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「……あ?帰ってきただと?何を言ってやがる。死体が歩きでもしたのか」

リヴァイは机から目線を上げる。確か名前はペトラだ。入団してからこれまで約1年間の討伐補佐数が、調査兵団の中でも群を抜いていた。
そんなペトラが、むっと眉を寄せてこちらを見ていた。

「何言ってるんですか兵長。死体が歩くわけないじゃないですか!違いますよ、生きているから迎えに来てくれって、駐屯兵が言ってるんですよ!それでエルヴィン団長が、とりあえず兵長とハンジ分隊長を呼んで来いって」
「あ?……生きている、だと?」

持っていたペンが、からん、と机の上に落ちた。リヴァイは立ち上がって、ジャケットを手に取る。ほとんど無意識だった。

「ペトラ、あとの報告書整理は頼んだ」
「え?あ、は、はい!あの、ハンジ分隊長のところに行った後に!」

――単独で、壁外から帰還するなんて、あり得るのか。

リヴァイはゆるりと頭を振る。
訳が分からない。そもそも彼女は割と訳が分からない人間だが、今回は、これまでの理解不能エピソードを、軽く、圧倒的に上回った。

死んだと思っていた。死体は見つかっていなかったが、彼女が生きているなんて、誰も想像すらしていなかった。
まだ行方不明者リストは上に上がってねえよな、などと、どうでもいいことを思う。

気づけば、エルヴィンの執務室の前にたどり着いていた。
ばたん、と断りもなくドアを押せば、駐屯兵団の紋章が2つ、目に入る。

「……それで、怪我の状態は」
「疲労からか大変幸せそうな顔で爆睡していますが、大きな怪我は、腕の骨折だけです」
「腕の骨折だけ?それは、本当なのか」
「本当なんですって!信じられないかもしれないんですが、本当なんです」
「オイ、エルヴィン、何をしている。俺が迎えに行く」

2人の駐屯兵が振り返り、リヴァイ兵長だ、などと口をあんぐりと開けた。何をそんなに驚かれているのか、さっぱりだ。

エルヴィンは頷いた。

「頼む。俺は信じられない」
「びっくりしすぎて判断力を失ってるんじゃねえよ、らしくねえ。気持ちはよくわかるが、とりあえずさっさと迎えにいくべきだろうが。医療班を連れていくからな」
「……ああ、わかった」

一発、呆けているエルヴィンの肩に拳をぶち込んでから、行くぞ、と駐屯兵2人を振り返って急かす。


途中で医務室に寄って医療班を2人ほど連れ、それからトロスト区まで馬車で向かう。短時間の移動距離だ。その間に、駐屯兵に詳しい状況を聞く。
どうやら今朝、彼女は、トロスト区の門前にある旧市街地の屋根の上で巨人と戦っているところを壁上の駐屯兵に見つけられたらしい。壁の近くには巨人が割と集まりやすい。ブレードと小型の爆弾らしきもので巨人に応戦する彼女は、駐屯兵の大砲のサポートのもと、立体機動で巨人の手の届かない高さの壁にギリギリで張りつくことに成功し、最終的に駐屯兵が大砲で巨人を追い払ったとのこと。
しかも、壁に張り付いたのが最後のガスだったという。少しでもガスが無ければ、高さも足りずに死んでいただろうと駐屯兵は言う。
その後、引き上げて応急処置などをしているうちに、彼女はあっという間に眠りについてしまったらしい。どうにか名前だけ聞きだしたので、調査兵団に報告にきてくれたようだ。

信じられねえ、とリヴァイは馬車の外を眺める。
エルヴィンの動揺は、わからなくもない。壁外で一晩単独で生きるなんて、少しも、これっぽっちも、1%も、考えられないのだ。巨人の強さを知っていれば、なおさらである。リヴァイですら、ひとりで生き残れるという自信はない。


「こちらのお部屋で寝てらっしゃいますよ」

だから。

リヴァイはここまで来たはいいものの、心底半信半疑で部屋に入りベッドに近づいた。
部屋の窓から、暖かな午前の光が入ってくる。
ベッドを覗き込めばそこには、清潔な寝巻に着替えさせられ、本当にぐっすりと、大変幸せそうに寝息を立てる、ナマエ・ヤーシュラットが横になっていた。

