#03
梅雨が近付き、久しぶりの雨におろしたての傘の出番がきた。珍しく今朝は余裕を持って家を出た。急ぐこともなく、お気に入りの曲を聴きながら湿ったコンクリートを歩く。
あれからというもの、黄瀬は私に話しかけるのをやめたらしい。すれ違っても、挨拶どころか目もくれない。それでよかったはずなのに、数日間私はモヤモヤとしていた。
「おいあすみ。ボケっとしてるとすっ転ぶぞ」
ふと肩を叩かれて振り向くと、幸男が立っていた。私はすぐにイヤフォンを耳から引ん抜く。幸男とは家が近いが、バスケの朝練があるため登校時に出くわすことは滅多にない。どうやら今日は練習が無いらしい。
「おはよ、ゆきちゃん」
「その呼び方はヤメろ」
「ゆっきー」
「なんだそりゃ。つーか俺一応、お前の先輩な」
「いいじゃん。幼馴染みでしょ」
幸男が深いため息をつく。でも今更敬語を使うなんて、気持ち悪い。
小さい頃から、私は幸男をゆきちゃんと呼んで慕っていた。今ではこう呼ぶと少し照れて怒るから面白い。幸男は女の子が苦手で、普段は女子とあまり話さない。よく話すのは多分、私くらいだ。
「ななみは?送ってきたのか?」
「もう二年生だから、友達と行きたいんだって」
ななみとは、今年で小学二年生になった私の妹だ。去年までは幼稚園、小学校と妹の送り迎えをしていたが、今年からは本人曰く、友達と登下校したいらしい。
わけあって母子家庭の私の家は、少し荒れている。母は出稼ぎをし、たまに金を持って家を訪れ、そしてまたすぐに消える。私が中学生になった頃から繰り返されているそれは未だに変わらず。つまり基本的には私と妹の二人暮らしなのだ。
幸男が何かと心配して顔を見に来てくれるのは、彼の母親が私の母親と友人だからだ。きっと私たちの様子を見に行くよう、言われているのだろう。
「なんだか最近ませてきてさ。化粧教えてーなんて、言ってくんの」
「は、最近の小学生はこえーな」
「そのうち彼氏ができた、なんて言いそう」
私の小さめな歩幅に合わせて、幸男が隣を歩く。二人で登校するのは久しぶりだ。年が二つ離れているから、中学でも高校でも、一緒になる在学期間は一年だけ。去年までは私なんて中学生だった。それでも私たちを心配した幸男の母親の計らいにより、よく彼の家に行っては夕飯をご馳走になっていた。高校の手続きだって幸男の母親に手伝ってもらった。
「お前、やっぱバイト増やすのか?」
「うん。ちょっと欲しいものあって。ななみも最近あれが欲しいこれが欲しいってうるさいし。」
「身体壊さねぇようにな。」
「うん。ありがと。」
母は仕事で忙しいのもあって連絡をあまりしてこない。たまに家に帰ってきても、申し訳ないと謝るばかりで、もう久しくこれといった親子の会話もしていない。少しでも負担が軽くなるようにと、バイトをしてなるべく生活費を賄うことにしている。
「なんだったら、お前がバイトしてる間ななみ預かってもいいって。母さんが」
「ほんと?でも迷惑じゃない?」
「んなことねぇよ。何曜がいいとかあったら俺に伝えろよ」
「うん、ありがと」
幸男は相変わらず頼りになるし、優しい。昔からバスケ少年だった彼は、今や雑誌に載る程バスケが上手くなった。それにチームを率いるキャプテンだ。背はあっという間に高くなって、声は低くなって、顔は大人びた。なんだか昔より遠くなった気がする。こんなに近くにいるのに、やっぱり昔とは違う。
「あのさ」
「…うん?」
「お前、黄瀬と仲いいのか?」
「はぁ?」
唐突に幸男の口から黄瀬の名が出てきて、私は驚いて声が上ずった。なんでそんなことを聞くんだ。黄瀬となんて、ちょっと話したことくらいしかない。
「黄瀬がこの前、お前のこと聞いてきたからよ。何年生の何組だとか、何部なのかーとか、色々」
罰の悪そうに幸男が言った。なんだそうか。教えてもいないのに黄瀬が私の学年とクラスを知っていたのは、そういうことか。
「なんだ、幸男が教えたんだ」
