無色の音色

肩を叩かれる感触がして、軽く振り向いた。


そこには図書館の制服を着た女性が口を素早く動かしながら、私と私が開いている本に対して視線を行き来させていた。
首を傾けていると、顔見知りのスタッフがすぐに近づいてきてくれて、私に自身の腕時計を示しながらゆっくりと言葉を続けてくれる。


「…なつみちゃん………で、………閉館ですよ。」


途端に合点がいった私は、急いで時計と周囲を見渡した。
時計の短針は8を指し示そうとし、閉館時間が目前と迫ってきている。少し前までにはいた多くの利用者達は次々とロッカーに向かっているようだった。
……あぁ、また没頭しすぎてしまったらしい。
私は、スタッフのゆっくりと動く口元をじっと見つめながら首を縦に振り、今読んでいた医学書をカウンターに持っていくことにした。


予め持っていた貸し出しカードと本をカウンターのスタッフに渡すと、素早く手続きを済ませてくれる。軽く頭を下げてお礼を示すと、ロッカーに向かい、荷物を持って図書館を出た。


電源を落としていた携帯を取り出すと、メールの受信マークがついていた。
片割れの弟だ。

【今日、何時頃に帰ってくる?】


話したいことがあるという彼に、すぐに帰宅する旨を告げると携帯をポケットにしまう。ぐるりと見渡す暗い夜道にため息をつきながら、私は足早に移動を始めた。


両耳についている、私の相棒を無意識に摩る。私はいわば重度の難聴者だ。といっても、先天的なものではなく、大学三年時に突発性難聴を患った。受診した時には、手遅れで、聴力の回復の見込みはほぼ無いと断言されている。
中途難聴のため、普通に話しはできるものの、如何せん自分の声の音量が分からない。
まだ症状が軽かった時に、友達と話していて講義室にいる人達から注目されてしまったり、話しの中心人物が後ろにいることに気づかないまま、その人の話しをしてしまったという失敗が数回あった。その時からしゃべることがトラウマとなり、今では専ら筆談かメールが私の伝達手段となっていた。



それから一年経った今日。通常の大学だったら、おそらく就活やら何やらで忙しい時期だろうか。しかし、私の学部は医学部のため、幸か不幸かあと二年は学生でいられる。
……が。
深いため息をついた。四年生の後半から、ポリクリという名の病院実習が入ってくる。

授業は、教授らの配慮もあり、配布資料や教材等を駆使して何とか乗り切ってきた。足りない分は、こうして大学の図書館や自宅近くの図書館の医学書を見て補ったりしている。


今や私の聴力は、二つの補聴器を使っても、ようやく音を拾えるか拾えないかの状態だった。
ゆっくりと話しかけてもらえれば、口元を見て察することは何とかできるものの……先程のように早口ではもうお手上げだ。
コミュニケーションもとりづらいだろう。


こんな状態の私が、医師に、なれるのだろうか?


実習間際というこの時期に、私は自身の進路に迷っていた。



その時だった。
ぴーぴーという音が両耳から聴こえてくる。ハウリングだろうか?補聴器がきちんと自分の耳に合っているか手探りで確認しながら調節していく。
けれど、その甲斐なく、今だに鳴っている音に溜息をついて補聴器を外す。電池切れかもしれない。補聴器を外したためか、世界は益々、包みこむような圧迫感を持ち始めた。
無音。世界は確かに動いているのに、自分だけが切りとられたような、特有の感覚。

……今日は、本当についていないなぁ。



本日二度目の溜息と共に、キーンという耳鳴り。ここ数年でお馴染みの症状に、なるべく急いで家に帰って休もうと、速度を速めた。

『………うっ』


発作だった。頭を引っ張られるような感覚を合図に、人生ゲームのルーレットのような眩暈。景色が回る。意識が遠退く。
あの何度も味わった、気持ち悪さに口元を覆いながら、携帯で弟の番号を必死で押した。


『………ユーくん、また回転性眩暈が起きたから、少し休んでから帰るよ。』


ざっくばらんに口を動かすと、携帯を手放し、身を地面に預けた。……限界だった。
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