薬研藤四郎という男はたいそう仕事熱心で、記念日だとかイベントごとの時に休むなんてことはない。むしろそういう時こそ働くべきだとさえ思っているのかもしれないほど、彼は仕事第一の男であった。私はそういうところにでさえ惚れ込んでいたし、特別不満があるわけではない。誕生日は祝ってもらえるし年末年始はきちんと一緒に過ごしている。たまの日曜日にはデートだってしてくれたし、私が求めればハグだってキスだってしてくれる。不満なんてなかった。

なかった、はずだった。


「出張?!」
「ああ、昨日決まった。朝飯食い終わったらすぐに出る」

白米から湯気がたっていて、薬研の顔を見えなくさせた。ただでさえ慌ただしい朝が、余計に私の心を落ち着かせてくれない。積もり積もったまだ不満と呼ぶにはあどけない小さな思いが、私の中で我儘な大人になったような声がした。

「それで、いつ帰ってくるの」
「予定通りに行けば二三日だな。その間家を空けるが頼むぞ」

微笑んだらしい薬研の顔がぼやけて見えない。それが湯気のせいなのか涙のせいなのかわからなくて、思わず下を向いた。ぱしん。箸を置く音が、やけに大きく聞こえた。

「あー…悪いな、なまえ。残った分は弁当箱に詰めてくれ」

そう言って立ち上がると急いで再び準備を始める。残った分、なんて言っていたけれど、茶碗にもお皿にも口に入れたと思われる形跡は無かった。嫌だなあ、倦怠期ってこういうところから始まるのかなあ。うんと小さく返事をして朝食を全てお弁当箱に詰める。薬研は和食が好き。そう知ったから、私も洋食から和食に乗り換えたのに。飲み込んだ米粒が胃の中でやけに主張していて、気持ちが悪かった。

「それじゃ、行ってくる」

玄関から聞こえる声も聞こえないふりをして、何か飲もうと冷蔵庫をあける。不自然にスペースが空いている。私はここに何を入れていたんだっけ。思い出せない。そもそも私は、どうして薬研に今日帰ってきて欲しかったんだっけ。

ドアが開く音がすると同時に、私は薬研のもとへ走った。

「や、薬研…!行ってらっしゃい、それから、えっと…あの…!」

何を言おうとしたのか思い出せなくて、適当な言葉で薬研を引き止めようとする。けれど薬研はそんなこともお構いなしとでも言うように笑って、私に近付いた。ようやく見えた薬研の顔は、やはり綺麗で、何もできなくなるくらいかっこよかった。

「チョコレート、ありがとな」

離れた唇からチェリーの香りが広がって、私はそこでようやく薬研にキスされたのだと気付いた。私の頬が赤くなるのも気にしないで、薬研はそう言うと振り返ることもせずにそのまま行ってしまった。


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