哀婉



「……すごい可愛い店員さん。」

「な〜〜」

可愛い店員さん。六月くんの言葉が、頭にいつまでも残る。佐々木一等はぼんやりと視線をテーブルに落とし、何やら考え事をしている。思い出しているのだろうか。もしかすると、何かが見えたのかもしれない。


「……お待たせしました。」


再び現れた彼女の顔には、憂いを帯びた微笑が浮かぶ。ちいさな白い手からテーブルへ、一つ一つ丁寧におかれる珈琲。酔いしれそうなほどに唆られる深い香りが、鼻の奥を突き抜けた。

「いい匂いですね。」

佐々木一等が微笑む。その先はまるで、スローモーションのようだった。カップの中で揺れる水面、テーブルに触れるソーサーの底。皆が同時に、カップの取っ手へと手を伸ばす。私はその緩徐な一挙一動を、延々と見つめていた。佐々木一等の薄く形の整った唇に、白の縁が添えられる。ごくり。僅かな流音とともに、喉仏が動いた。

「わ…美味しい……」

「ホントにアタリだな!サッサンの鼻赫子もダテじゃねーな……なっ、サッサン。」

「うん。美味し…」



……あ。



小さく。誰にも聞こえない声で呟いた。突然、佐々木一等の目尻から、一つ、二つと涙が溢れ、頬を伝い落ちたからだ。

「…あれ…??」

無意識に、まるで誰かの代わりに泣いているかのよう。この光景は前にも見た。河原で見せた、哀愁に満ちた光の粒。泣いていたのは佐々木一等ではない。「金木研」だった。私と彼だけの、記憶を通じた事象だと、そう思っていた。けれど違った。私は「彼」のことなどほとんど知らないのだ。彼の生きた人生がどんなものだったのか。どう生きて、誰を大事にしていたのか……。今わかったことは、彼にとってあの美しい店員は、とても大切な人だったということ。きっと、煎れてくれた珈琲の味に涙するほど、心奪われた相手なのだろう。込み上げてきた感情に息が詰まる。墨汁は溢れ、透明な水は黒く深く染まっていく。胸が痛い。アイスピックでも突き刺されたかのような、鋭い痛みだ。とても耐えられそうにない。

「あ……あはは……。いやぁー…美味しいね。」

「サッサン大げさすぎ!新手の面白か?」

「いやあ、おかしいな…なんだろコレ…」

次から次に涙が落ち、彼は慌てて下を向いた。大丈夫ですか?ハンカチいりますか?言うべき言葉が頭に浮かぶのに、声が出ない。動けない。無能な私の横から、すっと細い腕が伸びる。彼に向けて差し出された、薄ピンク色のハンカチ。先を越されてしまった。未だに取っ手に伸ばせずにいる、持て余された自身の右手が、やけに頼りなく感じた。

「あっ……すみません。おいしいです……ほんとうに……。」

「……ありがとうございます。」

申し訳なさそうに、ハンカチを受け取る佐々木一等。その様子を見て彼女は、困ったように、それでいてどこか哀しげに、そっと微笑んだ。

「あっ……」

その時、突如として彼女の顔が、ある人物と重なった。思わず出てしまった声に焦り、視線を下に泳がせる。どこかで見たことのある、懐かしさを感じた理由が、ようやくわかった。美しく整ったあの顔……。似ている。「ラビット」に……。

「……エリカさん?」

冷や汗が額に滲む。頭の中で彼女の顔とラビット……"絢都"との記憶が交錯する。ふと呼び起こされた記憶の断片。伸びきった前髪、表情の隠れた横顔。「……姉貴ならいる」ぼそりと呟く彼の横顔が、脳裏に過った。

「私、もう行かなくちゃ。」

「……えっ!?もう?」

目紛るしく飛び交う様々な感情、記憶、憶測に、私の声と指先は、微かに震えていた。動悸が止まない。とにかくこの場から抜け出したい。急いでバッグから財布を掴み、乱雑に千円札を抜き出す。皆が慌てふためく様子など、気にかけてもいられない。テーブルに千円札を置いて、逃げるように駆け出した。

「えっ……!?」

「あ、オイ!」

「エリカちゃん!」

早く。早く抜け出したい。ガラス扉を開けると、肌を突き刺す冷たい風が、力強く雪崩れ込む。それでも怯むことなく、外へ飛び込んだ。扉のベル音が軽やかに鳴る。扉が閉まる直前、もう一度私を呼ぶ声を聞いたが、それでも振り向かなかった。足早にコンリートを歩く。ヒールなんて履いてくるんじゃなかった。するとまた、背後からベルの音がした。まさか、追ってきたのだろうか。

「お客様!」

私は唖然として立ち尽くした。何故か店員の彼女が、慌てて店を飛び出して来たのだ。……どうして。どうして貴女なんだろう。醜い心が、やる瀬無い感情が、大きく膨らんだ。

「落としましたよ、これ。」

「……ありがとう。」

差し出されたのは、愛用のスマートフォンだった。慌てていたせいで、店を出る途中に落としてしまっていたらしい。彼女は優しく微笑み、私の手にそれを置く。思わず強く握ると、サイドボタンが反応し、液晶に待ち受けが映し出された。そこには笑みを浮かべる私と、佐々木一等の姿。ランダムに画像転換する仕様だった。咽せ返りそうなほどの切情を抱えきれず、無理に作った笑みは崩れ、感情は破裂した。

「大丈夫ですか?」

「………え……」

「目、涙が……。」

気づかなかった。言われて途端に、頬の軌跡がすうすうと冷えていくのを感じた。ハンカチを探る彼女の手が、途中で止まる。そう、さっき貸してしまったんだよね。困った顔でこちらを見上げる、綺麗な人。心もきっと、美しいのだろう。飛び散ってしまった感情は底へと沈み、収束していった。彼女は、彼に相応しい。


「ちゃんと返すから。もう少しだけ待ってね。」


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寝耳にミサイル