焦がれる。
―――――…

目が覚めたら真っ暗闇で、私は冷たい床に転がっていた。
次に刺激されるのは嗅覚で、むせ返るような生臭さに身体を起こして眉を潜める。


「―――ッ――ッ!」

低い男の声がした。
知らない言葉。

耳慣れない言葉は日本語でも…ましてや英語というわけでもない。どこの国の言葉だろうと、頭の隅で考えこむ。

それから再びその低い声が聴こえるのと同時に光が周辺に差し込んだ。その眩しさから私は咄嗟に自身の両腕で顔を覆った。

それと同時に起こった笑い声と、私の顎を掴む誰かの……ゴツゴツした指の感触。次いでグイッと勢いまかせで上げられた顔に、なすすべもなくその人と顔を合わせることになった。


「――――ッ!」


酷く痩せた外人の男。赤毛に黒淵眼鏡に白衣を着たその男は…はっきり言って子供が見れば一発で泣き出すような……よくあるホラー映画のゾンビ役が似合いそうな容姿をしていた。


――――バチン

私が男をジロジロと不躾に観察していると左頬に鋭い衝撃が走る。そして、一拍遅れてやってきた鈍い痛みと口内のヌルリとした感触…そして懐かしい鉄の味に自分がこの男に殴られたことを知った。

意味が分からなかった。

なぜ、私が見ず知らずの男に殴られなければならないのだろう。


それを考える暇もなく、引きずられていく身体。擦り切れていく服と剥き出しの肌に冷たい何かが当たったような気がして、自身に当たった"ソレ"を見下ろした。


『………ッ』


けれど、ソレを見た瞬間に沸き起こる吐き気と後悔に思わずすぐに目を逸らす。
見下ろした先は、もはや原型を留めていないほどに切り刻まれた"ヒト"の成れの果てがあったのだから。
大小様々なソレは血まみれで…腕や足はもはや誰のもの?と疑問に思えるくらい散らばっていて…それを見てからようやく私の身体は"恐怖"という感情を受け入れ始めていた。





ズルズルと引きずられながらも私はとにかく冷静でいることに努めた。

ここで抵抗するのは賢くない。私自身、回復という特殊能力はあるもののその他は只の大学生だ。武器も何もない状態で…いくら痩せているとはいえ…大人の男に敵うはずはないのだから。

どういういきさつで、こうなったかは分からないけれど、今ここで考えることを止めれば…助かる道はない。何でも良い。何か、逃げ延びる方法を見つけなければ……とにかく怯えている暇なんてない、と震える身体を必死で落ち着かせていた。


「――――――…」

「――――――…」


私を未だに引きずっている白衣の男が別の外人白衣の男と会話をしている。
何語かすら分からない言葉であるため、話しの内容の理解なんてできないけれど…単語だけでも想定できるかもしれない。とにかく少しでも良いからこの訳の分からない現状を把握したかった。


葬送曲のように流れる彼らの会話を根気強く聴いていくにつれて…耳が慣れてきたのだろうか、それとも集中力が功をきしたのか…彼らの会話から"イタリア"、"ボス"という言葉を聞き取ることができた。


そこから考えると、彼らが話している言語はイタリア語ということで良いのだろうか。それに、ボス…なんて物騒な言葉も聞き取れたけれど、それは気のせいだろうか。と、いうより気のせいであって欲しいとは思う。



けれど、先程のあの死体を間近に見せつけられてしまえばその願望も無惨に打ち砕かれる。より現実味が増して一生懸命抑えていた震えがまたじわりじわりと蘇ってきていることに自分が情けなくなった。




――――――…


バシャリと冷たい水を顔から身体まで一気に浴びせられた私は、そのまま何もない…本当に何もない空っぽの寒々とした部屋に閉じ込められてしまった。

脱出できそうな所をすぐに探してみたけれど、見つからない。ガチャリと外から鍵がかけられる前に、白衣の男が何やら耳元で呟いたような気がしたけれど、生憎全然理解することができなかった。


