┗御影小次郎の受難ープロローグー





「○○、見てみろよ。こんなものが出てきたぞ」

部屋の片付けを手伝っていた○○は、小次郎に呼ばれて振り返った。一枚の白いVネックシャツを手にした小次郎が、嬉しそうにそれを広げている。それを目にした○○の目が丸くなった。

「えっ、それってまさか、あの時の…?」
「あぁ。懐かしいだろ?」

目を細めて笑う小次郎に、頷く。

「懐かしいけど、まさか残ってたなんて思わなかった」
「すべてはこれから始まった、と言ってもいいくらい色んな事が起こったからなぁ。ある意味、思い出の記念品だな」

白シャツの胸の部分に付いたものを見つめながら、小次郎はその時の事を思い出していた。
これは、二人がまだ、お互いを意識していない頃の話ー…



「新色のリップ?」
「そー、これなんだけどさ。どう?なかなか良い色してるっしょ?」

昼休憩も終わるころ、女子更衣室で化粧直しをしていた○○に、乙女が真新しいリップを見せていた。

「本当だ、赤でもピンクでもない、綺麗な色…」
「ピーチブロッサムって色なんだけどさ、○○ちゃん良かったらちょっと塗ってみない?○○ちゃん色白だし、この色きっと映えると思うんだー」
「いいの?嬉しいっ」
「もっちろんだよ!私がやったげるね、ちょっと目を閉じて…」
「うん」

乙女は、目を閉じた○○の唇にリップライナーを塗り、輪郭を形どった。その中を、ブラシで色を乗せていく。思った通り、この色は○○の白い肌に合っている。乙女はブラシを持つ手をすぐさまスマートフォンに持ち変えると、無音シャッター付きカメラアプリを開き、複数枚シャッターを切った。

「…○○ちゃんいいよ!目開けてみて。…ほら!可愛い!超似合ってる!」

ロッカーの扉の裏に掛けられている鏡を覗き込んだ○○は、感嘆の声を上げる。

「…わ、すごい、顔が明るくなった!」
「でっしょー?他にもいっぱいいろんな色あったから、良かったら見てみてよ!後で買った店のURL送るからさっ」
「うん、ありがとう乙女ちゃん」

二人は建物から出て、建物に沿って歩き始めた。空に浮かぶ雲を見上げ、何に見えるかを互いに話す。お昼を食べたあとは甘いものが食べたくなるね、などと笑い合っていると、突然○○がバランスを崩した。上を見上げていたため、地面に埋まっている石に気付かずに、蹴躓いてしまったのだ。「わっ…!」声を出しながら前のめりに倒れたその瞬間、

「んぶっ!!」
「っ、うおっ?!」

角から姿を現した小次郎の胸の中に飛び込むような形で抱き着いてしまった。小次郎も反射的に○○を抱き止める。途端に、柔らかな日差しを受けているような温かさと、まるで草原の中に佇んでいるような心地のいい香りが○○を包み込んだ。遠い昔に嗅いだ事のあるような、どこか懐かしい香りに思考が止まる。

「っと危ねぇー…。○○さん、大丈夫か?」

そかし、それも束の間。頭上から聞こえてきた声に意識が戻った○○は、自分の背中に回された小次郎の腕に気付くと顔を赤くしながら慌てて体を起こした。

「ごっ、ごめんなさい…っ!」
「いや、構わねぇよ。それより怪我はないか?」
「、はい……、こっ、小次郎さんごめんなさいっ、シャツに…っ!」

○○は、青ざめた顔で小次郎の胸元に目を留めている。

「シャツ?」

小次郎が視線を落とすと、ツナギの下に着ている白いアンダーシャツに、薄い桃色の何かが付いていた。よく見ると、それは唇の形をしており、すぐに○○の唇の跡だという事に気付く。小次郎は幾度か目を瞬かせると、ははっ、と笑った。

