03.ゼラニウムー決意ー





小次郎と○○が顔を合わせた日から数日が経った土曜日の朝。開場前の牧場内には静かな時間が流れていた。古株の従業員であり、主に整備担当を担っている春雄が木材を運んでいると、前方から鞍の入った桶を抱えた○○がやって来る事に気が付いた。何やら嬉しそうな顔をしている。春雄は、○○に声を掛けた。

「おう○○ちゃん。どうした、良い顔してんじゃねぇか。何かいい事でもあったのか?」
「春雄さん!聞いてください、今日初めて乗馬体験の担当になったんです!」

興奮した様子で話す○○に、春雄も顔を綻ばせる。

「そいつぁ良かったじゃねぇか。頑張れよ」
「はい!」

笑顔を残したまま、足取り軽く馬小屋へ向かう○○の後姿を見送った春雄は、鼻歌を歌いながら持ち場へと向かった。



「みんな、おはようっ」
「おう、おはよう!」

待機している馬たちに声を掛けながら小屋に入ると、突然返って来た人間の声に驚き、体を飛び上がらせた。その拍子に水桶を落としてしまい、鞍の他に、ブラシや鉄爪までもが辺りに散らばる。

「おいおい、大丈夫か?」
「み、御影さん…!」

○○を脅ろかせてしまった声の主である小次郎は、馬にブラシを掛けていた。先日顔を合わせた時とは違い、御影牧場オリジナルの作業着に身を包んでいる。持ち前の長身とそれに合う体躯をしている事もあり、作業着姿がとても似合っていた。

「… ○○さん?」

小次郎を見つめたまま一向に動こうとしない○○に、小次郎が手を振って意識を確かめる。我に返った○○は慌てた様にその場にしゃがむと、散らばった道具を拾い集めだした。

「す、すみませんっ、まさかここにいらっしゃるとは思わなくてっ」
「いや、俺の方こそ脅かしちまったみたいで、申し訳ない」

馬を一撫でした小次郎は○○の方へ歩みを寄せると、同じようにしゃがみ込んだ。道具を拾い、○○の傍に置かれた桶の中に戻していく。

「すみません…」
「謝る必要はねぇぞ?俺のせいでもあるんだからな」
「ありがとう、ございます」
「おう。…ところで今日、乗馬体験の担当なんだろ?」
「はい。今日、初めて担当を任せてもらえて…」

顔を合わせながら互いが鉄爪に手を伸ばしたその瞬間、○○の手に小次郎の大きな手が重なった。

「!」
「っ、悪いっ」

弾けるように同時に手を引っ込めた二人は視線を交わらせると、照れ臭そうに小さく笑い合った。

「俺が拾うよ」
「あ…」

鉄爪を拾う小次郎を、○○は一瞥した。小次郎の作業着姿を見るのは当然の事ながら初めてなのだが、作業着姿が馴染んで見える。それはきっと、牧場で生まれ育ったという事実があるだけでなく、動物に対する接し方や話し方が手練れているからなのだろう。現に、先程馬に触れていた小次郎の手付きは、○○から見ても分かるほどに優しいものだった。その視線に気付いたのか、小次郎が○○に瞳を向ける。

「どうかしたか?」
「あっ、いえ……」
「…これで全部だな」
「はい。あの、ありがとうございました」

申し訳なさそうな、はにかむ様な、そんな笑顔を見せる○○に小次郎は優しく微笑んだ。桶を持って立ち上がった小次郎が、○○に手を差し出す。○○は差し出された手と小次郎の顔を交互に見たあと、おずおずとその手のひらに自分の手を乗せた。自分よりも一回りも違う大きな掌に、心臓がとくりと音を立てる。腕を引かれながら立ち上がると、小次郎は握った手をそのままに、屈託のない笑顔を見せて言った。

「今日一日、○○さんの手伝いをすることになったんだ。よろしくな」

優しく握られた掌の暖かさに、思わず頬が薄く染まる。○○は小さく頷いた。



雄一郎の睨んだ通り、牧場にはたくさんの観光客が訪れ、大変な賑わいを見せていた。小次郎と○○が担当する乗馬体験コーナーも盛況で、人の波が途切れることがなかった。開場当初、緊張で笑顔が強張っていた○○だったが、小次郎の的確なサポートにより次第に体の力が抜け、本来の笑顔が出るようになった。人当たりの良い柔らかな笑顔は、馬に乗るのを怖がる子どもたちの心を解ぐすのにとても有効で、小次郎が関心するほどのものだった。
閉場時間になり、最後の客が去った後、2人は馬を引きながら馬小屋へ向かっていた。橙色の光が、後ろに長い影を伸ばしている。