布団をめくって心臓に耳を当てれば、とく、とく、と動いているのが聞こえる。

「……嘘だろ」

思わず、その場に膝をつく。
お腹の上に置かれた左手に触れた。

「クソが……」

リヴァイは、その手をそっと両手で握って、自分の額に当てる。暖かい。生きている。

――生きて、やがった。

「……クソが、てめえ、本当に生きてるじゃねえかよ……」

ひどく、胸が苦しかった。
ひどく、安心感に心が満たされて、気づけば自然と目から涙が溢れていた。

「……ッ、は、」

――最悪だ。

リヴァイは強く目を閉じる。
大きく息を吸って、吐く。それでも駄目だった。

止まらない。止まらない。

涙も、自分の感情も。

気づいてしまった。
こんなにも、これほどまでに、ナマエを失いたくなかったなんて、気づきたくなかったのに、気づいてしまった。

――最悪だ……。

大切だ、なんて気づかなければよかったのに。そうすれば、彼女をこれからもずっと失わずに済んだのに。

一度失って、また戻ってきて。
そんなことをされたら、無理矢理無視していた感情も、自覚せざるを得なくなってしまう。

最悪だ、ともう一度心の中で呟く。
リヴァイは声を殺して、ナマエの手を握ったまま、涙を流す。
一度溢れたものをどう止めるのかなんて、方法がわからなかった。







小さい会議室で、椅子に座って左手で不器用に何かを書く、ナマエを見つけた。
窓の外では、赤や黄色に色づいた葉っぱが散っていく。その向こうから、訓練する兵士たちの声が聞こえてきた。

しばらくその横顔を眺めてから、リヴァイはズボンのポケットに手を入れて、するりと開いているドアを抜けて彼女に近づく。余程集中しているようで、全くこちらに気づかない。
後ろから手もとを覗けば、たくさんの計算式と、シガンシナ区までの地図。

「……オイ、お前、療養中じゃねえのか」
「!?」

声をかければ、ナマエがびくっと肩を振るわせて、こちらを見上げる。

「リヴァイ。ああ、びっくりした」
「随分集中していたな」
「左手で書くの、頑張らないとできないから」

骨折したというナマエの右手はまだまだ完治までは遠く、2か月はかかる見込みらしい。利き手なので、何かと不便だろう、と思う。

「それよりお前、休まなくていいのか」

もう一度問えば、ナマエは頷く。

「私が骨折しても、みんなは壁外調査に行かないといけないからね。拠点作りに必要な資材計算だけはしないと」
「まだ治ってねえのに、なにしてやがる。エルヴィンも、さすがにそこまで鬼じゃねえだろう」

だが、ナマエの表情を見て、リヴァイは呆れてため息をつく。
まさか、エルヴィンがそこまでの鬼だったとは、想像していなかった。

「……」
「まあ、仕方ないことではあるの。できるところはほとんど部下たちに任せていてそれでも間に合わないし、他に手が空いてる人もいないし、調査兵団内で私が一番計算早いのは事実だし」

リヴァイは少し考えて、

「……紅茶でも、飲むか」

と尋ねる。

ナマエは、いいの?と嬉しそうな表情になる。どうやら、片手しか使えないせいで紅茶を淹れるのも随分な手間らしい。部下のディータが時々やってくれるが、いつも頼むのは気が引ける、とナマエは言う。

「リヴァイに頼めばよかった」
「どういう意味だ」
「ディータよりもこき使いやすいし」
「……」
「あと、リヴァイの淹れる紅茶、結構好き」
「……まあ、いい。1杯くらい、休む余裕はあるんだろ」
「うん」
「待ってろ」
「はーい」

リヴァイは、会議室から一度出て、共同のキッチンへ向かう。
エルヴィンとの会議が終わったので、これから本当は、部下たちの訓練に顔を出そうかと思っていた。だが、1日くらいは良いだろう。部下のエルドが、きっと上手くやってくれているはずだ。

