#10
散々な一日だった。だから今日は特別に、友達にプレゼントしてもらったバスボムを浴槽に入れた。ほんのりとしたレモンとラムネの甘酸っぱい香りに癒され、ほっとひと息。ついたのに、風呂から上がってリビングに向かうと、ソファの背もたれからひょっこり金髪頭が見えて青ざめる。なんでまだいるんだ。さっさと寝てほしいのに。私は盛大にため息をついた。後ろから近づいてみると、どうやら漫画を読んでいるらしい。
「なんでまだ起きてんの。」
呆れて声をかけると、よっぽど漫画に集中していたのか、びくっと肩を揺らして黄瀬が振り返る。そして視界に私をおさめると、ぎょっと目を見開いて固まった。
「お、かえり……。」
しまった、と私は後ずさりしそうになったがもう遅い。ついいつも通り、シャンパン色のサテン生地のネグリジェを着てしまったことを後悔した。ロング丈だからいいものの、肩はキャミソールになっていて、露出が多すぎる。上下で洗濯をするのが面倒だからワンピース型のネグリジェがお気に入りで、何着か持ち合わせてローテーションしているのだけれど、ここはジャージかなんかを引っ張りだしてくるべきだった。
「早く寝なよ。」
気まずい雰囲気を押し流すように早口で言うと、黄瀬は視線を床の方に逸らす。
「いや、なんかこれ読み始めたら眠れなくて……。」
「それ持って行っていいから。和室にどうぞ。」
「はーい……。」
ゆるめの黒のスウェットの裾を引きずりながら、黄瀬は大人しく退散していく。私はほっと胸を撫で下ろした。これでもうゆっくりと眠れる。はぁ、とため息をついてから、私は歯を磨こうと洗面所に向かう。鏡を見ると案の定、少し隈のあるやつれた女が映っていた。最近ますます疲れがたまって、肌がくすんできたような気がする。ミントの歯磨き粉を絞り出し、そんな自分と睨めっこしながら無心で手を動かした。
「俺もいいスか?」
「……っ!!!!」
突然に後ろから顔を出した黄瀬に驚いて、私は飛び上がりそうになる。いい加減にしてほしい。まったくこいつは、どんだけ私を疲れさせれば気がすむんだ。私より頭2つ分くらい背の高い黄瀬が背後に立つ様子が、鏡越しに見える。手には歯ブラシを持って、にこりと笑っている。
「〜〜〜!(驚かさないでよ!)」
思わず喋ろうとしたが、歯磨き中だった。もごもご言う私に、黄瀬が首を傾げる。
「いちいち聞くな……?スかね?ありがと。」
「〜〜〜!(ちげえよ!)」
もういやだ。さっさと歯を磨いてしまおう。少し横にずれてやると、黄瀬が後ろからずいと手を伸ばして蛇口を捻り、歯ブラシを濡らした。そして自前の歯磨き粉をつけて私のすぐ後ろで歯を磨き出す。鏡に映るのは、黙って歯を磨くくたびれた女子高生と、ピカピカの男子高生。シュールだ。身長と体格差で、小人と巨人みたいにも見えてくる。何やってんだか。
「うっ!」
あ、まずい。もうそろそろいいかと蛇口をひねろうとした時、すぐ後ろに黄瀬がいるのを忘れて無意識に腹に肘鉄を食らわせてしまった。きっと疲れていたからだ。呻く黄瀬に慌てて振り返る。
「〜〜!(ごめん!)」
今のごめんは多分伝わっただろう。わざとじゃないのはわかりきっている。それなのに、急に黄瀬が左脚を曲げて膝かっくんしてきたので、私は慌てて洗面台に手をつく。
「〜〜〜〜〜っ!(ちょっと何やってんの!)」
「〜〜〜〜!(仕返しっス!)」
ムカついて右足で黄瀬の左のすねを軽く蹴ると、今度は左手で髪の毛を引っ張られた。地味に痛い。こんなの相手にする方が馬鹿だと思ったのに、鏡に映ったドヤ顔に腹が立って、私はやり返そうと左手を黄瀬の髪に伸ばす。しかし、巨人並みに背が高い彼の頭に私の手が届くはずがなかった。間抜けに背伸びをする私の姿に、黄瀬が口を押さえながら肩を揺らして笑っている。ああムカつく。私は諦めて洗面台に向き直り、荒々しく口をゆすいだ。
「あんたは小学生か!」
開口一番にそう言って、私は黄瀬を睨みつけた。そんなのには動じず、黄瀬は笑いながら口をゆすぐ。
「っふ、はっ……!最初にやったのは野瀬さんっスよ……!」
「わざとじゃないでしょ!」
まったく黄瀬は、見た目にそぐわず子供みたいなことをする。やっていることが妹とそう変わらない。はぁ、とため息をつき、さっさと洗面所を退散しようとしたが、不意に腕を掴まれる。
