01

ふわり、紅茶の香り。

ペンを止めて顔を上げると、部下のタノが苦笑いをした。

「……」
「所長は呼んでも反応しないのに、紅茶の香りでいつも気づきますね」
「そうかな」
「はい、いつもそうです」
「タノの紅茶、好きな香りがするからかも」
「なによりです」

目の前では、同じく部下のテレンが机に突っ伏していた。肩が規則的に膨らむので、寝ているようだ。部下とはいえ、彼は歳上である。最近白髪が少し増えてきて悩むお年頃らしい。
ナマエは隣の部屋から毛布を持ってきて、テレンの肩にかける。

「所長も、そろそろ寝てくださいね」
「……」
「眠れませんか」

タノの問いかけに、ナマエは素直に頷く。

寝る前はいつだって最悪だ。

目の前で喰われ踏みつぶされた仲間たち。
知らぬ前に死んでいた仲間たち。
今この瞬間に、戦っているかもしれない仲間たち。
彼らとの、なんてことない思い出。

そんなものが瞼の裏にこびりついて、全く眠りにつくことができない。そうして、壁外に出ずに安全な場所で仲間の生き死にを待つしかない自分に対して、激しい無力感に苛まれる。

――みんな、生きているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。

かちゃ、と飾り気のない紅茶が目の前に置かれる。

「ありがとう、タノ」
「いえ」
「タノも寝ていいからね。テレンだって幸せそうな顔でぐっすりなんだから、遠慮する必要ない」
「はい。でも、僕は技術者としてまだまだなので。僕のことは気にしないでください」

まだ20にもなっていないタノの前向きな返事に、ナマエはちょっと俯く。

トロスト区でウォール教のニック司祭が殺されて後、雪崩るように調査兵団は中央憲兵と、そして今の王政と対立した。調査兵団のエレンとヒストリアが捕らえられ、団長のエルヴィンが拘束され、そして調査兵団技術班のナマエも中央憲兵に追われる身となった。

テレンとタノがここにいるのは、完全な巻き込まれ事故だ。
2人はただナマエからの製造依頼を受託していた技術者で、調査兵団の事情を全く知らない、外部の人間のはずだった。だが今回、なぜか中央憲兵の手は2人のところまで伸びた。相当額の給料を提示されたのを蹴ってこちらに逃げてきた2人を、ナマエは技術班として受け入れ命をかけて守ると決めていた。

そうして3人でここカラネス区にあるナマエの亡き祖父の研究所に身を潜めることに成功したところまではよかったものの、こちらに来てから全く調査兵団の情報が入ってこない。これから調査兵団をどう立て直すのか、技術班が実働部隊とどう連携していくのか、ナマエにはさっぱり見えていない。これまでも散々お世話になって、しかもこうやってついてきてくれた2人に、どうしたら報いることができるのかも、全くわからない。

「……無理はしないでね」

だから、ナマエからいま、若いタノに言えるのはたったこれだけだ。

「はい。ありがとうございます」

ナマエはタノの淹れてくれた紅茶に口をつける。

眠れないものはどうせ眠れないとわかっている。であれば、すっぱり睡眠は諦め、気合を入れなおして目の前に積み重なるレポートだとか祖父の残した参考書の類だとかに向き直ったほうが、まだ無力感は軽減される。
この1週間で収集した基礎データを整理したレポートをめくり、それを見ながら必要な試算をしていく。ろうそくの光は、結局朝まで消えることはなかった。









「!?馬だ!馬がこちらへ来ます!――しかも人が乗っています!」
「はあ!?人だと!?」

遠くから、そんな声が風に乗って聞こえてきた気がする。前もなんだか似たようなことがあった。
どこの誰のかわからない茶毛の馬の、背中の筋肉が動くのがわかる。よく頑張って夜通し走ってくれた。西の方角を見れば、わずかに朝焼けの赤が目に入る。壁外では、絶望の光。夜間は巨人の動きが鈍い。

声が聞こえたせいで、気が抜けてしまったらしい。
突然に、体の節々が痛みを訴える。足が折れているのは自覚があった。ずいぶん久しぶりに骨折したな、などとぼんやり薄らいでいく意識の中で考える。あ、と思ったときには、身体のバランスが崩れ、馬上から転げ落ちる。