水をやかんに淹れて火にかけ、キッチンの引き出しからナマエの好きな紅茶の葉を選ぶ。

あの日ナマエを調査兵団本部に連れて帰ってきて以降、リヴァイは初めて彼女の姿を見た。目が覚めたよ、だとか、明日には病室から出てこられるって、だとか、看病していたハンジから状況だけは聞いていた。気になるなら見舞いに行けと面倒くさそうに散々言われたが、適当な理由をつけて避けていた。

行けるわけがない。自分の気持ちに整理もついていないときに、ナマエと会ってまともな精神状態でいられる自信はなかった。
少し考えをまとめた今は、まだましだ。

――あとは、言うか、言わないか、それだけだが。

リヴァイは息を吐いて、ゆっくりとコップに湯を注ぐ。茶葉がふわりと開いた。


2つのコップを持って戻り、半開きの会議室のドアを押して入れば、ナマエがこちらを振り向く。

「おかえりなさい。あ、いい香り」

さりげなく会議室のドアを背中で閉める。
コップをテーブルに置いて、ナマエの向かいの椅子を引いて窓の方を向いて座る。ナマエはペンを置いて、左腕だけでぐうっと伸びをした。

「ありがとう。兵士長さんは、お仕事はいいの?」
「さっき、エルヴィンとの会議が終わった」
「そうだったんだ。次の壁外調査の?」
「ああ。お前がいない間は、開拓できる拠点も限られてくるからな、動き方が変わる」
「そうだよね。まあ、ゴーグルがいるから」

シガンシナ区が陥落して以降、ものを作る知識と技術を持つナマエの存在は、前以上に重要になっていた。
ようやく部下も育ってナマエの代わりを任せられるところも増えてきたとは言え、それでも彼女がいないと開拓できない場所は多かった。

ナマエは紅茶を飲んで、あ、と笑う。

「ねえ、これ、私の好きな紅茶だ」
「そうか。ならよかった」

嬉しそうなナマエの声を聞いてから、リヴァイもコップに口をつける。

「なんだか、久しぶりに話す感じがするね」

その言葉に、リヴァイはわずかに黙る。なんでお見舞いに来てくれなかったの、と怒られているような気がした。

「……見舞い、行けなくて悪かったな」
「ほんとだよ、なんで来てくれなかったの?」

本当にそう言いたかったらしい。

「悪かった」
「……もう」

きっと拗ねた顔をしているんだろうと、簡単に想像がつく。
リヴァイは眉を寄せて、窓の外の木を見る。

ただひとつ、ナマエの反応から、エルヴィンも医療班も他の誰も、リヴァイが彼女を迎えに行ったことを言わないでいてくれていることを察して、ありがたいと心の中で感謝する。わざわざ言うことはない。

「ハンジから話は聞いていた。体調はどうだ」
「うん、大丈夫。あとは右腕だけ。でも、今年はもう壁外調査は行けなさそう」
「そうか。まあ、奇跡的に生きて帰ったんだ。ちゃんと治せ」

そう言えば、ナマエは少し黙ってから、

「……リヴァイも、奇跡だと思う?」

そんなことを、彼女は問う。
リヴァイは頷く。

「当たり前だ。生きて帰ったと聞いても信じられない程度には、奇跡だと思うが」

不思議な感じがする、とナマエはぽつりと言った。

「確かに、夜だったとはいえ、活発な巨人に会わなかったのは運がよかったと思うんだけど」
「……それは、運がいいな」
「そうだよね。でも、すごい奇跡みたいに扱われるのはちょっと違う感じ」
「俺でも帰ってこられるか、自信はねえが」
「うーん」

納得のいっていなさそうな声のトーンに、ちらりとナマエを見る。彼女は瞼を伏せて、両手で包んだコップを見つめていた。

「お前は、帰れると思っていたのか」

ナマエは首を横に振る。

「そこまでは、思ってなかったけど。でも、壁外でひとりってわかった瞬間から、どうやって帰るかだけすごく考えてて。夜明けまでにガスを使わずに旧市街地まで戻れれば、勝ちだと思ってた」
「ほう」
「だから、帰ってきたときは、安心したっていうよりも達成感があって」
「死ぬとは思わなかったのか?」
「……それは、少しも想像してなかった」
「強いな」