『――――ッ。』


手足の切り傷が酷く染みる。先程殴られた頬は熱を持っているかのように腫れてしまっていた。挙げ句、引きずられてボロボロの服は水に濡れて肌に張り付き気持ち悪さを覚える。気分は最悪だった。

……どうしてこんな目に合わなければならないの?そんな理不尽さに腹が立つも、それをどこにぶつければ良いのかすら分からない私は、ただその場に座り込むことしかできなかった。


『……お家に帰りたい。っツッくん....』


大空のような広い心を持つ君の姿が恋しい。最近は特に忙しいのか全然会うことができず、何度もそう思うことはあったけれど、ここまで切実に思ったのは初めてだった。


『お兄ちゃん....花.......』


家に帰れば大好きな家族や友達、そして温かい食事に、落ち着く自室の空間がある、それから――――


そこまで考えた時に、頭上でゴーッという音が聴こえてきた。
何だろうと思い天井を見上げると、そこには小さな通風孔のようなものがあって、そこから音が聞こえてきていることに気づく。

恐らく空調か何かだろう、と真下に立って見上げていると、突然冷気がドッと吹きおろしてきて慌てて飛びのいた。


びっしょり濡れた身体ではこの冷気はひどく堪えるため、部屋の隅へと後退した。足元まですでに冷気が忍び寄ってきていることに気づいて、ゴクリと唾を飲み込む。白衣の男達の目的は分からないけれど、これ以上部屋を冷やされ続ければ凍え死ぬかもしれない。


どうしよう…、額に手を当てながらとにかく考えた。逃げ場がない。鍵もかかっている。部屋の温度は少しずつ、しかし確実に下がってきていた。


能力を使ってしまおうか。
そう思ったのは一瞬で、即座にその考えを取り消した。彼らの狙いが分からない今、下手に自身の能力を晒すのは得策とは言えないと思ったからだ。



――――――――…


考えた結果、もう何百回と部屋の壁に沿ってぐるぐると走り回っていた。何キロ走ったのだろう、そう思えるくらい長く走り続けている。ハァハァと喘ぐ声は、ゴォーっと騒音だつ冷房の音に消されてしまっていた。


『……寒い。』


動いているはずなのに、身体は冷え切っていた。当然だ。服は依然としてびっしょりと濡れたままであるため…冷房が効いているこの部屋では、それは凶器にしかなりえないものなのだから。


仕方ない。抵抗はかなりあるものの、このまま身体を冷やし続けるのは良くない。身に纏っている衣服を下着以外全て脱ぎ捨てると、少し軽くなった身体で再び走り出した。


息をする度に鼻と喉がヒリヒリと痛くて痛くて仕方がない。けれど、動きを止めたら死んでしまう。機械的に手足を動かしている自分に鞭打ちながらも走り続けていた。
こんなことで死んでられない…そう自分に言い聞かせていなければ、とっくに生きることを諦め、眠り込み死んでしまっていたかもしれない。

『―――いッ!』


声を上げて床に転んだ。足がつったのだ。キュッと左足のふくらはぎが固くひきつっていた。


『……はやく…たたない…と…』


つった筋肉に触ってみると、まるで先程の死体のように冷たい。

そう考えたら、先程の血まみれの光景が脳裏を過ぎって思わずゾクリと背筋が粟立った。
その映像を消し去るように首を振り、両手でふくらはぎを懸命に揉んでみたり、痛みをこらえて足首を伸ばしてみたりするものの…いっこうに良くなる気配が見られない。
もうダメかな。と、私は床に座り込み壁にもたれたまま肩で息をしていた。

先程、あんなに走ったせいだろうか。休んでいるこの状態が酷く安楽に感じられる。低いところにいるせいか、冷たさが肌へじわじわと染みこんでくる感じがした。恐らく、もう少し経てば、身体がだるくなって動けなくなり……そのうち寒さも感じなくなって、眠くなるのだろうか。



