艶然
もう夜中の1時をすぎている。それなのに、私は馬鹿みたいに薄暗いシャトーの廊下を忙しなく行ったり来たりして、時間を持て余していた。膝下まであるロングのカーディガンを羽織ってはいるものの、下はというと今日の昼に買った下着と薄っぺらいネグリジェを着ている。アキラさんの助言通り、一歩踏み出そうと意気込んで部屋を出たのだ。それなのに、佐々木一等の部屋のドアの前まで来ては、また自分の部屋の方に戻る。さっきからその繰り返しだ。
「大丈夫、大丈夫……行ける…行こう……。」
小声で囁くように自分にいい聞かせる。こういうのは勢いが大事だ。葛藤すること10分、私はようやく佐々木一等の部屋のドアの前に立ち、ふう、と一つ息を吐いた。そして少し震える手で、コンコン、とドアを叩く。心臓が飛び出してくるんじゃないかというくらい、ドキドキと高鳴っている。もし寝てしまっていたら、諦めよう。もし起きていたら……。
「佐々木一等……菊池です。」
ドアに近づいて、そっと声をかけた。しかし返事はない。やっぱり寝てるか。もう1時すぎだし。私は一つため息をついて、踵を返して部屋に戻ろうとした。
「……どうしたの?」
びくり、と肩が震えた。去ろうとしたのに、ドアの向こうで小さな声がした。起きていたみたいだ。それなら……行くしかない。
「あの、少し話があります。入っていいですか?」
ドア越しに恐る恐る話しかける。これは結構、無謀な試みだ。しばらく沈黙が続く。やっぱり、ダメかもしれない。
「……もう遅い時間だし、明日の朝にしない?」
案の定そんな言葉が返ってきて、私は項垂れた。けれどここで諦めるわけにもいかない。私は縋るようにドアに両手をついた。
「今じゃないとダメなんです。急ぎ、なんです。」
そう言うと少しの沈黙の後、ドアの向こうでガタンという雑音と足音が聞こえ出した。うわ、来る。どうしよう、なんて言おう。そういえば、ろくに計画も立てていなかった。あたふたしているうちにも、ガチャリとドアノブ下りて、ついにドアが開いた。
「……どうしたの?具合悪い?」
30センチ程ドアを開けて、そこから心配そうに佐々木一等が私を覗き込む。しかし部屋に入れる気はないのか、それ以上ドアは開かない。
「ちょっと話せますか。」
少し眉を下げて、困ったふうに言ってみた。すると彼は私から視線を逸らして下を向く。何かを考えているみたいだ。
「……じゃあ下いこっか。」
そうくるのか。私は内心でため息をついた。やはり、部屋で二人きりになるのはどうしても避けたいらしい。
「いえ、もし他の誰かに聞かれたら困るので、部屋の中でお願いします。」
けれどもめげずに切り返す。佐々木一等が心底困った、という顔をして、うーんと呻くような声を上げる。
「お願いします……頼れる人が佐々木一等しかいないんです。」
「……わかった。」
佐々木一等が渋々とドアを大きく開けて、私を招き入れる。我ながら卑怯だなぁと思った。こんなことを言われたらさすがに断れないだろう。
部屋は薄暗く、オレンジ色の微量な明かりが保たれていた。本を読んでいたのか、奥のベッドのサイドテーブルには本があって、その横のナイトランプが薄く光っている。いい感じの雰囲気なのに、佐々木一等がパチンとドア横のスイッチを押して電気をつけたせいで、途端に眩しいくらいに部屋が明るくなる。そして彼はベッドに座り、ぽんぽん、と隣を叩いた。
「おいで。」
「……はい。」
私はゆっくりとドアを閉め、意を決して付けられたばかりの電気をまた消した。そして佐々木一等の待つベッドへと向かう。
「菊池さん……?」
電気を消したことに驚いたのか、佐々木一等が慌てて私を呼んだ。私は何も言わず、遠慮もなく彼の隣に座る。
「……話って何?お腹空いちゃった?」