思わずそう感想を漏らす。壁外調査でひとり取り残されて、死ぬことを考えないなんて、相当な精神力だ。

ナマエが、お、と目を大きくしてこちらを向いた。リヴァイは紅茶を飲む。

「認めてくれる?強いって」
「いや」

すぐに否定する。

「ええ、なんでよ。じゃあ怪我が治ったら、また立体機動でタイムアタックしよう。久しぶりじゃない?」

2年ほど前まではよくやっていた、タイムアタック。立体機動の練習を兼ねていたが、結構楽しいのだ。シガンシナ区が陥落してから、リヴァイは兵士長になり、ナマエは作戦上重要な班を受け持ち、どちらも時間がとれずにほとんどやれていない。

――怪我が治ったら。

リヴァイは眉をしかめる。

「てめえ、次やるならもう少しまともなルートにしろ。いつも変なルートばかり指定しやがって。不公平だろうが」
「やだ。普通のにしたら負けちゃうし」
「あ?ガキか。真っ向勝負を挑め」
「何言ってるの、そこから勝負は始まってるんだよ。奇行種に『真っ向勝負を挑め』なんて言わないでしょ。どんな想定外がきても対応できるように、事前に戦略戦術は練っておかないと」
「なんだお前、奇行種だったのか。ならうなじを削がなきゃいけねえ」
「ハンジならまだしも、私は違うよ」
「ハンジがそうならお前も変わらねえだろ。介錯は俺がやってやる。俺なら犠牲を出さずにできるからな」
「わかった、その時がきたらお願いする」

机の向こうで、ふふ、と笑っている声が聞こえてくる。

ふわりと、わずかに冬の冷気も纏った涼やかな秋風が、カーテンを揺らす。
束の間の、平和な時間。

笑いの虫が収まると、どこか穏やかな空気が流れた。リヴァイは紅茶を飲んで、それからコップの中を確認する。

休憩は、コップ1杯分だけ。

――まだ、残っている。


「おい、ひとつ、聞いてもいいか」

そう切り出せば、ナマエがなあに、と答える。

「ナマエ、お前、運動神経が悪い癖になぜ調査兵団に入った?」
「え?」
「立体機動が好きなんだろうというのはわかる。だが、それだけで自分の命は掛けられるものなのか」
「あー……」

ナマエが唸る。
リヴァイが入団したての頃、同じ質問をしたことがあって、その時には立体機動が楽しいから、と言っていたのだ。だが、リヴァイには納得がいっていない。立体機動が楽しいだけなら、別に調査兵団でなくても駐屯兵団や憲兵団など他にも道がある。だからきっと、彼女が調査兵団にいるのはそれ以外にも理由がある。

彼女の答えを待つ間、リヴァイは、窓の外の赤く染まった葉を見る。
あれは紅葉と言うのだと、ナマエが教えてくれた。光の届かない地下にはないものだ。秋になると色づいて、冬になると地面に落ちる。いまはもう、半分以上の葉は既に落ちて、地面に彩りを添えている。

「誰にも、言わない?」
「ああ」
「本当の本当の、本当に、絶対に、誰にも言わない?」

ずいぶんと念押しする、と違和感を覚える。

「俺が、信用できねえのか」
「ううん。リヴァイのことは、信用してるよ。でも言ったら、リヴァイも死ぬかもしれないから。正直、あまり巻き込みたくもないんだよね」
「ブラックボックスの中身は特に注意もなく教えてくれたせいで、拒否権なく巻き込まれたが」
「そうだっけ」