「なんだ、これくらいどうって事ねぇよ。それより○○さんに怪我が無くて良かった」
「でも…、あの、せめてクリーニング代を…っ!」
「んなの要らねぇよ、こんなシャツなんて部屋にいくらでもあるんだ、気にすんな」

全く気にしていない様子で笑う小次郎に対して、○○の表情は曇っている。その様子がまるで小動物のように思え、思わず○○の頭を撫でかけた。が、髪に手が触る寸前で思い留まった。小次郎は、浮かせた手をゆっくりと下ろし、少し考えた後に口を開いた。

「…じゃあ、明日時間が合えば、食堂で一緒に飯食ってくれねぇか?あぁ、奢るとかそんな事じゃなくて、ただ一緒に食べてくれるだけでいいんだ」
「……でも」
「ほら、俺がここに来てから数週間経つけど、○○さんとこうして面と向かって話したことねぇだろ?俺は、その…ここの跡取りとして、働いてくれている人がどういう人なのか知っておくべきだと思っているんだ。実際、トメちゃんとはもう色んな話をしている。なぁ、トメちゃん」

これまで二人の成り行きを見守っていた乙女が、大きく頷く。

「うん、こじこじがここに来るまで学校で生物を教えていたとか、教頭先生が怖かったとか、部屋の中では裸だとか、色々話したよ」
「おいおいおい、今それいう必要ねぇだろ?!」
「え?なに?他にも言えって?」
「…ふふっ」

小次郎と乙女の掛け合いに、先程まで落ち込んでいた○○の表情に色が戻った。

「…まぁ、そんな他愛の話をしながら、な。○○さんさえよければ、の話なんだが」

照れ臭そうに頭を掻く小次郎に、○○は小さく微笑みながら頷いた。

「……よろしくお願いします」
「っ、決まり、だな。明日、楽しみにしているよ」
「こじこじ、また私ともご飯食べてね」
「あぁ、今度は生物と遺伝子について話してや「はいパスぅー」」

小次郎は笑みを浮かべたまま二人と視線を合わせると、じゃあな、と去って行った。○○と乙女は小次郎を見送ったあと、先程と同じように並んで歩き出す。

「○○ちゃん、こじこじの身体どうだった?」
「え"?!か、身体?!」
「うん、○○ちゃんが結構な勢いでぶつかったのに、こじこじ全然動じてなかったじゃん。体幹がしっかりしてるだけじゃなくて、それを支える筋肉がないとなかなかあぁはならないと思うんだよね。やっぱ筋肉すごかった?」

乙女の言葉に、しがみついた時に触れてしまった小次郎の身体の感覚が蘇る。○○は顔を真っ赤にすると、慌てた様子で否定した。

「そっ、そんなの、覚えてない、よっ」
「…ほんとに?」
「っ、本当、」

瞳を泳がせる○○に、乙女は目を細める。

「………ふーん……まぁいいや。さーて、午後からの仕事も頑張るかー!いっぱい売って、バイト料弾んでもらうぞー!じゃあ○○ちゃん、私行くね、また後でー!」

太陽のように明るい笑顔を見せながら、乙女が走り去って行く。○○はその背中を見送ると、息を吐いた。心臓がまだ大きく反応している。自分の身体を包み込んでくれた小次郎の身体の大きさと温かさ、そして匂いは、○○の脳裏にしっかりと刻まれていた。暫くの間その場に立ち尽くしていた○○だったが、頬を両手で軽く叩くと、まるでその場に先程感じた気持ちを置いていくかのように、一気に駆け出した。
同じ頃、小次郎は先程○○が付けた唇の跡を見つめていた。そこにそっと指を這わせ、それが現実だと確認する。○○が自分の胸に飛び込んできたとき、ふと香ったのが、○○の髪に付いた干し草を取ろうと近寄ったときに香った時と同じ香りだった。香料でもない、香水でもない、優しい香り。小次郎は、ふぅ、と小さく息を吐くと唇の跡が隠れるようにツナギのファスナーを上げた。



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