佐々木一等が困ったような顔をして、隣の私を覗き込む。どうしよう。今ここでカーディガンを脱いだらどうなる。やっぱりできない。無理だ。とりあえず、居座る口実を作ろう。ろくに何も考えずにここまで来てしまった私は、咄嗟に考えた苦し紛れの言葉を口にする羽目になる。
「最近悪夢を見るので、一人だと眠れないんです。隣で寝ても……いいですか。」
もうこれは、アウトなんじゃないかと思う。実際のところ、子供じゃないんだから悪夢を見たってどうってことないし一人で寝れる。佐々木一等はと言えば、ぎょっとした顔をして言葉を詰まらせている。
「そ……れは、……ダメ。」
「ダメですか?」
「ダメでしょ、どう考えても……僕は男なんだから。」
はぁ、とため息ついて、佐々木一等が項垂れる。ため息をつきたいのは私の方なのに。ここまで言ってもダメなら、ここで下着姿になったとしても上手く宥められて部屋に戻されそうだ。
「……じゃあ、不知くんか瓜江のとこ行きます。」
「その二人もダメ!」
もういいやとヤケクソになってそんなことを言ってみると、佐々木一等が慌てて私の腕を掴んで引き止めた。その必死な反応が、少し面白いと思ってしまった。
「添い寝くらいいいでしょ。ケチ。」
極め付けにそう言ってやると、佐々木一等は顔を顰めた。それから呆れたようにため息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。
「……わかった。じゃあベッド半々で使おうか。はい、立って。」
私が立ち上がると、彼はベッドの上の毛布をめくり上げた。そして先にその中に潜り込み、ぴたりと寄り添うように壁際に寄る。体はもちろん壁側を向いて、こっちに背を向ける体勢だ。
「僕はずっとこっち向いてるから。ランプ消してね。おやすみ。」
素っ気無くそう言われ、それきり沈黙が続く。添い寝じゃないし、こんなのってあんまりだ。私は少しむっとしながら、半分以上開いたスペースに潜り込む。少し温かくて、良い香りがする。ランプはつけたまま、背を向ける佐々木一等の背中をじっと見つめた。黒の長袖のTシャツは、身体のラインをしっかりと表している。
「佐々木一等……。」
我慢できず、そっと小声で名前を呼んだ。こんなの眠れないし、つまらない。見ているとやっぱり触れてみたくなる。
「…………何。」
少し間が空いたけど、返事はちゃんと返ってきた。
「こっち向いてください。」
「それは……菊池さんが困るからダメ。」
それってどういう意味だろう。考えるのも煩わしくて、私はもぞもぞと佐々木一等の方へと近づいた。そして片腕をそっと彼の脇腹に回し、後ろからぎゅっと抱き着く。
「わっ……こら!」
びくりと身体を震わせ、佐々木一等は叱るようにそう言うと、脇腹に回った私の手を掴んだ。彼の身体はあったかくて、筋肉がついているからちょっと固い。なんだか少し楽しくなってきて、掴まれた手を抜け出し、右手をTシャツの隙間に差し入れて直に脇腹を触った。
「ひっ、……!っこらこらこら!!!」
びくびく、と身体が揺れる。肌が温かくて、すべすべしていて気持ちがいい。腹周りとするすると撫でると、もがくように身体を動かすのが面白い。
「ふふ、くすぐったいのダメなんですね?」
「……っやめなさい!」
つい面白くて、彼の背中に顔をくっつけながら、堪えきれずに肩を揺らして笑ってしまう。そんな私に、また呆れたようなため息が聞こえた。
「菊池さんはほんとに……。」
「……なんですか?」
「ほんと……悪い子だよ。」
「嫌いですか?私のこと。だから避けるんですか。」
「そんなわけないでしょ。」
じゃあどうして、とは言えず、私は背中のTシャツをぎゅっと握った。なんだか胸が痛くなる。私は本当に、この人のことが好きなんだな、と思う。
「じゃあちゃんと私を見て。向き合ってよ。」