ここまで良くやったと思う。いきなりこんな訳の分からない現状におかれながらも、一生懸命生き延びようとしたし、できるだけ頑張った。もう、いいよ。もうゆっくり休みたい。


『……暖かく…なった…』


冷房が止まったのだろうか。音はしているみたいだけれど。心地好い。意識が遠のきそうになる。とても眠い……と、そこでハッとした。


―――何で私は弱気になっていたのだろう。夢中で頭を振ると、部屋がはっきりと見えてきた。目がいつの間にか霞んでしまっていたのかもしれない。


左足がつったままだけれど、壁に身体をもたせかけて立ち上がろうとした―――けれど、バランスを崩してしまい、部屋の真ん中まで転がった。冷気が直接上から吹き付けてきて身震いするけれど、かえって一時的に目が覚めたような気がした。はいずりながら、部屋の角まで戻り、角に背中を押し付けるようにして辛うじて立ちあがる。もう一度、ゆっくり部屋を回りだした。


――――その時だった。
ドガンという地響きと共に壁にひびが入り、呆気にとられた私は思わず足を止めた。

それから、壁がガラガラと音を立てて崩れて丁度一人分くらいの穴ができるかできないくらいかの空間が作られる。


その穴を潜るようにこちらへやって来たのは……スーツにマントを羽織った金髪の青年だった。上質なグローブを身につけ、額には明るい炎が燃えている。


彼は私をじっと見つめると、ゆっくりこちらに近寄ってきた。敵か味方かも分からない彼の接近は恐怖以外の何物でもなくて、ズリズリと同じだけ下がろうとするけれど―――ここは元々壁際だったことを思い出す。どうしよう。どうすればいい?


……逃げ場は、彼が入ってきた穴のあいた壁がある。一か八か走りだしてみようか。と思い立つと、走る体制に入るために足元に力を込める。


『−−−あっ!』


けれど、うまく力が入らない足では走ることもままならなくて、フラフラとよろけるように歩いてからバタリと転倒した。


「―――――!」


一方でこちらに向かって来ているであろう青年。何やら話しかけてきているようだけど、生憎私には彼が話している内容が分からない。倒れた状態からどうにか上半身を起こすと、そのまま彼を見つめた。どこか、ツッくんに似ている風貌だなと思う。彼の澄んだオレンジ色の瞳と交じりあった。


彼は、敵だろうか。それでも既に逃げる力が残っていない私は大人しくしているしかない。ツッくんにどこか面影が似ている彼に乱暴をされるくらいならば、もうひと思いに楽にさせて欲しい。震える身体を無理矢理抑えるようにそっと自分の身体を抱いた。
覚悟を、決めよう。



『……はやく…ころ…して…』


けれど、私がそう言ったところで無駄だろうか。どう見たって彼は日本人ではない。私の希望など、どうせ伝わりはしないのだ。


「………ッ」


しかし、彼は目を見開きいてすぐに眉間を潜める。そして、口元を噛み締めると同時、一瞬のうちに私の目の前に移動してきた。
……殺されるんだな、と思った。目をつむってその時を静かに待つ。覚悟はできていた。


フサリと何かが身体に被さったことに不思議に思った私は、恐る恐る目を見開くと肩に彼の上質なマントがかけられていた。……仄かにあたたかいのは彼の体温だろうか。


そのまま彼を見遣ると、思いの外彼は近くにいて―――片膝をついた彼はゆっくりとに近づき………私はそのまま彼の腕の中に包みこまれていた。甘く優しい香りがフワリと漂う。



「……殺せ、だなんて…もう二度と言うな。」



彼の澄んだ声は確かに日本語で、私はその静かな言葉を最後に意識を失った。







――――その温もりや香りは
ずっと恋焦がれていた人に酷く似ている........ふと、そんな気がした。

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