#09



まさかこんな事態になるとは思わなかった。姉に家を追い出され、唯一心の許せる友達の家に転がりこんだものの急に彼女が来るからとまた追い出された。行き場を失った俺がたまたま入ったコンビニいたのは、野瀬だった。こうも出くわす機会が多いと、もはや運命的なものを感じてしまう。野瀬はあまり俺のことをよく思っていない。だからこそ、彼女の家なら割り切ってぐっすり眠れる気がした。かなり迷惑そうにしていたけれど、藁をもすがる思いで頼み込み、若干脅しの小手を入れると野瀬は折れた。こうしてなんとか寝る場所を確保したわけだが、隣にいる野瀬はあからさまに嫌そうな顔をしている。

「うち、仕事で家に親いないから。」

「……へぇ、そうなんスか。」

外灯が頼りの人通りの少ない道を左に横切った時、ぼそり、と野瀬が呟いた。実は知ってる。彼女が母子家庭で親が家にいないことも、小学生の妹がいることも、バイトをしてたってことも。でも笠松先輩に教えてもらった、なんて言ったら野瀬から先輩に伝わって怒られそうだから、やめておく。

「妹はいるけどね。」

「妹っスか〜。いくつ?」

「小1。」

「えっ、だいぶ年離れてるっスね…!」

「まあ、半分しか血繋がってないから。」

「へ?」

「腹違い……じゃなくて、タネ違い…?」

「な、るほど……。」

衝撃の発言に、俺は間抜けな声を出してしまった。なんて重い話だ。掘り下げていいのかもわからず、無難な相槌を打つことしかできない。当の本人はというと、どうってことのない、無表情だった。

「そこのマンションの4階。」

ふと立ち止まって、彼女は目の前のマンションを指差して、こっちに振り向く。7階建てくらいの、高級というわけでもなく、かといって古びてもいない、普通のマンションだ。入り口はオートロックではなく簡易的な硝子扉で、大人4、5人がやっと入れるくらいの小さなエレベーターがある。家族世帯向けというよりは、同棲とか、老後の夫婦向けな住まいな気がする。

「バイト先からめちゃ近いっスね。」

エレベーターの中、沈黙も気まずいので何気なく話しかけると、はぁ、と野瀬はため息をついた。

「……二度と来ないでね。」

「ハーイ……。」

彼女が不意に、口を覆いながら一つ欠伸をする。目はしょぼしょぼしていて、とても眠そうだ。自分も部活でかなり疲れているが、野瀬の方がよっぽど疲れているように見える。今更ながら、押しかけたことを申し訳なく感じた。それに、いつもは誰かの家に泊まるのに緊張なんかしないのに、今はなんだかそわそわする。

「ただいまー。」

部屋は角部屋らしく、猫のストラップのついた鍵を回すと、彼女は意外にもちゃんと挨拶をした。

「おじゃましまーす。」

少しドキドキしながらそう言って、彼女の後ろから玄関に足を踏み入れる。ふわり、と何かのフルーツの良い香りがした。作り物の消臭剤とは少し違う、自然な香りだ。小さめの玄関に、女性物の靴が3つと小さな靴が2つ、綺麗に並んでいる。しかしその横にもう一つ小さな靴が、走ったまま脱いだように散乱していた。彼女はそれを見るなりため息をついて、その靴を綺麗に並べた。すると突然、バタバタとフローリングを蹴る騒がしい音が聞こえてくる。

「なに!お姉ちゃんその人だれ!」

廊下から大声をあげて飛び出してきたのは、まだ背の小さい、パジャマ姿の女の子だった。野瀬の妹というから、大人しくて無愛想な、子供のくせに達観しているような子かと思いきや、子供らしい活発な子だ。

