海容



悪い夢を見た。延々と続く薄ら寒い、暗くてじめじめした廊下を、僕は走っている。目の前を走る彼女を、必死で追いかけていた。けれど、ふと現れた白い霧の中に、彼女が逃げ込んでしまう。切羽詰まった息遣いを頼りに、負けじと僕もその後を追う。ついにその背中の影が見え、何度も手を伸ばし、ようやく腕を掴む。そんなつもりじゃないのに、彼女の白い肌に爪が食い込むほど、強く掴んだ。振り返ったその顔は苦痛に歪み、怯えた目が僕を見上げる。そして震える唇が、ゆっくりと開いた。


「……あんたなんて大嫌い。」






「……っ!」

とんでもない悪夢に、思わず飛び起きてしまった。身体中に汗をかき、心臓の音がうるさく響く。なんだ夢か。安心してため息を吐いたその時、自分のすぐ横に、彼女が横たわっているのを見つけた。血の気が引き、思わず息を呑む。そして昨夜の出来事が頭を過った。なんてことを。自らの頭を力任せに叩き、その場に項垂れた。覚えているのは、制御できないほどの感情と、それを煽る頭の中の誰かの声。衝動に駆られるがままの行動、しなる彼女の背中、くぐもって聞こえる悲痛な声。組み敷いた時の征服感と背徳感、言い知れぬ愉悦、その先に残った虚無感。

「……琲世さん?」

頭を抱えていると、ふと横から小さな声が聞こえた。彼女が起きてしまったようで、掠れた声で「おはようございます」と言って、眠そうな目を擦る。

「……ごめん。」

その言葉しか、出てこなかった。さっきの夢は正夢かもしれない。あんなことをしては、愛想が尽きるどころの話ではない。自分の中に、自分ではない"誰か"がいる。薄々気づいてはいたが、今回で思い知らされた。僕は、正常じゃない。

「本当にごめん……昨日はどうかしてた。」

「私こそ勝手な行動をしてご迷惑を……すいませんでした。」

彼女の手を握り必死に謝るも、逆に申し訳なさそうな顔をして謝られてしまう。違う。悪いのは僕だ。

「違う。そうじゃなくて……僕は…時々、おかしいんだ…頭の中に、」

「琲世さん、」

急に僕の言葉を遮って、彼女が指を唇へと押し当ててくる。不思議なことに、同時に頭の中に現れた誰かと、その行動が重なった。喉の奥に押し戻された言葉が、音に成らずに消えていく。

「大丈夫。何も心配しなくていい。」

唖然として、彼女を見つめる。ただ優しく微笑むだけで、その先の言葉はない。きっと偶然だ。なんて皮肉なんだろう。

「エリカちゃん……。」

「………なんです?」

「本当に……ごめん。」

もっと理性的に行動すべきなのはわかっている。普段はできている方だ。それなのに、彼女のこととなると、どうにも感情が抑えられない時がある。昨日の自分の行動は、何もかも間違っていた。どうかしてしまったんだ。

「昨日言ったことは忘れて。僕の部屋で寝なくていいし、外出も……していいから。」

彼女のことが心配で仕方がない。嘘をつかれていることも苦痛だ。けれど、だからと言って自由を縛って監視するなんて馬鹿げている。そもそもちゃんとした信頼関係を築けなかった自分が悪いのだ。改めて罪悪感に苛まれ、項垂れる。すると彼女は上半身を起こし、両腕をそっと僕の背中に回した。

「もう二度と、勝手な行動も、心配かけるようなこともしません。」

僕を責めることも、怒ることもなく、彼女は清々とそう言った。なんだか自分が不甲斐なくて、何も言えなくなってしまう。けれどそんな時、彼女は抑鬱とした空気を掻き消して、悪戯に笑うのだった。

「これからは才子ちゃんと一緒に、一日中ゲームでもしようかな。」

「……それは困るなぁ。」

楽しそうに、彼女は笑う。けれど僕は、それが無理をしているように思えて仕方がない。こんなに近くにいるのに、遠く感じる。目に見えるのに、掴めない。彼女はまるで、煙のようだと思う。いつかふわりと流されて、いなくなってしまうんじゃないか。そんなことを考えながら、彼女の頬にキスを落とす。けれど漠然とした不安は、一向に拭い切れそうにない。



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寝耳にミサイル