御影牧場から三十分ほど車を走らせたところにあるホームセンターの中を、小次郎は大きなカートを押して歩いていた。カートの中には園芸品の他に、釘や木材が多々積まれている。これらは、動物舎の整備や場内の補修作業を行うための資材だ。御影牧場では、閑散期に入った時期を見計らってその作業を行っており、小次郎はその為の買い出しに来ていた。
「悪いな、○○さん。買い出しに付き合ってもらって」
横に並ぶ○○に声を掛けると、○○はメモに視線を落としていた顔を上げて、笑顔で首を振った。
「いいえ…って言っても、お役に立ててるか分かりませんけど」
「十分役に立ってるよ、ありがとな。…で、次はなんだ?」
「えーっと…。後は、洗剤系と、トイレットペーパーにティッシュペーパーです」
小次郎は怪訝そうな表情を見せた。雄一郎からメモを預かった際に軽く目を通したはずなのだが、生活用品が書かれていた記憶はない。
「…そんな物、書いてあったか?」
「はい。ここからは初音さんからの頼まれものになります」
そう言って○○は、もう一枚のメモ用紙を小次郎に見せた。その紙には、確かに母親である初音の文字が並んでいる。
「おいおい、何考えてんだよお袋は…」
「ふふっ、効率的ですよね。折角ホームセンターに行くんだからついでにお願いって、小次郎さんが車を取りに行ってるときに渡されたんですよ。あ、私新しいカゴ持ってきますね」
少し先にあるカゴ置き場へ向かう○○の背中を見つめながら、小次郎は胸いっぱいに空気を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。○○が隣に居ると、妙に緊張してしまう。小次郎は、二人で出かけるきっかけを作ったシゲと春雄のほくそ笑んだ顔を思い出した。
・
「小次郎、シゲさんか春雄さんと一緒にホームセンターに行って、これを買ってきてくれないか」
朝の業務を終えて一息ついている小次郎の元にやってきた雄一郎が一枚の紙を手渡した。そこには木材や釘と言った数々の修繕品が書かれている。それが何を意味するのかを察した小次郎は雄一郎に二つ返事を返すと、二人が休憩している事務所へ向かう。
「なぁ、シゲさん、春雄さん。悪ぃんだけど、どちらか俺と一緒にホームセンターに行ってくれないか?」
「ホームセンター?何を買うんじゃ」
「修繕品だよ。ちょっと量が多くて、俺一人じゃ持ちきれそうにないんだ」
「人一人居ればいいのか?」
「あぁ」
シゲと春雄は互いに顔を見合わせると、深く頷いた。
「…小次郎、先に車の所に行って待っとってくれ、すぐに行く」
「分かった」
事務所から車の鍵を手にした小次郎は、裏に駐めてある車へ向かう。鍵を開け、エンジンを掛けようと車に乗り込もうとしたとき、こちらに向かって走ってくる○○の姿が目に入った。
「っ、はぁっ、すみませんっ、お待たせしましたっ」
息せき切る○○に、小次郎は頭に疑問符を浮かべる。
「俺、○○さんに何か頼んでたか?」
「え?あの、シゲさんと春雄さんから、小次郎さんが呼んでるから裏に行くようにって言われたんですけど…」
後ろを振り返る○○に続くように小次郎が窓に視線を向けると、シゲと春雄が嬉しそうにこちらを見ていた。○○が小次郎の事を名前で呼ぶようになってからというもの、二人はやたらと小次郎と○○を合わせようとするのだ。今回もしてやられた小次郎は、ほくそ笑む二人に対して苦笑いで返すしかなかった。
・
頼まれたものを全て買い終え、車内に積み終えた小次郎が運転席に座った時、助手席側の扉を開けた○○が顔を覗かせて言った。
「あの、小次郎さん」
「どうした?」
「すみません、あそこの自販機で何か飲み物買ってきてもいいですか?」
「あぁ、構わねぇよ」
「ありがとうございます。小次郎さんは何がいいですか?」
「俺の分も買ってきてくれるのか?」
「勿論です」
微笑む○○に、小次郎も微笑みを向ける。