本当に忘れたようにナマエは笑って、それならいいか、と少し息をついた。

「……巨人の先にある、失われた過去の人類の技術を見つけたくて」

リヴァイは、よくわからなくて、眉を寄せる。

「失われた、過去の人類の技術?」
「そう」

ナマエは言う。
100年前、人類は巨人に追われて壁に籠るしかなくなった。だが、その時に当時の技術が失われた可能性が高い。本当にあるかどうかなんて確証はないが、少なくとも巨人の先に、何らかの遺跡は残っているはずだと。

「私はそれを見つけたくて。それで、調査兵団に入るって決めたの」

他の人には言わないでね、と再度念を押されて、当然了承する。

『世界を人類の手に取り戻すためなら、その礎として心臓を捧げることに悔いはない』

エルヴィンがかつて言っていたように、調査兵団は皆そうなのだと、そう思っていた。
人類のため、世界のため。大層な目標を掲げて、そのために皆巨人を倒し、また犠牲になることもいとわないのだと。

だが。彼女は違うらしい。

「そのためだけに、こんなに死ぬ調査兵団に入ったのか」
「うん」
「なぜだ」
「これまでも同じ夢を持ったたくさんの技術者が、理由もなく殺されてきた。だから私は、彼らとは違う方法で、夢を追ってみようかなと思って。それにね」
「……」
「それになにより、失われた技術を見つけるなんて、わくわくする」

当たり前のように、ナマエはそう言った。
調査兵団にいるにも関わらず、彼女にとって、巨人だとか人類だとかは実際のところ二の次らしい。

「……お前、普通じゃねえな」

ナマエがええ、と驚く気配がする。

「調査兵団の中では、かなりの常識人枠だと思ってるんだけど」
「常識人のくせして、調査兵団で生き残ってるほうがおかしいことに気づけ」

確かに、と笑う声が聞こえて、心が満たされる。

「なんでだろうね。よくわからないけど、ずっと生き残っちゃってる」
「人類のためとか興味ねえからだろ。お前には、生きたい理由がある」
「なるほどね。そうかも」

――そうであれば。

リヴァイが口を開こうとすると、でもね、とナマエが先に言葉を続ける。

「でも、壁の外に出ると、――忘れるの」

はっと口を閉じる。

「壁の外に出て巨人を目の当たりにして周りに仲間がいると、大切な夢もすっかり忘れてしまって」
「……」
「調査兵団でも、いろいろもらいすぎたんだと思う。目の前で死んだ先輩もいるし……。だから私も、調査兵団の仲間は、命張ってでも守りたい」
「……」

リヴァイは自分の口が重くなるのを感じる。

出会ってから3年弱の付き合いの中で、確かにナマエは口先だけでなく本当にそういう人物だと、もうリヴァイは知ってしまっていた。
壁外で巨人と接敵したとき、彼女は巨人を倒すためではなく、仲間を死なせないための指示を出す。そして、それでも仲間に危険が及ぶときには、彼女は自分が囮になって死ぬリスクを冒してでも他人を逃がす。そういう人だ。

「もらいすぎた、か」

繰り返せば、ナマエは小さく、そうだね、と肯定する。

「もらいすぎちゃった。目の前で死ぬ命は、やっぱり重たいよ」
「……お前が心臓を捧げるのは、仲間のため、か」
「うん」

リヴァイはコップに口をつける。ナマエも同じようにして、それから彼女は言った。

「……仲間のために心臓を捧げることには、全く悔いはないの。でも、夢をすっぱり捨て去ることも、ちょっとできなくて」
「ああ」
「見たわけじゃないけれど、これまで何人もの技術者たちが命をかけて、知識を遺してくれたのは、事実だから……だから、ギリギリまで、夢も諦めないでいたい」

強いな、とリヴァイは思う。彼女の声は大きな訳でもないのに、口から出る言葉には調査兵団の生き残りらしい、芯の強さが感じられる。
それと同時に、リヴァイは徐々に苦しくなっていくのを感じていた。少しばかり息を吐いて、それから鉛のように重たい口を無理矢理動かす。

