巡合



脂の乗った香ばしい匂いが、鼻を擽る。まるでスパイスの効いた肉料理が、近くに並べられているような……。しかしここはレストランではない。隙間がないほど満員となった電車内。冷たいドアに押し潰されるようにして、私はそこに立っていた。窓にできた結露が、僅かに髪を濡らしてどうにも気持ちが悪い。都内の電車は、夕方でも相変わらず混んでいる。6区まであとどのくらいだろう。電光掲示板を見ようにも、人の頭が邪魔をする。おそらく降りる駅はまだ先だ。気怠げなアナウンスが流れ、ゆっくりと電車が止まる。同方向にぐらりと人が揺れ、反対側のドアが開いた。すでにすし詰め状態の車内に、無理矢理押し入るように人が乗り込む。さすが13区だ。さらに押し潰され、窓に頬をくっ付ける羽目になる。ああ、気持ちが悪い。けれど人混みに纏う香りの中、強烈な空腹などは感じない。私はそれに満足感を覚え、ぼやけたガラスを袖で拭って、過ぎていく灰色の景色を眺めた。






吐き出されるようにして電車から降りると、冷たい風が首元から入り込んだ。そろそろマフラーが必要かもしれない。改札を抜けて、資料を取り出す。数個の赤い点の書かれた6区の地図。点を線で結び、歪な図形となったその中は、薄く赤で塗られている。まだ16時だ。時間は充分にある。

「……しまった」

改札口に書かれた"西口"の文字。これから向かおうとしている場所は、地図によると東口側だ。ため息をつきながら辺りを見渡す。幸いにも少し先に、線路の上を跨ぐ歩道橋が見える。仕方ない。足早に歩き、古く錆び付いた歩道橋を登った。橋の下では電車が行き交い、鈍い振動が足を伝う。ふと、横に流れる風の中、澄んだ香りが鼻を通った。覚えのある匂い。柔らかな白い髪と、温かな微笑みが頭を過る。はっとして橋の向こう側を見ると、そこには見慣れた人物がいた。

「あ!」

「……エリカちゃん!?」

まずい。私は肩を竦ませ、その場に立ち止まった。佐々木一等だ。こんな偶然、あり得るのだろうか。恐らく捜査中なのだろう。スーツを着ていて、後ろには六月くんと不知くんもいる。

「……エリカさん!」

「おおっ!スゲー偶然!」

戸惑いを隠せず、一歩、無意識に後退るが、そんな様子にはお構いなしに、佐々木一等は私の元へ駆ける。逃げるわけにも行かず、変に身構えた格好で、その場に立ち尽くしてしまった。

「久しぶりだね!お出かけ?」

「……はい、そんなところです。」

清爽とした笑みを浮かべる佐々木一等に、私もまた微笑みかける。が、内心ではこの状況から抜け出す方法を必死に思案していた。

「ちょうどどこかでお茶して帰ろうと思ってたんだ。エリカちゃんも来ない?」

「サッサン空気読めよ!デートに行くのかもしれねーだろ!?」

デートという言葉の後、佐々木一等の眉間がほんの一瞬だけ引き攣った。慌ててごまかし笑いをする私に、かえって確信を持たせてしまったのか、「ほらな」と不知くんが得意げになる。違うのに。佐々木一等が笑みを貼りつけたのまま、上から下まで私を見て、なんとも言えない表情をする。今は洒落た外行きの格好だ。普段スーツを着ている分、デートと思われるのも無理はない。何せ不知くんは私と佐々木一等の関係を知らないのだから。ここは何か適当な理由をつけて去るべきだろう。そう思った矢先、なぜか不知くんに向かい、六月くんが軽く肘を突き立てた。
 
「痛ェッ!なんだよトオル!」

何を言うわけでもなく、ただ懸命に視線を向ける六月くんに、なんだなんだと不知くんが戸惑う。よくわからないが、今のうちに退散するとしよう。

「私ちょっと用事あって。それじゃ、」

「待って……!」

さっさとその場を後にしようとするが、逃がさないと言わんばかりの強さで片腕を掴まれる。掴む手の主は、焦燥しきった様子の佐々木一等。懇願するような潤んだ目には、同じく焦り、腰の引けた女の姿。

「その……10分でもいいから、ダメかな?最近会えてないし、近況とか、聞きたいな。」

「……特に何もないですよ。お話しできるような面白いこと。」

「エリカさん!僕は、エリカさんとお話したいことがあって……!」

六月くんまで、何をそんなに必死に。ここまで引き止められて断れば、私が悪者のようじゃないか。前にも後にも行けず、渋々と頷く他ない。

「……じゃあ、少しだけ。お邪魔しようかな。」







珈琲の香りがする。今まで嗅いだどんな香りよりも深く、上品で、きめ細やかだ。佐々木一等や不知くんたちの談笑が段々と遠ざかり、鼻から入り込む香りだけに、感覚が研ぎ澄まされる。香り深いこの喫茶店は、歩道橋を降りて少し進んだ街角に、静かに佇んでいた。「Re:」とだけ書かれた看板、煉瓦の積まれた外壁。大きなガラス窓の中からは、洒落た内装が顔を覗かせる。意気揚々と店内へ入っていく佐々木一等に続いて、一歩足を踏み入れたその瞬間。嗅覚以外の感覚が奪われていった。色褪せる視界の中、吊られるようにして彼らに続く。皆があれこれと談笑を続ける中、私はただふやけて、視線を床に漂わせた。

「……いい匂い。」

「いらっしゃいませ。」

店の奥から近づいてくる、控えめな足音と、鈴の音のような澄んだ声。こんな洒落た店で働いているのだから、きっと綺麗な女性店員なのだろう。おもむろに視線を上げる。すると突然、色褪せたセピア色の視界が、花咲くように彩度を取り戻していく。色白の肌に艶のある黒髪、小さな顔の造形は、美しく整っていた。大きな目を縁取る長い睫毛。ふっくらと愛らしく弧を描く薄赤色の唇が、彼女を一層美しく演出していた。



"なんて綺麗な人なんだろう"



心の奥底に眠る感情が、扉の帳に手をかけた。私はその時、佐々木一等へと視線を向けてしまったのだ。彼は一直線に彼女を見つめ、何かを奪われたようにその瞳を揺らしていた。他のものなど見えていない。行き過ぎた没頭っぷりを前に、私はなす術もなくまた視線を下へ逸らした。

「席…こちらへどうぞ。」

「あっ、ハイ……あ、コーヒーを4つ。」

佐々木一等の声が、ほんの僅かに震えていた。ぞろぞろと店内を進み、ウィンテージ感のある木製の椅子に腰掛ける。その間、平静を保とうと口を開くも、言葉が出てこない。煮え切らない黒い感情は、まるで水の中に落ちた一滴の墨汁のようだった。消えることはないけれど、だんだんと薄れていく。私は細く深呼吸をした。決して安堵ではない。何故か急に、嫌な予感が迫り上がってきたのだ。美しい店員の顔を思い起こすたび、記憶の中の何かが顔を出す。懐かしいような、何かが。


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寝耳にミサイル