「野瀬さん、」
「……なに。」
いきなり黄瀬が真剣な顔になるので、私は少し後ずさる。じっと顔を見下ろされ、数秒間沈黙が続く。
「……ついてる。口に歯磨き粉。」
うわ。なにかと思えば。急いでゆすいだせいだ。黄瀬が右手で自分の唇の端を指差した。その辺についているらしい。左手で唇の端をぐっと擦ると、黄瀬にその腕を掴まれてしまう。あ、逆だったのか。今度は右手を唇に伸ばそうとした時、それより先に黄瀬の左手がのびてきて、口端をぐっと拭われる。そして次の瞬間、すばやく黄瀬が身を屈めて、ほんの一瞬の隙に顔が目の前まで降りてくる。え、と声を出す暇もなく、黄瀬の唇が私の唇に触れた。
「んっ、……」
頬にするような短いキスで、軽快なリップ音の後、すぐに黄瀬が顔を離した。なんだこれ。私は目を見開いたまま固まった。見上げると、黄瀬が私の顔色を伺うように、焦った顔を浮かべていた。
「なにしてんの。」
「なにって……キス。」
「なんで。」
「つい、なんとなく……クセで……?」
「…………は?」
クセ?途端に、自分の眉間に皺が寄るのがわかった。意味がわからない。そしてふっとよぎった、昔の記憶。ドアの隙間から盗み見た母親の泣き顔と、それを見て嘲笑う若い男の姿。なんでこんな時に。気持ちが悪い。突然、もやもやとした胸焼けみたいな気持ちの悪い感覚が湧いてくる。なんだこれ。とにかく不快だ。吐き気がする。
「好きでもない男にされても気持ち悪いだけなんだけど。」
「……ごめん。」
悪びれた様子で頭を掻く黄瀬を前に、ふつふつと沸く怒りと、なんだかよくわからないドロドロした感情が、抑えられそうにもない。自分の中で、何かがぷつんと切れるのを感じた。
「自分がイケメンでモデルやっててバスケが上手くて環境にも恵まれてるからって自分勝手に何でもしていいと思ってんの?」
「ごめんって……。」
口が勝手に動く。黄瀬が申し訳なさそうに謝るのに、私は止まらない。
「全世界の女はあんたにキスされて喜ぶって?」
「だから、」
「彼女いるクセによく知りもしない女の家泊まって気の向くままキスしてそれで満足?」
「だから謝ってんじゃないスか!!」
黄瀬が声を荒げた。怒鳴るような声を聞いたのは初めてだ。けれど私は、そんなのに動じてもいられないくらい、苛々と吐きそうなくらいの不快感で気が狂いそうだった。
私は馬鹿だ。あっさりと折れて泊めてしまったのも、こんな服を着てしまったのも、本当に馬鹿だ。泊まるだなんて、なにがなんでも断るべきだった。所詮私は黄瀬にとってその辺にいる都合の良い、押せば何でも言うことを聞く馬鹿女だ。そして黄瀬は、こうやって気まぐれに人を弄んで、平気で振り回す奴なんだ。
途端、目頭が熱くなって、今まで抱えこんできた日常の不安や悩みまで引き連れて、膨れ上がった風船みたいな黒い感情が、ぱん、と心の中で破裂した。
「あんたがヤリ目男だろうが浮気野郎だろうがどうでもいいけど、私はあんたの気まぐれに振り回されるのはごめんなの!!」
吐き捨てるようにそう言って、洗面所を飛び出して寝室に向かって走った。なぜかじわりと目に涙が滲むので、私は歯を食いしばった。すると後ろから追いかける足音がして、またもや腕が掴まれる。
「ちがう!」
そう叫んで黄瀬が振り向かせようとするので、顔を見せまいと必死に反らした。そして掴まれた腕を力一杯振りほどく。しかし、また反対の手で掴まれてしまう。もうどうでもいい。顔を上げて黄瀬を睨んだ。目があった途端、私の顔を見て黄瀬がはっと驚いて静止する。
「もうあんたと関わりたくない。疲れる。合わないんだよ。わかるでしょ……。」
疲れ切った、消え入りそうな声でそう言うと、黄瀬は何も言わずにするりと腕を放した。私はそのまま、ふらふらと寝室に向かう。明かりのついていない暗い部屋の中で、「お姉ちゃんどうしたの?」と妹のベッドから小さな声がする。けれど私は自分のベッドに力なく横たえてから、一ミリも動ける気がしなかった。心も身体も疲れきって、まるで濡れたボロ雑巾のようだ。私は感情に蓋をするかのように、布団に顔を押しつけた。
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寝耳にミサイル