哀傷
地面を覆う血だまりも、鼻をつく生臭い匂いも、今はもう、甘美なものとしか思えない。心の奥底の狂気が人格すらすり替えんと、じわじわと身体を侵食していく。
「……眼帯の喰種を知ってる?」
上品な黒のパンプスが、血の池を跳ねる。街外れに続く深夜のトンネルは、静かな墓場のようだった。そこで夜を明かそうとした哀れな浮浪者の遺体と、その横に平伏す間抜けな喰種。やはり深夜の方がよく狩れる。
「眼帯……?」
「2年前、20区にいた喰種。彼を知ってる?」
刀を模したクインケの、鋭く光る刃。醜く血だまりを這う喰種の首元へと持っていくと、怯えたように身震いする。それに加虐心すらおぼえるのだから、すでに正常な人格は破綻している。けれどこれは、捜査官なら誰しもが持ち得る経験だ。人を模した怪物を殺すなんて、正気ではやっていけないのだから。
「俺は……、最近ここにきたばかりだ、しらねえよ、そんなやつ……!」
「そう。」
「隻眼…!お前の顔……覚えたぞ…!」
「……今に何もかも、わからなくなる。」
鈍く肉の裂ける音と、吹き出して飛び散る血飛沫。呆気なく地面に転がる、口を利かぬ物と化した頭。刃についた液体を、一振りで払う。見慣れてしまったそれらの光景に、何の情もわかなかった。それよりも、隣に横たえる蕩けるような肉塊に、吸い寄せられてしまいそうだ。腹が空腹を訴えて鳴き、誰かがそっと、私の耳元で囁く。
『食べてもいいのよ?これは戦利品。全部、あなたのものだもの。』
◇
今すぐ死んでしまいたいほどの罪悪感が、私の脚をこれでもかというくらい、強く動かしていた。血濡れたパンプスなんてとっくに脱いで、ただ必死に、裸足で夜道を駆け抜ける。畔道の泥も駐車場の砂利も、車道近くの水たまりも公園の砂も、構わず足で踏みつけて、息が上がってることも、涙が出ていることも、口に広がる血の味も、全部忘れて走り続けた。すれ違いざま、コンビニ帰りの誰かが悲鳴を上げる。それでもひたすら前を見続け、今すぐ叫び出したいくらいの、熱く引き裂かれそうな感情をぶつけ、無様に走った。やがて視界に見えてきた、無意識に辿りついてしまったシャトー。私は縋るようにしてそこへ走り込み、無様にドアへぶつかった。それからすぐ、馬鹿みたいに震える手でポケットから鍵を取り出す。そして開いたドアの隙間から、必死に身体を滑り込ませ薄暗い玄関へと倒れ込んだ。過呼吸にも近い発作的な荒い息を繰り返し、私は床を這う。
「……エリカちゃん?」
ふと廊下の奥から聞こえた小さな声に、背筋が凍った。佐々木一等の声だ。そんな、まさか。時刻は夜中の3時を回っているのに。私は息も絶え絶えに身体を無理矢理立たせ、口元と顔周りについた血を服の袖で必死に拭う。けれど血飛沫を浴びた身体は、どう足掻いても隠せそうにない。やがて慌てたような足音と共に、廊下へ走りこむ人影がうっすらと見えてくる。パチン。廊下のライトが付けられ、互いの姿が明らかになった。驚きで目を見開く佐々木一等の姿が、2、3メートル先に見える。壁に寄りかかるようにして立つ私を、彼は上から下まで見て、それから唖然とした顔で私の目を見た。
「……どこに行ってたの?」
「…琲世さん、どうして……。」
「それ、血…?」
「これは……。」
「何してたの!?怪我は…!?」
突然声を荒げた佐々木一等が、こちらに駆け寄ってくる。よりにもよって彼に見つかるなんて、あんまりだ。嫌だ。言えない。何も言えない。言いたくない。私は無性にこの場から逃げたくなって、駆け寄る彼をすり抜けて、思い切り走り出した。
「待って!」
「やだっ……何も言いたくない……!」
リビングとダイニングの間を駆け抜けて、階段へと急ぐ。けれど後ろから強く腕を掴まれ、引き止められてしまった。
「放っておいてよ!!!」
「嫌だ!」