「お帰りは?」

「お帰りなさい!カレシ!?」

「図々しいただの知り合い。」

「ちょっと……。」

興味深々といった様子で、野瀬にしがみついたその子は、ひょこりと後ろにいる俺に顔だけ見せて、まじまじとこちらを見つめている。髪は野瀬よりも長く肩下まであり、ボリュームのある前髪はちょうど眉上あたりで切られている。濃くて長いまつ毛に、下がり気味の目尻が少し垂れ目に見せて、鼻は低めで丸顔、肌は小麦色に焼けている。親しみやすい、可愛げのある顔だ。しかし、どう見ても目の前の野瀬とこの子は、似ていない。髪型のせいもあるだろう。それにしても、顔のパーツも肌の色味も、全然違うように思えた。

「黄瀬涼太っていうんス、よろしくね、えっと……何ちゃん?」

「ななみ。」

少し恥ずかしそうにしながら、ぼそり、と名前を教えてくれた。野瀬より100倍、可愛らしさがある。

「ななみちゃん、よろしくね。ちょっと今日一日泊めてもらうことになったから。」

「なんで?」

「ななみ、10時には寝なって言ってんでしょ。さっさと寝な。」

面倒臭そうに、野瀬がななみちゃんの背中を押して、前へ前へと押しやっていく。

「なんで泊まるのー?」

「いいから。この人はいないと思いなさい。おやすみ。」

最後にぴしゃりと言い切った彼女は、廊下の右手にある部屋に妹を押し込め、バタンと扉を閉めた。ドアの奥から「なんでー?」とまだ声がするが、無視して野瀬は廊下を進んでいく。

「なんかほんとごめんっス。いきなりで…。」

「ほんとにね。」

廊下を出ると、そこには9畳くらいのリビングダイニングがあった。驚いたのが、家具や小物が北欧風のナチュラルな物に綺麗に纏められていたこと。ダイニングの照明なんかも、花弁のような凝ったデザインをしていて、淡いオレンジ色の光が洒落たカフェのような雰囲気を作り出している。うるさすぎない生活感とうまくマッチしていて、センスが良い。こう言ってしまってはかなり失礼だが、自分のイメージする"母子家庭でバイトに明け暮れる無愛想な女子高生の家"とは違うものだった。素直に一言で言えば、おしゃれだ。

「和室そこ。布団は押し入れにあるから使って。風呂場とトイレあっち。タオルとか好きに使って。朝には出てって。じゃ。」

「え、ちょっと!」

おしゃれっスね、と褒める暇もなく、彼女は早口でそう言うと、さっさと妹を押し込んだ部屋へと行ってしまう。バタンという突き放されたような音が廊下に響くのを聞いた後、俺は行き場を失った手をぱたりと下ろした。野瀬らしいといえば野瀬らしいが、本当にただ部屋を貸すだけの放置とは。とりあえず、野瀬は部屋へ行ってしまったし、風呂でも借りるか、と鞄を床に降ろした。幸い着替えと歯ブラシだけは持ってきている。タオルとシャンプー類だけ借りよう。

野瀬は結構几帳面な方なのかもしれない。部屋は全体的に綺麗に片付いているし、何より物が少ない。必要最低限のものしか置かず、その一つ一つにこだわりを持っているように思えた。風呂場も綺麗に整頓されている。急に人を呼んでこれなのだから、普段もまめに綺麗にしているんだな、と思った。うちの姉にも見習ってほしいくらいだ。あの人たちはいつも俺に掃除だのなんだの押し付けてくる。

「うわ、」

ふと足元に当たったのは、洒落たステンレスの丸い筒のような置物。かと思いきや、中に脱いだ後の下着が入っているのを見て固まった。洗濯カゴの役目を果たしてるらしいそれからそっと視線を逸らす。女物の下着なんていくらでも見てきたし剥ぎ取ってきたのに、野瀬のものだと認識した瞬間、なぜが見てはいけないもののような気がして罪悪感を感じた。でも淡いグリーンにピンクのレースの入った花柄のものは、しっかりと目に焼き付いてしまった。