「…そうか、ありがとう。それなら○○さんのお勧めで頼むよ」
「お、お勧めですか?」
「あぁ、ただし、今はホットの気分ではないかな」
「うーーん…ホット以外でおすすめ…?とりあえず行ってきます…」
少し先にある自販機に向かう○○の後姿を見つめながら、小次郎はハンドルに上半身を預けた。首を傾げながら数台ある自販機の前をウロウロする姿がまるで小動物に見えて、笑みが零れる。しかし次の瞬間、一人の男が○○の元へ駆け寄り声を掛けたのを見て、小次郎の顔からは笑みが消えた。振り返った○○の顔が歪む。○○は、男を無視するように車の方へ走りかけたが、男の腕がそれを阻止した。
「少しでいいんだ、もう一度話がしたいっ」
「っ、やだっ、話すことなんてない!離して…っ!!」
「頼む、俺が「おい」っ!?」
突然頭上から聞こえた声に、○○は視線を上げた。
「こ、小次郎さん…」
先程まで車内に居たはずの小次郎が、目の前にいる。小次郎は○○に少しだけ視線を落とすと、すぐに男に向き合った。顔からは表情が消えているが、その視線は鋭い。
「…今すぐその手を離せ」
「お前には関係ねぇだろ!これは、俺と○○の問題だ!首を突っ込んでくるな!」
「そう言うわけにはいかねぇんだよ。手を離さねぇなら……力尽くでいくぞ」
伸びてきた手が男の腕を掴んだ。そのあまりの力の強さに、男は思わず手を離す。小次郎はすぐさま○○を自分の後ろに隠すと、男ににじり寄った。男は一瞬怯んだような表情を見せるも、すぐに小次郎を睨み返す。
「お前、○○の何なんだ…!」
「それこそ関係ねぇだろ。とっとと失せろ。これ以上食い下がってくるなら…」
低重音の声を出す小次郎が男ににじり寄る。大きな体躯から出される威圧感に息を詰ませた男は、小次郎の後ろに居る○○を一瞥すると、「…また連絡する」と言って去っていった。男の姿が完全に見えなくなったあと、小次郎は○○に向き直った。
「大丈夫か?」
先程の表情から一変し、心配そうな顔はいつもの小次郎で、○○は小さく震える手を隠すように握りしめながら小さく笑みを浮かべた。
「…な、何とか…」
「とりあえず、車に戻ろう」
また男が戻ってくる可能性もある。この場に居続けると危ないと判断した小次郎は、急いで○○を車へと連れていった。
・
車を走らせて暫くが経った。車内は沈黙に包まれている。カーラジオから流れる軽快な音楽が二人の間に流れる空気を一層重くしていた。どうしたものかとちらりと視線を送るも、○○は少し俯いたまま微動だにしない。無理もないか、と諦め半分で視線を前に移した時、○○が口を開いた。
「…あの、小次郎さん」
今にも消え入りそうなか細い声に、小次郎の心臓が跳ねる。
「…ん?」
「助けて下さって、ありがとうございました」
「いや…。それより、腕は大丈夫か?だいぶ強く握られていただろ」
○○は自分の腕を見て、顔を顰めた。
「少し痕が付いてますけど…すぐ消えると思います」
「そうか…。あの、さ、話したくなけりゃ話さなくていいんだが、あの男は…」
「…あの人は、元職場の上司で……半年前まで、付き合っていた人です」
元、とはいえ、○○の口から恋人が居たという事実を突きつけられ、小次郎の胸が小さく痛む。
「以前、小次郎さんがどうしてここで働こうと思ったのかって尋ねて下さったこと、覚えてらっしゃいますか?」
「あぁ」
「実は、あの人に関係してて…。すみません、話が長くなっちゃうかもしれませんけど、聞いてもらえますか?」
信号待ちで前の車に倣いブレーキを掛けると、小次郎は○○と視線を合わせた。緊張した面持ちの○○に、優しく微笑む。
「…ゆっくりでいいからな」
小さくはにかんだ○○は、前を向き直して話し始めた。
