうせ家に居てもやる事はそんなにないので…それならシゲさんのお手伝いを、と思って…」
「フー……ククッ…」
「おーいシゲさん、いつまで笑ってんだよ」

小次郎は、○○の傍に腰を下ろして笑っているシゲを呆れた様子で見やった。その頬には、○○から受けた手の跡がはっきりと浮かんでいる。

「すまんすまん、あまりの見事な張り手につい、な」
「うぅ…。申し訳ございません…」

シゲの言葉に肩を竦めた○○に、小次郎は慌てる。

「○○さん、気にしなくていいから顔を上げてくれ。急に後ろから手を回した俺も悪いんだ」
「そうじゃな、転びそうになった○○を一輪車との激突から守ったんじゃ。名誉の負傷じゃよ」
「上手い事言うじゃねぇかシゲさん。そうだ、名誉の負傷だ。な?だから気にしないでくれ」
「…はい…ありがとうございます…」

しかし、○○の表情を見る限り、気にしていないはずはない。これ以上不憫な思いをさせないように、小次郎は明るく振舞った。

「よし、この話はもう終わりにしよう!こいつらに餌やって、今日の作業も終わりにしようぜ。○○さん、これは俺が運ぶから、後片付けを頼むよ。急がねぇと、帰りの車に乗り遅れるぞ」
「あ…は、はい!」

一輪車を動かし始めた小次郎の後を○○は慌てて追い掛ける。そんな二人の様子を、シゲは楽しそうに見つめていた。



仕事を終えた三人が事務所に戻ると、そこには小次郎の母親である初音が事務作業を行っていた。扉が開く音に顔を上げた初音は○○の姿を見た瞬間目を見開き、慌てた様子で駆け寄る。

「○○ちゃんじゃない!どうしたの?貴女今日お休みでしょう?」
「お袋、○○さんはぎっくり腰やっちまったシゲさんの手伝いに来てくれてたそうだ」
「すみません、お声掛けしようと思っていたんですけど…」
「あー、○○ちゃんは悪くないんじゃよ。すまん初音さん、ワシが○○ちゃんをすぐに連れ出してしまったんじゃ」

小次郎に負ぶわれているシゲが○○を庇うように説明する。初音は、シゲ、小次郎、○○の順に顔を見た後、困惑した表情を浮かべた。

「そうだったの…ありがとう○○ちゃん。でも、ごめんなさい。あの人もう車出しちゃったのよ…」

御影牧場で働く従業員は、先代の頃から住み込みで働くシゲを除き、就業時間前と就業時間終了後にオーナーである御影雄一郎がワゴン車を出し、駅まで送迎している。雄一郎はその日のシフト表を見て、乗り遅れている人が居ないかを確認したのちに車を出発させているのだが、当然、今日のシフト表に○○の名前は載っていない為、人数が揃った時点で車を発車させていた。

「大丈夫です。まだ空も明るいですし、歩いて帰ります」

微笑む○○の言葉を聞いて、小次郎と初音は驚いたように同時に口を開いた。

「おいおい、ここから駅まで相当歩くぞ?!駅に着くまでに暗くなっちまう!」
「そうよ!女性一人でこの辺を歩かせられないわ、何かあったら大変!」
「で、でも…」

二人は○○の言葉を遮るように話を続けた。

「お袋、親父の車あるだろ。俺が送る」
「えっ…!」
「そうね、そうしてちょうだい。車の鍵持ってくるから、あなたはシゲさんを部屋まで送ってきて。○○ちゃん、着替えたらここに戻ってくること。絶対よ、いいわね?!」

初音の有無を言わさぬ剣幕に圧倒された○○は小さく頷くと、バタバタと動き始めた二人を見て申し訳なさと自分の失態を心底反省した。



広大な牧場の柵が、次々と流れていく。その様子を、○○は黙って眺めていた。車内にはラジオが流れ、パーソナリティがゲストと楽しそうに談笑している。この二人のように、小次郎と楽しく会話が出来ればいいのだが、先程会ったばかりで、しかもいきなり狭い車内で二人きりになるという状況で、緊張しないはずがない。当然、話すような話題は思いつかず、ただ時が流れるのを待つしかなかった。
一方、助手席でマネキンのように固まったままの○○を横目で見た小次郎は、話しかけていいものかと悩んでいた。○○が緊張している事は、手に取るように分かる。しかし、駅までの道のりをこの重苦しい雰囲気が続くのは流石に辛い。小次郎は、意を決したように静かな深呼吸を一つすると、○○を驚かせないように、出来るだけ優しく声を掛けた。