「調査兵団だ!マントを着てる!」
「なんだと!?昨日の壁外調査の生き残りか!周りに巨人は?」
「……いません!」
「よし、急ぎ救出する!医療班を呼んでこい!リフトを降ろすぞ!」
「了解しました!」

そのうちに足と腰と頭を抱えられ、ゆらゆらと自分の身体が動き始めた。担架に乗せられたらしい。足が痛い。痛すぎるし死んだほうがマシなんじゃないか。眠ってしまいたくて、目が開かなかった。

しばらく揺れて、動きが止まった。
濡れた布で、顔をごしごしと拭われる。もう少し優しくしてほしい。

「大丈夫か?って、ナマエ・ヤーシュラットじゃねえか」

聞き覚えのある声。少し考えて、以前も世話になった駐屯兵団の兵士だと気づいた。名前は知らない。

「……ん」
「話せるか?意識はあるな」
「……うん」
「2回もこんな風に見つけるなんてな。いやはや運がいい奴だ」
「……」
「感謝しろ、2回も見つけてやったんだから。命の恩人だぜ。酒くらい奢ってくれるんだろうな。ったく、全身血だらけでゾンビみたいだ。怪我を確認する、服は剥ぐが前みたいに文句言うなよ」
「……やだ……」
「駄目だ、嫌なら怪我せず無事に帰ってくるんだな」

ビリッ、とシャツが破られる音がして、応急処置が施されていく。どうやら全身傷だらけらしい。足の痛みばかりが脳味噌を刺激するので、他の状態が一切把握できない。が、身体を拭われ布に巻かれたり、足に添木をつけられたりしていくうちに、ようやく壁にたどり着いたことを実感し、気づけばナマエの意識は飛んでいた。



ぼんやりと目を開ける。見覚えのある天井。薬品の匂い。
医務室だ。

息を吸えば、全身が僅かに痛む。
自分の腰の辺りでベッドに突っ伏したこげ茶色の髪が視界の端に映った。寝息も聞こえる。

肘をついて身体を起こす。
ちょっとは痛いが、そこまで問題ない。ゆったりした部屋着を着ているので、この目の前で気持ちよさそうに夢を見ている彼女が着替えさせてくれたのだろう。それよりも、問題は足だ。布団をめくれば、添木でがっちり固められた左足。

「あー……」

――2ヶ月は動けなさそうだなあ。

思わずため息。

「ナマエ?」

声が聞こえた、と思ったら、こげ茶色の髪がこちらに迫ってきて勢いよく抱きついてきた。反射的に後ろに手をついて、その衝撃に耐える。

「おわっ」
「ナマエ!よかった、よかったよ。うん、ちゃんと生きているね」
「……ハンジ」

ハンジ・ゾエ。訓練兵時代からの同期で、今の自分の上司だ。
普段は眼鏡をかけている彼女が、裸眼のまま、ちゃんと生きているかを確認するようにナマエの顔をじろじろと見る。その目は少し赤くて、ナマエは不思議な気持ちになった。ハンジが泣くところを見るのなんて、巨人の実験で感極まった時を除けば、これで2度目だ。

「泣いたの?」

思わずそう尋ねれば、彼女ははっとしたようにうるさい、と顔をそむけるので笑ってしまう。ナマエ、と拗ねたような咎めるような声に、ごめん、と謝った。

「死んだと思ったよ」
「しぶとくて申し訳ない」
「心強い同期だね。体調はどう?左足首がぽっきりいかれてるね」

予想通りの症状らしい。ナマエは少し左足に触れる。

「体調は悪くない。ちょっと痛いくらい」
「全治3か月だ」
「ごめんね、迷惑かける」

ナマエは、ハンジの部下として荷馬車護衛班の1つを率いている。シガンシナ区までの兵站拠点を作るにあたって、ものを作る技術と知識があるナマエは作戦立案でも現場指揮でも大きな役割を担っていた。3か月も壁外調査に出られないと、全体の動きもかなり変わるはずだ。