さっさと風呂を済ませて寝てしまおう。あまりその辺をまじまじとみると良からなぬ想像をしてしまいそうなので、きびきびと動いた。けれど浴室に足を踏み入れた瞬間に香った微かな薔薇のような匂いに誘われて、もわもわと頭の中に妄想が浮かぶ。ここでシャワーを浴びる、野瀬の姿。そして案の定、一気に下半身に熱が集まるのを感じた。うわ。自分としたことが、こんなところで……。はぁ、とため息をついて顔を覆った。心の中で野瀬に謝りながら、そっとシャワーの蛇口をひねった。


「……あれ?」

風呂から出ると、ふとリビングのソファに誰かがいるのに気づく。そっと覗き込むと、そこには着替えもせずに横たわる野瀬がいて、微かに寝息を立てていた。

「……寝てる。」

もしかして、次に風呂に入ろうと待っていたのかもれない。だとしたら申し訳ない。あまりに疲れているのか、死んだように微動だにせず眠っている。

「野瀬サン、そこで寝たら風邪ひくっスよ。」

そう言ってポンポンと肩を叩くと、うーん、と彼女は身じろぎした。それでも起きないのでもう一度肩を叩くと、眉をひそめながら気だるそうに薄眼を開けた。

「……うるさい。」

怪訝な顔でそう呟くと、顔を腕で覆ってシャットアウトしようとしてくる。

「ほら、風呂も入った方がいいし。」

「んー……。」

今度は起き上がらせるように腕を掴んで持ち上げると、不機嫌な唸り声をあげた。なんだかそのへんの野良猫みたいだ。

「ほらほら。起きる。」

無理やり上半身を持ち上げられ、ついに観念したように野瀬は目を擦りながら起きた。そして掴んでいた手が乱雑に払われる。

「さわんないで。」

「……理不尽な。」

寝起きが低血圧で不機嫌になるタイプか。そういえば前にそんな友達がいたなぁと思い出して苦笑した。野瀬はゆっくり立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで風呂場へ歩いていく。その背中を見送っていると、不意に彼女がこちらに振り向いた。

「黄瀬。」

「ん?」

「おやすみ。」

「…………おやすみっス。」

なぜかわからないが、挨拶はしっかりするタイプ、らしい。拍子抜けして気の抜けた挨拶をする俺にひらひらと手を振って、野瀬はリビングを去っていった。

「…………さて、」

練習終わりで疲れているし、明日も朝練がある。早く寝なくては。そう思っていたのに、なんだかすっかり目が覚めてしまったことに気づく。

鼻を掠めるのはほんのりと香るグレープフルーツとハーブの匂い。ふと辺りをみると、リビングのローテーブルにはアロマキャンドルと、女性ファッション誌が2冊、外国人が表紙の洒落た雑誌が1冊。どうやら彼女は、20代向けのカジュアルで少し個性的なファッションが好みらしい。きっと服のセンスも良いんだろう。見れば見るほど、知らない彼女の部分が垣間見れる気がして、俺はいけないとわかっていながらもうろうろとその辺を歩き回る。

木製のヴィンテージ風のダイニングテーブルの上には、姉妹の写真の入ったアルミフレームの写真立てが置いてある。その横には木製の大きめなプレート。横にラップが張り付いていて、レタスだけ残されているのを見るに、姉が作り置きした夕飯を、妹が一人で食べたのだろう。そう言えば野瀬は夕飯を食べたのだろうか。途端に耳にシャワーの音が聞こえ出す。今、髪とか洗ってんのかな。

「あー……。」

俺はさっきまで野瀬が寝ていたソファにぼすんと座り込んだ。悶々と色んな事を考えているうちに、すっかり眠気が覚めてしまった。やっぱり野瀬の家にお邪魔したのは失敗だったかもしれない。ふと、足元に漫画が一冊落ちているのに気づく。彼女が寝てしまう前に読んでいたのだろう。拾い上げてみると、ちょうど自分も集めている漫画の最新刊だった。漫画でも読んでいれば、だんだん眠くなるはずだ。俺はふぅと一息ため息をついてソファに深く腰掛け直し、ゆっくりとページをめくった。



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寝耳にミサイル