「…○○さん」

静かに声を掛けたつもりだったのだが、○○の体が大きく跳ねた。眼を大きく見開いた、驚いたような怯えるような、何とも言えないような表情を向けられ、小次郎は思わず吹き出してしまった。

「ふはっ!」
「っ!?」
「…っ、いやっ、悪ぃ!脅かすつもりはなかったんだ、でもまさかそんなに驚くとは…、くくっ…!」
「……な、何でしょう…」
「取って喰おうってわけじゃねぇんだから、そんな身構えなくても大丈夫だ、安心してくれ。俺はただ、話がしたいだけなんだ」

車を走らせているため、今は横を向くことは出来ない。○○がどんな表情をしているのかを見ることが出来ない事を残念に思いながら、小次郎は話を続けた。

「○○さんは、いつからここで働いてるんだ?」
「…半年ほど前から、お世話になってます」
「半年前、か…」

半年前。それは、小次郎が『真面目ちゃん』の最終進路を提案…つまり、『真面目ちゃん』に対する自分の想いに終止符を打った時だった。思い出さないようにしていても、こうした拍子にふと思い出してしまうところを見ると、まだ完全に吹っ切れていないようだ。小次郎は、小さな溜息を吐いた。

「あの…」
「ん?」
「大丈夫、ですか…?」

目の前の信号が赤に変わり、小次郎はゆっくりと車を止めた。○○の言葉の意味を理解するのに、少しの時間を要した。感傷に浸ってはいたが、それはほんの少しの時間で態度や表情には出なかったはず。それなのに、○○はなぜ「大丈夫か」、と聞いてきたのだろう。小次郎は、○○と視線を合わすように顔を向けた。ミディアムヘアから覗く大きな瞳が小次郎を見つめている。その瞳の色はまるで、小次郎の心の中を見透かしているかのように透き通っている。小次郎は、その瞳から視線を外すことが出来なかった。

「あの、そろそろ青に…」
「あ、あぁ、そうだな。悪い」

暫くの沈黙の後、○○の言葉に意識を戻した小次郎はぎこちない笑顔を見せると、信号が青になると同時に車を走らせた。車内に再び沈黙が流れる。そろそろ駅に到着してしまう。このままの状態で○○と別れてしまっては、元の木阿弥だ。小次郎は取り繕うかのように無理矢理会話を続けた。

「…何か心配してくれたようだけど、俺は大丈夫だぞ?」
「そう、ですか。なら良かったです。すみません、変な事言って…」
「あぁ、ありがとな。…ところで、どうしてうちで働こうって思ったんだ?」

今度は○○が黙り込んでしまった。地雷でも踏んでしまったのだろうか、と心配になった小次郎が視線だけを向けると、○○は笑顔を引きつらせたまま固まっている。ただ興味本位で聞いたのだが、良くなかったらしい。何か言わなくては、と焦るも、無情にも駅に到着してしまった。ロータリーに車を停止させ、ギアをパーキングに入れる。車内には、一時停車中の合図であるハザードランプの音が妙に大きく響いていた。

「…あの、ありがとうございました…」
「いや、どういたしまして」

お互い、見せる笑顔が引き攣っている。嚙み合わなさすぎる会話に小次郎が頭を抱えていると、○○がドアを開けて車を降りた。少し身を屈め、小次郎と視線を合わせる。

「あの、さっきの話ですけど…また、2人になった時にでもお話させてください」
「お、おう…」
「その代わり、笑わないでくださいね?この話をすると、大抵の人は吃驚したり笑ったりしちゃうので」

ふふ、と笑う、初めて見た○○の自然な笑顔に、小次郎の心臓が音を立てた。

「それじゃあ、失礼します。お休みなさい」

ドアが閉まる音に我に返った小次郎は急いで窓を下げると、駅の改札口に向かう○○の後姿に向かって声を張り上げた。

「また明日、お休み!」

小次郎の声に驚いたように振り返った○○が、はにかみながら小さく頭を下げる。改札口を通り、姿が見えなくなるまで見送った小次郎は、短い息を吐くと再び車を走らせた。先程よりも気持ちが軽い。それは、彼女へ抱いていた緊張感からの解放というものではなく、○○という人物に対する小さな好奇心が心に芽生えていたからだった。しかし、小次郎はまだこの気持ちに気付いていない。

二人の物語が今、幕を上げたー…

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