諦める。
―――――――…

目が覚めた時、#仁菜#はふかふかのベッドの中にいた。
そしてフワリと香るのは、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる…微かな甘い匂い。
クンッと#仁菜#は鼻で息を吸った。

『……夏の匂いが全然しない。』

あれ?と不思議に思いながらも上半身を起き上がらせると、身体中に走った痛みに軽く悲鳴を上げてベッドに逆戻りする。
すると、隣から声を押し殺したような笑い声が聞こえて思わず右を向くけれど、それをすぐに後悔することになった……なぜなら、そこには上半身裸の金髪青年が横になっていたのだから。#仁菜#は男性の身体を見て恥ずかしくなり、思わず顔を逸らすけれど、一方で青年はマイペースに#仁菜#の頭を撫でていた。


「Buongiorno.」

『ボン……え?』

「おはよう、という意味だ。身体の具合はどうだ?#仁菜#。」

青年の言葉に目を見開いた。


『……なんで、あたしの名前?』

#仁菜#の言葉を聞いた金髪の青年は眉を潜めたけれど…それは本当に一瞬のことで、すぐにその顔を綻ばせていた。


「………。夢、見ていたのだろう?」

『……夢?』


「そう…。"#仁菜#を一人にしないで"と譫言で言っていた―――だからそれがお前の名前だと俺は思ったんだが……違ったか?」


青年の言葉を理解した#仁菜#は、まさか寝言まで聞かれていたなんて、と僅かに頬を染めた。そもそも母親が死んだのも月城にフラれたのも、もう一ヶ月以上前の話だ。それなのに、今だにこうして夢を見るなんて…我ながらなんと女々しい。#仁菜#は強い子だから…なんて、宣言までしておいて…どこが大丈夫なのだろうかとブツブツ呟く姿は傍から見れば奇妙な女だろう。
けれど、青年はそんな彼女を静かに観察していた。

暫く観察されればさすがに#仁菜#もその視線に気づき口を噤む。
そして落ちついて考える。
この人は誰。そして、ここはどこ。

『……、』


#仁菜#は無意識にベッドの中で後ずさる。けれども青年は、後ずさる彼女を止めようとはしなかった――


「―――危ない。」

『…へ。あ、』


ここはベッドだ。限りある幅を際限なく後ずされば当然床に落ちる。そのことに気づいた青年は若干躊躇うも…#仁菜#の腕を引いて彼女の身体を抱き留めると、どうにかギリギリで落下を防ぐことができた。


「…ハァ。」


青年がホッとしたように息をつく。


その瞬間にハラリと#仁菜#の肩から上掛けが落ちると彼女の身体を覆っていたものがなくなり、一糸纏わぬ女の姿が露となった。


『…………え。あたし、裸?』


「……あ。と、すまない。お前が凍傷になりかかっていたため、人肌で冷えた身体を温めた方が良いと判断したんだ。」


『……人肌…え、誰の…?』


「………。」

『………。え?』

「………俺の、だな。」

『…………。』

「…………。」





―――――――…



あたしは今なら羞恥で死ねる、と本気でそう思った。人肌で温められた、つまり青年―――ジョットと名乗っていた――と肌と肌を合わせたことになるわけで…そんな見ず知らずの男の人に…あたしは現在進行形で頭と背中を撫でられている。そうやって彼はあたしを落ち着かせようとしているけれど、裸で抱き合ったまま…そんなことをされたって、逆効果だとあたしは思う。


「……。俺達の争いに巻き込んですまなかった。」


ジョットから微かな甘い香りがした。


『……争い?』


「……あぁ…怖かっただろう。下手をすれば、お前もあの場で殺されかねなかった。」


そして、少し身体を放されて今現在あたしの視界に映るジョットの真摯なオレンジ色の瞳。それは、あたしの脳裏に蘇った光景―――壁にあいた穴、凍えるような寒さの部屋、血に塗れた骸を思い出させるのに十分なものだった。

"殺される"?