額を佐々木一等の背中にくっつけて、小さくそう言った。返事はなく、しばらく沈黙が続く。やっぱり、だめか。諦めて目を瞑ろうとした時、もぞもぞと彼が動いた。驚いて少し身を引くと、ついに、ゆっくりと私の方を向いた。顔と顔が向き合って、佐々木一等の瞳に私が写る。そしてやけに真面目な顔をした彼と、しばらくの間見つめ合う。その顔が綺麗だなぁとぼっーと眺めていると、そっと腕が伸びてきて、頬を愛でるように指で撫でられた。それが嬉しくて、私は微笑む。するとゆっくりと、佐々木一等が口を開いた。
「……大事なんだ、君のこと。僕の中で、いちばん。」
親指が、そっと私の唇に触れる。くれた言葉が信じられなくて、何度も脳内で繰り返す。そしてちゃんと理解した時、なんだか涙が出そうになって私はきゅっと口を結んだ。そんな私を見て、佐々木一等が微笑む。そしてそっと、頭を撫でられた。
「……嬉しいです。今まででいちばん。」
「僕も、菊池さんが好きって言ってくれた時、すごく嬉しかったよ。」
「じゃあ、なんで……。」
「僕は君の上官だし、班も上手く纏められないのに部下に手を出すなんてどうかと思ったんだ……。けど、君にキスしてって言われると、ほんとに、我慢できないし……近くにいると…その……ダメだね、何やってんだろ……上官失格だ……。」
はぁ、と息を吐いて項垂れる佐々木一等の手を、そっと握った。なんだ、そういうことだったんだ。彼は、一人で色んなことを考えていたみたいだ。
「大丈夫です。お互いちゃんと、仕事と分けられますよ。班纏めるの、私も頑張りますから。」
彼の頬に手を添えてそっと微笑む。すると申し訳なさそうに眉を下げて、彼は私に頭を寄せ、額をこつんと合わせた。
「……ごめん。僕がしっかりしないといけないのに……。菊池さんの方がよっぽどしっかりしてるよ。」
「仕方ないです。人生経験上、まだ2歳ですから、佐々木一等は。」
「…なるほど。その言い訳は他にも使えそう……。」
アキラさんかなんかの前で、本当に使いそうだ。思わず笑うと、彼も ふふ、と笑った。
「……佐々木一等。」
「…………ん?」
「キス、してください。」
いつもみたいにねだると、佐々木一等は少し困った顔になって、そっと私の唇に指を這わせた。しかしその手は急に引っ込んで、彼は私から視線を逸らす。
「……今はダメ。」
「なんで?」
「キス以外に、色々しちゃいそうだから。」
ぐっと堪えるような顔をする佐々木一等が、とても愛おしいと思う。私はそっと彼の首筋を撫でた。
「じゃあ、せっかく着てきたので、これだけでもちょっと見ません……?」
「……え?」
自分でも、結構大胆なことをしてしまったな、と思った。けれど今しかないと思い、内心恥ずかしがりながらそっと上半身を起こし、羽織っていたカーディガンをさらりと脱いだ。
「……菊池さん…それ……。」
佐々木一等がベッドからゆっくりと起き上がって、私を凝視する。オレンジの明かりでよく見えないけど、きっと彼は少し、頬を赤く染めているのだろう。
「やっぱ変ですかね……大胆すぎかな…引いちゃいました?」
「す、」
「す?」
「すごく、いいよ。……うん。」
彼はごくんと喉を鳴らして、口に手をやって難しい顔をする。そして ふぅ、と気の抜けたように息を吐いた。
「……エロいですか。」
「うん……すごくエロい。」
こめかみにぐっと手をやって、まいった、というように項垂れる佐々木一等。あともう一押しだ。まるで並並のグラスを傾けるように、堪えようと必死な様子の彼の耳元に、そっと唇で触れた。
「じゃあキス、してほしいな……。」
言うや否や、ぐい、と少し乱暴に肩を掴まれ、そのまま押し付けるようにベッドを背に押し倒された。覆い被さり、私を見下ろす佐々木一等の口端が、そっと上がる。
「……悪い子だなぁ、ほんとに。」
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寝耳にミサイル