「……なあ。ギリギリの一線を越えたら、お前はどうする。仲間のために死ぬのか、生きて夢を追うのか、どっちだ」

これが最後の質問になる、とリヴァイは確信していた。

「……あんまりちゃんと考えたことないけど」

ナマエがすっと指先で机に線を引くのを、視界の隅で捉える。

「たぶん、仲間のために死ぬ」

リヴァイは目線を落として、自分の膝を見る。これまでの会話で、ナマエはそっちを選ぶだろうな、とは思っていた。だが、はっきりそう言われれば。

「だろうな」
「うん。……リヴァイ?」
「……」

そうであれば、やっぱり言えるわけがなかった。

――調査兵団を辞めないか、なんて。

目の前の彼女に、ナマエに、そんなことを言うなんてできないと、そうリヴァイは思った。

リヴァイは、ただ、大切な人に生きていてほしかった。だから、調査兵団を辞めてほしかった。調査兵団では、同じ班であろうと他人を守ることに限界がある。彼女が調査兵団でやりたいことがあるなら、代わりにやるから。

けれども、わかりきっていたことだ。ナマエはそんな選択肢を、受け入れない。

彼女は、調査兵だ。
生きる強い理由があって、その一方で人類のためではなく仲間のために心臓を捧げると覚悟した、他とは少し色の違うだけの、生粋の調査兵だ。

これまで積み上げてきた実力と生来の運の下地があって、それに加えて生きることを諦められない彼女は、きっと他の兵ほど簡単には死なない。生き延びれば生き延びるほど背中が重くなっていく調査兵団で、ナマエはいつまでギリギリの一線を越えずにいられるのだろう。


はらりと、赤い紅葉が1枚、落ちた。


「ナマエ」
「……」
「お前はやっぱり、強いな」


「……ねえ、リヴァイ、どうしたの。なんか今日、ちょっと違う」

――駄目だ、呼ばないでくれ。

「それに、さっきから思ってたんだけど」
「……」
「どうしてずっと、目を合わせてくれないの」

――駄目だ、そんなふうに、言わないでくれ。

リヴァイは、もう十分に冷めた紅茶を飲み干した。コップを覗くと、のっぺりとした底が見える。

ようやく、ナマエのほうに顔を向ける。今日会ってから、初めてその顔をちゃんと見た気がする。大きな瞳が、想像以上に悲しげにこちらを見ていた。

――なぜ、そんな顔をする。

胸が苦しくなる。だが、駄目だ。これ以上は、こっちが耐えられない。

「……目が合わない?何言ってやがる。気のせいだろう」
「……」

傷つけた、とその瞳の揺れを見てわかった。

悪いとは思う。
だけれども、ナマエが調査兵団に残るなら、リヴァイは彼女と距離を縮めるのが怖すぎた。

いまでも夢に見る、ファーランとイザベル。もしあれを繰り返したなら、あれがナマエだったら、なんて想像すらしたくない。
大切なものほど、呆気なく消えてしまう。わかっている。それでも、だから次こそは、ナマエのことは、どうしても失いたくない。

「俺は行く。今日顔が見られてよかった、元気そうで、なによりだ」
「……」
「……腕くらいは、ちゃんと治してから復帰しろよ」
「行くの?」

無自覚だろうがあまりにも寂しそうな顔をするので、リヴァイは、ナマエもきっと同じ気持ちなんじゃないか、なんて都合よく考えそうになる。
それでも、もしナマエが同じ気持ちだったとしても、関係ない。命の優先順位が決められている調査兵団の中にいながら、個人的な感情で一番守りたいものを作るなんて狂気の沙汰としか思えない。
どちらにしても、リヴァイがナマエを失いたくない気持ちは変わらないのだ。

「ああ。部下たちの訓練を見てこないといけない」
「……そっか。わざわざ、時間割いてくれてありがとう」

リヴァイは、全力で、ナマエから目線を逸らして立ち上がる。
会議室のドアノブを回し、ドアを開けて部屋から出る。そのまま後ろ手でドアを閉めて、リヴァイは一息ついて、それから足早にそこを立ち去った。


――ナマエ。いや、ナマエ・ヤーシュラット。


忘れなければ。
これまで自分に向けられてきた、彼女の笑顔も、文句も、気遣いも、全て。

これからは、ただの、同僚なのだから。