俺には歳の離れた兄がいた。いた、というのは、俺にはその記憶がないからだ。兄は両親の自慢だった。文武両道はもちろんのこと、人格者でもあり、温厚篤実な人柄に惹かれた友人も多く存在していた、と聞かされている。けれど、その人柄の良さ故に、人を助けて死んでしまったらしい。
そのことに深く哀しみを負った両親に、数年後生まれた見た目だけは似ていた俺は、兄のようになるように、兄そのものになるようにと育てられてきた。両親が此方に視線を向けても、その眼に映るのは、俺ではなくて兄。そんな風に生きてきて、育てられてきて、屈折した性格に育つのは当然だった。どこへ行っても、何をしても兄の話が付いてくる。兄、兄。兄兄兄兄兄兄兄兄。

もう、うんざりだった。








「県外に出るの?!」
「ああ」

そんな俺にも、不思議なことに友人と呼べる存在もいた。彼女は苗字なまえ。俺が押し負けて友人になるほどの意志が強い頑固者だ。高校に入ってからの付き合いだが、他の奴らと違ってそれなりに信頼している。

「あんたと家の話をした時に、たまたま通りかかった教師がいただろう。三年になったのもあってか、あいつと時折話していたんだ」
「も、もう進学先も決まったの?」
「いや、進学先までは決まってない。だが県外で暮らす見通しは立っている」

これでようやく、面倒なあの家とおさらば出来るというわけだ。そう口にして隣にいるなまえを見ると、やけに不安そうな顔をしていた。

「どうした?」
「……もう、決めたことなの?」
「? ああ」

煮え切らない態度に痺れを切らし、何が言いたいのかと問う。なまえは少し困った顔をしながら、「国広は寂しくないのか」と聞き返してきた。
その言葉となまえの表情、両方を同時に受け止めて、ようやく気付いた。


「……あんたと会えなくなることは、考えてなかった」


それから、あんたがそんなに俺なんかを惜しんでくれているということも。


「だがまあ、県外に行くからって、別に二度と会えないわけじゃない」
「……」
「俺なんかの家に来たいと思うかは知らんが、来たいならいつでも来ればいい。それだけの話だろ」
「そう、かも……」

俺とあんたの仲だ。卒業してそれっきり、ということもないだろう。自らにある謎の確信と信頼を胸に、なまえを悟す。
彼女が俺の家からの独立を邪魔したいわけじゃないことくらいわかっていた。だからきっと、彼女ならわかってくれることだと。


「……そうかもしれないけど」


だと、思っていた。


「ごめんね、やっぱりわたし、素直に応援してあげられないよ」

「! お、おい!なまえーー…!」


そう言って走り去っていく彼女がどうして泣いていたかなんて。どうしてやればよかったのかなんて、わかるはずがなかった。
どうしてこんなに心がざわめいて、苦しいのかなんて。あいつの泣いた顔に、ひどく胸が痛んだのか、なんて。
人と真正面から付き合ってこなかった俺なんかに、わかるはずが、ない。


ALICE+