「しっかしすごい人だったなぁー」

眩しそうに目を細めながら夕日を見上げる小次郎に、○○も顔を上げる。

「休憩時間以外、ずっとお客さんが来てくださってましたもんね」
「○○さん、今日は現場責任者として初めての仕事だったから、疲れたんじゃないか?」

小次郎の言葉に、○○は少し考えたあと笑いながら言った。

「そうですね、まだ興奮冷めやらぬって感じなんですけど、今夜はすぐ寝ちゃうかもしれません」
「俺も今夜は、一瞬で眠りに落ちそうな気がするよ」
「ふふっ、お互いにいい夢が見られるといいですね。あ、御影さん、今日はありがとうございました。御影さんの的確な指示とサポートのお陰で、大きな失敗をすることなく終える事ができました」
「俺は何もしちゃいねぇよ。全部○○さんの頑張りの賜物だよ、なぁモコちゃん?」

小次郎に引かれた馬のモコが鼻孔を鳴らす。まるで返事をしたかのようなタイミングに、二人は笑う。

「でも本当に、御影さんが居てくださって良かったです」
「そう思ってくれるなら良かったよ。俺の方こそ、○○さんの笑顔には随分助けられた良い顔してたもんな。この仕事、好きなんだな」
「はい。動物たちの可愛さは勿論なんですけど、動物たちと触れ合って人が笑顔になる姿を見るのが大好きなんです。人と動物たちの幸せそうな笑顔を見ると、こっちまで幸せになってきませんか?」

夕日に照らされた○○の柔らかな笑みが、小次郎の胸を高鳴らせる。

「…そうだな。そう考えると、○○さんにとってこの仕事は天職になるのか?」
「天職ですね」

きっぱりと言い切った○○に小次郎は目を細めた。馬たちを馬小屋に帰したあと、二人は営業所へ向かった。綺麗な夕焼けが2人を後ろから照らしている。そこから作られる自分の長い影に視線を落としながら、○○は小次郎に声を掛けた。

「御影さん。あの「あー、悪い。ちょっと待った」…?」

○○の言葉を遮るように小次郎が口を挟んだ。

「俺の名前、知ってるよな?」
「はい。御影小次郎さん、です」
「"小次郎"でいい。その、堅っ苦しいのはあまり好きじゃねぇんだ」
「…でも…、」
「シゲさんを筆頭に、売店のおばちゃんとか食堂の小柴さんとか、みんな俺の事を下の名前で呼んでるだろ?オーナーの息子だからって、そんなに気を遣わねぇで欲しいんだ。寧ろ俺が、気を遣われたくない。だから○○さんも、俺の事は気軽に下の名前で呼んでほしい」

確かに、小次郎の事を”御影さん”と呼ぶのは○○だけだった。他の人たちは小次郎の事を"小次郎"と呼んだり"小次郎ちゃん"と呼んでいる。小次郎もまた、○○の事も他の従業員たちの事も名前で呼んでいた。名前で呼んで欲しい、という小次郎からの提案は奥手な○○からすれば有難いものなのだが、男性を下の名前で呼ぶ事にあまり慣れていない為、少々緊張する。けれども、「な?」と、人懐っこい笑顔で○○を見つめる小次郎に、心を決めて頷いた。

「…分かりました。…こ、小次郎さん」
(「小次郎さん」)

○○に名前を呼ばれた瞬間、小次郎の心臓がどくりと音を立てた。脳裏に『彼女』が蘇ったのだ。一瞬、ほんの一瞬だけ、○○と『彼女』が重なって見えた。『彼女』がふざけて下の名前で呼んだ時の記憶が呼び起される。

(おいおい、仮にも俺は担任だぜ?)
(ごめんなさい、冗談です!…もしかして、照れちゃいましたか?)
(生徒に呼ばれたくらいで照れねぇよ)
(なーんだ。あ、そろそろ次の授業始まりますよ、早く来てくださいね、御影先生!)

「……あの、小次郎さん?」

○○に呼ばれ、小次郎は我に返った。いつの間にか立ち止まっていたらしく、○○が心配そうに小次郎を見上げていた。

「あ、あぁ、悪い。ちょっとぼーっとしてた。うん、そう呼んでくれた方がいい」
「…何だか少し照れちゃいます」
「すぐに慣れるよ」
「はい」

今日の晩御飯は何にしようかなぁ、小次郎さんは今何が食べたい気分ですか?と、他愛のない会話をしてくれる○○の気遣いが嬉しかった。○○と『彼女』を重ねてしまったことに対する罪悪感から、うまく笑顔が作れない。いい加減、『彼女』に対する自分の気持ちを整理しなければ、と、少し先を歩く○○の背中を見つめながら、拳を握りしめた。

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