薄氷
最近、彼女の様子がおかしい。それも、ちょっと機嫌が悪いとか、髪型が上手く纏まらないとか、そんなことではなくて。なんだか雷雨前の薄暗い雲のような、どんよりとした雰囲気を見せることがある。そんな姿を心配して見つめる
と、彼女は気づいたように和やかに笑う。朗らかで優しいその表情がどこか痛々しく見えるのは、僕自身のせいなのか。それとも、
「………サッサン。」
夕飯の片付けを終え、リビングで読書中。急にそばにやってきた不知くんが、珍しく不安げな表情をしているのに嫌な予感がした。後ろから慌てたように六月くんまでやってくるのだから、余計にだ。いつも夕飯の片付けを手伝ってくれるのは彼女だけなのに、何故か今日は彼らがやると言いだした。その時から、何か変だとは思っていた。
「どうかした?」
「その……話したいことが、ある。」
彼はソファに座っている僕の横に、神妙な面持ちで腰を下ろす。一体なんだ…?すぐに本を閉じてローテーブルに置いた。すると駆け足でやってきた六月くんが、背後から不知くんの肩を掴む。
「シラズくん待って…!」
「トオル、言うなら今しかねェよ、俺たちしかいねェし…。」
「でも……!」
二人の間で交わされる謎めいたやり取りに、戸惑いつつも見守ることにする。気になるからといって、無理に何かを聞き出すようなことはしたくない。六月くんに向かい、一つ頷いた不知くん。黙って見据えていると、ついに彼は気まずそうに口を開いた。
「この前の休みの日……。サッサン、長いこと寝てて、夜に起きてきただろ?」
「あぁ……あの日?確かに朝一回起きたはずなのに、気づいたら夜まで部屋のベッドで寝てたんだよ。その日がどうかした?」
あの日のことなら覚えている。朝起きて、彼女に本を貸すために部屋を出た記憶があるのに、何故か起きたら夜だった。随分と長い時間夢を見ていたのだと、無理矢理自分を納得させたのを覚えている。
「……その日の昼過ぎ、上からなんかスゲー叫び声と物音がして、見に行ったら廊下にエリカさんがいてよ。」
「怪我してて、肩が血まみれだった……。」
「それに2日前の夜中トイレに起きたら、エリカさんがクインケ持って外へ出るの見ちまって……。」
呼吸を止めてしまいそうな程の、衝撃だった。彼らの言葉を何度も頭の中で反復する。そして理解すると同時に、混乱と不安の入り混じった複雑な心境が、眉間に皺を寄せさせた。最近おかしなことばかり起こると思っていた。夜に一人で出かけたり、らしくもなくグラスを割ってしまったり、どこか気まずそうに目を逸らしたり。
「何でもっと早く言ってくれなかったの?」
こんなことを言うべきではないのに、怒りにも似た黒い感情が、口を勝手に滑らせる。冷静を保ちたい気持ちと、どうにもならない感情が鬩ぎ合う。焦りの色を浮かべる不知くんたちの顔を見るに、今僕の顔は多分、強張っているのだと思う。
「口止めされてたんだ。」
「心配かけたくねェから黙っといてくれって、言われたからよ……。」
「でもさすがにエリカさん最近おかしいから、言った方がいいかなって……。」
申し訳なさそうに語られた言葉に、いくらか救われた気がした。あくまで彼女を心配して黙っていたのなら、不知くんたちには何の落ち度もない。問題は彼女と僕だ。その日に何があったのか。良からぬ予想が頭を過る。何があったにしろ、僕に話さないことを選んだのは彼女だ。隠し事をされているという事実が、これでもかというくらい胸を抉る。何でも話せるような仲だと、思い込んでいた。彼女は自分を信頼し、頼ってくれているものだと。
「……話してくれてありがとう。」
「その、俺たちが話したってこと……、」
「エリカちゃんには言わないよ。自分から言ってくれるまでは。」
深いため息をつき、項垂れる。いつかこんな風になってしまうのではと恐れていた。僕も彼女も、抱えているものが大きすぎる。ただ、それを共有することで上手くやっていけると思っていた。どうやら現実はそう甘くはないらしい。
「……僕も、最近少し様子がおかしいなって思ってたんだ。この前グラス割っちゃった日も、夜に一人で出かけて行ったから。」
「……心配、ですよね。」
「…………うん。」
もしかすると、彼女は何か思い出したのかもしれない。それを話せずに苦しんでいるのかも。とにかく、現状が悪い方向に向かっているのは確かだ。なんとかしなくてはならない。
「とにかく、話してくれてありがとう。注意して様子を見ることにするよ。」
安心させるように笑って、もう寝るようにと不知くんたちを促す。そうして一人になったリビングで、鬱々と物思いに耽った。自分の記憶や、彼女の記憶。それらが戻ったら、どうなってしまうのだろう。僕らは言わば、薄氷の上を歩いているようなものだ。そこをいつまでも歩かせてくれるほど、この世は優しくない。
◇
それから何時間経っただろう。人の気配の消えた薄暗いリビング。窓から入る外灯の名残と僅かな月明かりだけが、朧げに物の輪郭を表していた。ソファに身を沈め、延々と寂しげな秒針の音を聞き続ける。祈るように目を瞑るも、やがてその時はやってくるのだと心のどこかで確信していた。そして案の定、微かな床を蹴る音が聞こえ出したのに、僕は焦り始める。そっと薄目を開けると、階段を降りて来る人影が見えた。片手にはクインケのケース、靡く長い髪。暗くとも、それが誰なのかすぐにわかった。息を潜める僕には当然気づきもせず、彼女は静かに階段を下り終え、リビングとダイニングの間を足早に通り抜けていく。そして、玄関へ続く廊下へと消えていった。
「ショックだなぁ……。」
天井を仰ぎながら、自嘲気味に笑う。ピシリと、薄い氷に亀裂が走った。後にも引けず、先にも進めない。自らの無力さを感じながら、僕はそっと息を吐いた。
back top next
寝耳にミサイル