「あまりにしつけーからよ。学年とクラスしか教えてねぇけどな」
「そう。良かった」
「良かったって、お前…。黄瀬になんかされたのか?」
そう聞かれて、あの時の黄瀬の冷めた目つきを思い出す。失望したみたいな、あの顔。
「ううん。でも別に仲良くしたくない。ファンとかいるし、関わるの面倒臭い」
「お前らしーな。つーか、ああいうタイプ好きじゃねぇもんな」
「うん。苦手」
私は黄瀬みたいな、ノリの良いチャラついた男は苦手だ。異性の友達や彼氏は、幸男みたいな硬派でキリッとしたタイプがいい。そう、幸男みたいな。
「でさ、どうなの幸男は」
「あ?なにが。」
「例のマネージャーの子とは、話したりできたの?」
急に幸男が顔を真っ赤にして、そっぽを向く。出た、その反応。幸男は恋愛の話を滅多にしないのだが、この前私が半ば無理やり問い詰めた。彼はバスケ部2年のマネージャーの子が気になっているらしい。マネージャーは数人いるし、名前までは教えてくれないから誰かは知らない。でもきっと背が小さめで、アイドルみたいな可愛らしい子なんだろう。幸男はそういうのが好きだから。
「お前な!その話はもうすんなっつったろ!」
「いいじゃん。幸男、顔真っ赤になってて面白いよ」
「うるせぇよ…!お前、誰かに言ったりしてねーだろうな。」
「言ってないよ。秘密は守ります」
顔を真っ赤にして必死になっている幸男を見て、にやにやしながらも内心は面白くない。私にはそんな反応しないくせに。
「で?」
「で、ってお前…別に何もねぇよ。バスケで手一杯だし」
「ふーん」
「…それに多分あいつ、黄瀬が好きなんだと思う」
幸男の言葉に、私は驚いて足を止めた。なんだそれ。幸男を見る。なんだよ、と気まずそうに、振り向いた幸男がぼそりと呟く。
「なんでわかるの?」
「黄瀬が入学した今年からバスケ部に入って来たんだよ、そいつ。今年から入った二年の女は、全員黄瀬目当てだろーよ」
「そうとも限らないでしょ」
「あ?去年は一人も二年の女子なんて入部しなかったんだぞ。マネージャー自体、黄瀬が来るまでは3人しかいなかったのによ」
「あ…そうなの」
さすがにもう何も言えなかった。確かに、一度バスケ部を見学した時には、随分マネージャーが多いなと思った。うーんと呟きながら、私は再び歩き出す。
「黄瀬はどうなの?その子のこと、好きそう?」
「それはねーと思うけど。つーか、あいつ彼女いるしな」
「へ…へぇ。さすが」
私は一瞬言葉を詰まらせてしまい、咽せこみそうになった。なんだ、彼女いるんだ。さすがはモデル。きっとスタイル抜群な美女だ。
"友達になりたかっただけッスよ"私はまた黄瀬の言葉を思い出す。随分と息苦しそうだったから、彼はただ、気の許せる友人が欲しかったのだろう。そう思うと、あの時は何だか申し訳なかったような気がする。
「黄瀬に彼女がいるならさ、そのマネージャーの子、諦めるかもよ」
「あのな、俺は今は別に付き合うとかそういうのはいいんだよ。バスケがあんだから」
「ストイックだね〜ゆきちゃん!」
「おい馬鹿にしてんだろ。」
「してないしてない!褒めてんの」
私はこういう、幸男の硬派で聡明なところが好きだ。本当に褒めたつもりなのに、幸男はむすっと拗ねて黙ってしまう。
「幸男って、いっつもそう」
「…は?」
「なんでもない」
「なんだよ」
「なんでもなーい」
「ああそうかよ」
校門まであと数メートルだった。なんだか口が重くて開かないので、私は押し黙った。幸男も特に何も喋らない。
お互い沈黙に気まずさを感じる仲ではない。それなのに、今まで耳に聞こえてこなかった傘に降りかかる雨音が急に聞こえ出したのに、私は焦った。それでも言葉は見つからず、結局口を閉ざす。ふと足元を見ると、ローファーの中に雨水が入り込んでいた。ついてないなぁ。冷たい。
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寝耳にミサイル