それを聞いて、漸く理解した。
あたしはあそこで殺されかけたのだと。
目をつむれば、視覚以外でも手を取るように隅々まで再現できる。生臭い臭い、叩かれた頬の痛み、寒くて凍えるような風、体力の限界まで走りこんだボロボロの身体。

ゾクリとした。
今更ながら身体がカタカタと震えてくる。
それを直に肌で感じとったのだろうか、彼は先程よりもキツくキツく抱きしめてくる。少し苦しいその抱擁と体温は、あたしに生きているという実感を与えてくれていた。
思わず左目から雫が零れて、それが鼻頭を通って右目に到達する。それが分かったため、あたしは涙を拭おうと腕を伸ばすと…それはジョットの手に絡み取られてしまった。


「…我慢しなくて良い。」


彼の静かで、とても温かな言葉。けれどあたしは、首を横に振って反対の手で涙を拭う。


「―――。」


彼が何かを呟いたけれど、あたしは聞き取ることができなかった。もう一度、と尋ねると、彼の手があたしの頭を撫でる。


「…。強情だな。」


彼は苦笑していた。





「――Primo。」


ノックと共に低い声が聞こえ、ついで扉が開かれる音がした。あたしはビクリと肩を揺らして起き上がると、ジョットもつられて起き上がる。
扉の前に立っていたのは、赤い髪で右頬に刺青を入れている男の人と、狩衣に烏帽子を被った男の人だった。

その二人が呆然とあたしを見ていることに気づいて、あたしは急いで上掛けを引っ張ると肩まで被る。……見た?見られたかな?と恐る恐るジョットを見上げれば、彼はほだらかに笑っていた。
―――何故?


「…紹介しよう。#仁菜#、そっちの刺青が入っている男はG。もう一人の男は雨月、お前と同じ日本人だ。G、雨月、彼女が#仁菜#。#仁菜#はイタリア語が分からないようだから、彼女には日本語で話しかけて欲しい。」


それからジョットの動きは早かった。テキパキと自身の着替えを済ませてパリっとした高級スーツに身を包むと、Gと雨月と呼ばれた人達にイタリア語で指示を与えていた。
Gと呼ばれた人は了解の意を示すとジョットと一緒に部屋を出ていく一方で雨月と呼ばれた人はゆっくりとこちらに向かってきた。


『…え、あの……』


あたしは上掛けで自身の身体が隠されていることを再度確認してから、傍の椅子に座った彼を見つめる。彼は爽やかな優しい微笑みを浮かべてきた。


「プリーモから話しは聞いていた。私は朝利雨月と申すものでござる。雨月と読んで欲しい。」


『あ、あたしは沢田#仁菜#です。プリーモって…』

「あぁ、ジョットのことでござるよ。イタリアでは初代…一番目のことをプリーモと呼ぶのでござる。」

『はあ……。あの…じゃあもう一つ良いですか?』


「ん?」


『雨月さんは、日本人なんですよね?なぜ、そのような格好を?』

「…?私の国では皆このような服装でござるが……。そういえばお主は江戸から参られたのでござるか?」


雨月さんの言葉に驚いたのはあたしだ。江戸って…江戸川区とかそういう意味ではないよね?とすると、ものすごく嫌な予感がしてならないのはあたしだけなのだろうか。あたしは、恐る恐る雨月さんに今の年号を聞いた。


『――嘘でしょ。』


あたしの呟きに雨月さんは首を傾けるばかりだった。
彼が冗談を言っている様子も見られないし、彼の服装や話し方だって特徴的である。
そして追い撃ちをかけるように告げられたあたしの居場所。
あたしは額に手を当てて困り果てた。視界がぼやけ、クラクラと目眩がするのはこの心労によるものだろうか。


「―――#仁菜#、しっかりするでござるっ!」


雨月さんの焦り声が意識の隅で聴こえたような気がした。


本当に信じられなかった。
――――ここが"百年前"のイタリアだ、なんて。



――――…


冷たく心地好いものが額に触れた。あたしの頬にも同じくらい冷たいものが触れて無意識にあたしはそれに擦りよっていたのだけれど、聞いたことのある忍び笑いに……あたしは一気に覚醒した。
ぼやけた先に映るのは、金髪にオレンジ色の瞳。そのシルエットで、あぁ、ジョットなんだなということがすぐに分かった。