「そのあたりは大丈夫さ。ゴーグルもいるし、そのあたりはこちらで調整するよ」

ゴーグル、と部下の名前を聞いて、ナマエはハンジを見る。

「ねえハンジ、今回は誰が、」

死んだの、と聞くべきか、生き残ったの、と聞くべきか迷った。
だがハンジは質問の意図を理解したらしく、全部で28人だと、端的に答えをくれた。

「28人」

珍しく、陣営の中央近くにいたナマエたちの班まで奇行種がやってきたのだ。当時想定した通り、おそらく左翼側が崩壊したのだろう。

「私の部下は」
「リラとジャックが死んだよ」
「……」

希望などないことはわかりきっていた。目の前で、救えずに潰された命があった。
黙って自分の手のひらを見つめる。あの時、もう少し早くレバーを引いていれさえいれば。そんなことを思っても仕方ないとわかってはいた。それでももう、何度も何度も何度も、飽きるほどにこの経験を繰り返している。こびりついて離れない、助けを求める声と原型をとどめていない死体。

「報告書を読んだ。ナマエの判断は正しかったと思う。後悔する必要はないよ」

さっぱりと淡々と言い切られ、少しだけ心の緊張がほぐれる。
ハンジはグラスに水を注ぎ、コップを差し出してきた。

「……ありがと」
「でも、ナマエ」

うん、とナマエは水を口に含む。

「奇行種が建物を壊した時に、ネスを庇ったんだってね」

ごくりの水を飲みくだして、それからナマエは答え方を考える。

「庇った、というか」
「その判断は、上司としては尊重しがたいね。ふたりとも死ぬ可能性がある」
「そうだけど……ディータが生きられれば、それでいいでしょ」

結局上手い答えも見つからず正直に気持ちを言えば、目の前の上司はあきれたように首を振る。

「確かに、そのおかげでネスは無事帰還した。だけど、一方のナマエは、崩れる瓦礫の下に埋もれた。巨人も多くて、救出は不可能だった」
「うん」
「こっちのやりきれない気持ちも少しは考えてほしいんだけどね」
「ごめん」
「ナマエが帰ってきたと聞いて、みんなひっくり返るほど驚いていた。しかも、壁外からの単独帰還だしね。信じられないよ」

奇行種が崩した建物の瓦礫の下で、ナマエは目を覚ました。運良く設置していたガスボンベのお陰でわずかに空洞ができていたらしい。だから、確かに周りから見れば潰れて死んだと見えてもおかしくはなかった。
それに、壁外からの単独帰還というのもまた、他の調査兵から見れば奇跡のようなものらしい。調査兵団の中で達成したことがあるのは、ナマエしかいない。しかもナマエの単独帰還は、今回で2度目だ。異例中の異例である。

「まあ、私、運だけは良いほうなの」
「運ねえ」

ハンジは首を横に振る。

「単独帰還2度目なんて、ただの運とは思えない。何か巨人を避ける方法とか、壁外で生き延びる方法とかがあるんじゃないのかな。ナマエが意識的か無意識的かはわからないけれど」
「うーん」

そんな風に言われてもな、とナマエは首をひねる。そんなに大したことはしていないつもりである。

瓦礫の下で目が覚めたのは、夕方ごろだった。建物が木造だったことが最大の幸運で、おかげでどうにか間をぬって外に出ることができた。
外に出れば、周りには部下の死体らしきものと巨人の吐いたモノが散乱していた。それでも、それに発狂している暇はなかった。落ちていた立体機動装置をいくつか点検し、壊れている装置のワイヤーと木材を使って腫れあがっていた左足首を固定した。無事だった立体機動装置をひとつお守り程度で身に着けて、大きな木材を杖代わりにトロスト区の方角に足を進め、途中で見つけた馬に乗って一晩中走り続けて壁まで戻ってきたのだ。

壁外調査では、できる限り調査兵の死体は回収するが、馬までは回収しきれないことが多い。つまり、死んでしまった分、どこかに乗り手のいない馬がいるということだ。

帰還の経緯をかいつまんで説明する。

「足を折っているのはわかってたから、自分の位置から壁までの距離と日の出の時間を考えると、日が落ちるまでに馬が見つかれば勝ちの勝負だったの。今回は本当にぎりぎりだったけど」

骨折して立体機動ができない以上、日が昇る前に壁に到着する必要があった。もしも壁に着く前に日が昇っていれば、ナマエは壁の前に屯する巨人に食われていただろう。

「それにしても――」

ふと、がちゃり、と扉が開いた。そちらを見れば、ドアの隙間から青い瞳がこちらを覗いた。
団長、エルヴィン・スミス。彼は失礼、と断って医務室の中へ入ってくる。

「エルヴィン!」
「団長、ノックくらいしてください。医務室とはいえ乙女の部屋です」
「すまない。それよりナマエ、目が覚めたようでよかった。ハンジ、ナマエが起きたら報告の予定だっただろう?」
「あ、そうだった」