「私、昔から動物園や牧場と言ったところが大好きなんです。だから、あの人と付き合っている時もそういう所に行きたいって何度もお願いしていたんですけど、あの人は動物は好きじゃないから、中々行けなくて…。やっと連れて行ってくれたのが、御影牧場だったんです。私嬉しくって、ずっと動物たちと触れ合っていました。でも、あの人からしたら私が動物たちに構いっぱなしだったのが気に入らなかったみたいで、急に不機嫌になっちゃって。それに対して私が少し反論したら、"そんなに俺のことより動物の事が好きなら、ここで働けばいいだろう!"って怒鳴られて。元から少し怒りっぽい性格だったので、突然声を荒げられるのは慣れてたんですけど、それよりもその後に、私の周りにいる動物たちを乱暴に追いやったんです。私、腹が立って…。その場であの人に辞意を告げて、お別れしました」
思わぬ言葉に、小次郎は動揺する。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、恋人と別れるのはまだ分かる。だが、なにも仕事まで手放す必要はなかったんじゃないのか?」
「売り言葉に買い言葉なのは分かっています。でも、動物たちに乱暴したのがどうしても許せなくて。これ以上この人と一緒に居ると、絶対に幸せになれないってその時に悟りました。それに、会社を辞めなければ別れた後も毎日職場で顔を合わせるんですよ?耐えられる方もいるかもしれませんけど、私は絶対に嫌です」
苦虫を噛み潰したような顔をしながら語る○○だが、その思い切りの良さに、小次郎は思わず吹き出してしまった。
「…私、何か変な事言いましたか…?」
「いやっ、悪い。想像してた○○さんと違ったから、つい」
クスクスと笑う小次郎に、○○は頬を膨らます。
「…小次郎さん、私の事をどんな風に想像されてたんですか?」
「そうだなぁ、何事にも一所懸命頑張る『真面目ちゃん』、かな」
「それなら、今日から私に対するイメージを『不真面目ちゃん』に変えてください」
「はははっ、『不真面目ちゃん』か、そりゃいい」
いつの間にか車内は明るい雰囲気になっていた。話をすればするほど、○○の人柄に惹かれていく。
「それにしても、よくここに就職できたな。うちは基本的に中途採用は取ってないはずだったんだが…」
「その事なんですけど、実は私たちの喧嘩の様子をたまたまオーナーが見ていらしたんです。私の啖呵が良かった、心意気が気に入ったとか言ってくださって、面接もせずにその場で採用していただいて…」
「おいおいマジかよ。そんな話、初めて聞いたぜ?」
「すみません。オーナーご夫婦との秘密だって言われたので…。ですから、小次郎さんもこの事は誰にも言わないでくださいね?」
唇に人差し指を当てて笑う○○の顔は、どこか悪戯めいていて、その笑顔に釣られるように、小次郎もニヤリと笑った。
「“秘密”、か」
「はい。“秘密”、です」
「なら、"秘密"ついでに少し遠回りして帰ろうぜ」
「えっ、でも、お仕事が…」
「少しくらい遅くなっても平気だよ。それに、もっと『不真面目ちゃん』の話が聞きたくなっちまった」
「…いいですよ。その代わり、小次郎さんの事も聞かせてくださいね、『御影先生』?」
先生、と呼ばれた瞬間、小次郎の中で消えかけていた存在が顔を覗かせた。しかしそれはほんの一瞬で、その影はすぐに消え去った。小次郎の中に残るカケラを、○○が全て取り除いてくれているように感じる。
「おいおい、『先生』はやめてくれよ。なんだかイケナイ事してる気持ちになるだろ?」
「ふふっ、“秘密”の関係って感じがして、ちょっとドキドキしちゃいますね」
「…じゃあ、『先生』と“秘密”のデートがてら、どこかでお茶でもするか?『不真面目ちゃん』?」
「いいですね、お供します」
二人は互いに顔を見合わせると、声を出して笑った。
○○の存在が、小次郎の中で大きくなっていく。今は、別の意味で心が熱い。この気持ちを過去に感じたことのあるもので表現するならば、それは間違いなく"恋"だろう。小次郎は、心の中に芽生えたばかりの小さな恋の蕾を大切に育てていこう、と、心に誓った。
その蕾が大きく花開く、その時まで。