「…目が覚めたようだな。」

『…あたし、一…体?』


喉が酷く掠れていた。声を出しただけなのにとても辛い。


「熱が出たんだ。…飲めるか?」


ジョットが水差しを差し出してくれたけれど、あたしはそれを受け取ることができなかった。


「…では、何か食べ物を持ってこよう。何が食べたい?」


何もいらない、食べたくない…とさらに首を横に振り続けるあたしに、ジョットは困り果てていた。

「…しかし、#仁菜#。何かを食べて栄養をつけなければ―――どうした、G。」


「プリーモ、アラウディが呼んでいる。ここは俺が引き受けてやるから、さっさと行け。」


「しかし、」

「…例の調査結果が出たそうだ。」


「―――ッ!分かった。#仁菜#、すまないが俺は少し席をはずす。G、#仁菜#を頼んだぞ。」


「あぁ。」


ジョットの金髪があたしの視界から消える代わりに、赤毛で右頬に刺青のある男が映る。恐らくジョットが座っていたベッドの脇にある椅子に座ったのだろう。
彼は軽く溜息をはくと、あたしを見下ろしてきた。


「……。お前とプリーモの間に何があったかは知らねぇが、俺はお前を信用したわけじゃねぇぜ。お前が妙なマネをすれば、命はないと思え。」


『………。』


静かな警告。その突き刺すような視線に、あたしは眉間に皺を寄せた。


「――が、その前にお前の体調を整えることが先だな。ったく、お前が元気にならねぇと、プリーモの業務に支障がでんだよ。」


とにかく何か食べたいものを言え、と彼に睨みつけられる。けれど、あたしは頑として首を横にふり、口を開こうとしなかった。


『…あ、たしに構わないで。』


……おそらく、あたしの言い分を言った所で外人の彼らには理解できるものでもないだろうし、このカスカスの喉で上手く説明できる自信はあたしには皆無なのだから。


「ハァ。駄々こねやがって―――んで雨月、てめぇプリーモから任された書類整理終わったのかよ。」

「無論、全て片付けた……#仁菜#、熱の具合は如何程でござるか?」


穏やかな物言いにあたしは刺青さんの背後を見遣ると、そこには雨月さんが立っていた。刺青さんが背後を見ずに雨月さんを認識できたことは、あたしにとっても驚くべきことで、雨月さんと刺青さんの顔を交互に見遣る。


「どうもこうも、こいつ何も食おうとしねぇんだぜ。良くなるはずもねぇだろう。」


「成る程…Gの顔が怖くて食欲がでないと――」」

「オイ。」

「ははは、冗談でござる。……しかし、#仁菜#。Gの言う通り、栄養を摂らなければ治るのも治らない。…食物が喉に通らない程辛いのでござるか?」


あたしは、雨月さんの言葉にゆっくりと首を振った。確かに具合が悪くて食欲が落ちていることも否めないけれど、あたしだって一応医者の家系の娘だ。口から摂る栄養摂取がどんな薬よりも勝るものだということは身を持って知っているため、このくらいの具合の悪さであれば通常なら多少無理をしてでも食べている。
―――けれどダメなのだ。この世界のものを口にしては。
単にあたしが意固地になっているのだ、と分かってはいるけど。


「………なら、食べられない理由を私に教えて欲しいのでござる。」


雨月さんはあたしの頬を撫でると、静かに微笑む。


その彼の仕草にどこかホッとしている自分がいた。優しさに縋ろうとする自分は嫌だけれど、それでもあたしには望むモノがあるから。


未来の日本に"帰りたい"


あの場所に帰っても、大切なモノなんてもうどこにもないけれど……。
それでも、母さんや蓮さんの残り香にしがみつこうとしているあたしは―――なんて未練がましく、そして浅はかなのだろう。

けれど、その香りですら感じられないこの時代よりはましだ、とそう思ってしまった。

だからこうして、今も尚、些細な抵抗をし続けている。


"諦める"
そう簡単に気持ちを切り替えられるほど、大人にはなれなかった。

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