エルヴィンはベッド横の椅子に腰掛ける。

「ナマエ、本当に無事でなによりだ」
「ご心配おかけしました」
「瓦礫に潰されたと聞いていたが」

ナマエは苦笑する。ハンジにしたように経緯を話せば、エルヴィンはうむ、と考え込むような仕草を見せた。

「それは……不思議だな」

ハンジが、横で頷いた。

「そうなんだよ、エルヴィン。あの辺りは、巨人がうろついていて死体すら回収できなかった。だからこそ、ナマエの救出もできなかったわけなんだけど。なのに、ナマエが巨人に見つかっていないのはおかしい」
「ああ。それに、ナマエの単独帰還は2度目」
「巨人に見つかりにくい体質なのかな?」

言われてみれば不思議なことではあった。巨人は、どんなに隠れていても人間を見つける。巨人が視覚以外のなにかで人間を感知していることは、随分前からわかっていたことだった。
ナマエも少し右上を見て考える。

「確かに、壁外でひとりでいるときに、巨人に追われることって少ないかも」
「体温が人より低いから?いつも手、冷たいよね」
「そうだね。手が冷たいのはよく言われる」
「次に巨人を捕まえたら、ぜひいろいろ実験したいね。エルヴィン、次はいつ巨人を捕獲できるかな?」

ぎらり、とハンジのメガネが光る。
ちょうど1年ほど前から、ハンジの強い希望もあって、巨人捕獲作戦は何度か行われていた。基本的に計画はハンジが担当し、リヴァイ班が捕獲を行うが、捕獲のための網を作るのはナマエとナマエの部下たちだ。

エルヴィンは腕を組む。

「そうだな。ナマエ、しばらく足は動かないと思うが、網は作れそうか」
「問題ないですよ。頭と手は動きます」
「どのくらいで作れる?」
「1か月もあれば」
「では、次回の壁外調査に捕獲作戦も組み込むことにする」
「助かるよエルヴィン!」

ガッツポーズをするハンジ。ナマエはその様子に思わず笑った。

立ち上がるエルヴィン。忙しい中で、少しの時間に来てくれたようだ。

「すまないな、あまりゆっくり見舞えなくて」
「いえ、わざわざ来てくださってありがとうございます」
「また来る。ハンジ、ゴーグルたちにナマエの目が覚めたと伝えてくるといい。みんな待ちくたびれている」

エルヴィンがドアから出ていき、ハンジもナマエの布団をぽんぽんと叩く。

「ナマエ、私も行くよ。実験の準備をしなきゃ」
「面倒見てくれてありがとう。実験の準備の前に、ゴーグルたちに連絡お願いね」
「ああ、もちろん。そういえばリヴァイにも、目が覚めたら連絡だけ寄越せって言われたよ」
「え?」

少し目を見開けば、ハンジは頷く。

「そうだよ。でも、なんでお見舞いに来ないんだろう、心配なら自分でお見舞いくらいくればいいのに。面倒くさい男だよね」

真顔でそう言い放つハンジ。
だが彼女の言葉は1から10までごもっともである。

ナマエはハンジの腰を軽く押す。

「ほらそれより、早くいかないとまた団長に怒られるよ」
「ナマエ、お大事にね。また明日、様子を見に来るよ」
「ありがとう」

またね、と手を振るハンジを見送る。台風が過ぎ去ったかのように、病室が一瞬で静寂に包まれた。

壁外で、ひとりでいるときのような。そんな静寂。
窓から外を見る。調査兵が訓練しているのが見えて、ほっと息を吐いた。


リヴァイ。
6年ほど前に入団した彼とは、地下街で初めて会った。入団して以降、なんやかんやとよく話す仲ではあったのだ。
昔は、ナマエが怪我したらお見舞いにきてくれていた。だが、いつからかそういうことは無くなって、話す頻度も減った。喧嘩をしたとか仲が悪くなったとかではない。顔を合わせれば会話はするので、恐らく嫌われているわけではないんだろうとは思う。

――気にしても、仕方ないけど。

任務に支障は出ていない、同僚として上手くやれているはずだ。
ゆるり、首を振って、いつも眉を顰めている鋭い顔だちを脳から消した。