悲痛な叫びのような声とともに、身体を引き寄せられる。そして無理矢理に強く胸へと抱き込まれ、押さえつけられてしまった。必死に藻掻いて抜け出そうとするも、敵わない。こんな姿、見られたくなかった。遣る瀬無い気持ちがこみ上げて、同時に力も抜けてしまう。結局大人しく腕に抱かれ、しばらくの間沈黙が続く。時計の秒針と鼓動の音だけが、刻々と聞こえる。ふと優しく後ろに回った手が髪を撫で、耳元で静かな声が聞こえた。
「……いつも心配なんだ。またあの時みたいに、どこかで倒れてるんじゃないかって。」
少し震えた声が、耳に温かく通る。駆けつけてくれた冷たい雨の日のことを思い出した。顔は見えないけれど、彼は今あの時のような悲痛な顔をしているのかもしれない。
「お願いだから危ないことはしないで……お願い。」
抱く腕にぎゅっと力が込められ、懇願するような切なげな声に胸が締め付けられる。
「……いなくなったりしないで。」
違う。私は心の中で呟く。いなくなるのは貴方の方だ。何もかも思い出したら、彼が彼ではなくなって、きっといなくなってしまう。私はそれが怖くて怖くて、仕方がないんだ。
「いなくなるのは……琲世さんだよ…。」
思わず口から出てしまった言葉に、ぴくりと佐々木一等の肩が揺れる。それでも止まらずに、私は不安を吐き出していく。
「全部思い出したら……いなくなっちゃう。私のことなんて……きっとどうでもよくなる。」
泣き出しそうなのを堪えながら、震える声で呟く。するとまた腕に力が込められ、囁くような優しい声が聞こえ出した。
「そんなことない。僕は君がいてくれれば、それだけでいい。」
嬉しい言葉のはずなのに、不安など少しも拭えない。それでも安心したくて、私は無意味な言葉を紡ぎ出す。
「……いなくならないって、約束してください。」
彼の肩に額を押し付けながら、消え入りそうなほどの声で言った。すると彼は私の頭を撫で、そこに一つキスを落とす。
「うん。約束するよ。」
優しく包む声色に、不思議と心が落ち着いた。ただの気休めにすぎない。けれど今は、少しでも一緒に居られるのなら、それだけでいいと思えた。
「喰種を……狩ってたの?」
「……はい。」
唐突にそう問われて、頷きつつもひやりと冷や汗をかく。先ほどの出来事が頭を過り、不意に手足が硬直する。やっぱり、全てを話すことはできない。佐々木一等に軽蔑されたくない。これ以上、心配もかけたくない。
「……他には?」
「…え?」
意味深な言葉とともに、不意に両肩を掴まれ身体が離される。真剣で、少し強張った顔。見透かすような瞳が、私をじっと見つめる。
「まだ僕に話してないこと、ある?」
その目を見続けることができなかった。思わず、視線を下に向ける。秘密裏に借りた部屋、金木研の写真、ラビットの悲しげな顔、猫を模したマスク、口に広がる甘い血。それらの映像が頭にフラッシュバックする。思わず言葉が出かかったのに、心の奥底に潜む誰かが私の喉を掴む。そして唇にそっと人差し指をおいて、「ダメよ。」と彼女は言う。私は出かかった言葉を飲み込み、口を閉ざす。何も、言えない。
「……ありません、何も。」
「本当に?」
「…………はい。」
俯きながら、私は小さく返事をする。もう何度嘘をついてしまったかわからない。引き返すことのできないところまで、私は進んでしまった。
「エリカちゃん。」
名を呼ばれて、彼を見る。どこか悲しげな顔が、私を見つめていた。その手が顔にそっと伸びきて、指で優しく頬を撫でる。そして愛おしそうに目が細められた。けれど、不意に、その指が私の顎を掴む。驚いた私を見る彼の眉間に、ぎゅっと皺が寄った。
「今日から僕の部屋で寝て。」
「…………え…?」
先ほどとは打って変わった、抑揚のない、淡々とした冷たい声が響く。
「外出も、僕と一緒でないと許さない。」
「……そんな、」
唐突に歪められた顔に、苦しみの色が浮かぶ。どうして。指に力が込められ、私は思わずその腕を掴んだ。突き刺すような視線。その瞳の奥に、静かな悲しみと怒りを感じた。
「上官命令だ。」
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寝耳にミサイル