怒号の空間

ローさんが出て行ってしまってから数分、私は為す術もなくソファーに座りこんでいた。
揺れがなかなかおさまらない。
ここは海賊船だ。当初、私のような女でさえ敵として警戒していたことからも、争いが日常茶飯事であることは誰に言われずとも察していた。


『……みんな、大丈夫だよね?』

遠くで聞こえる雑音に怖くなり、補聴器を外してしまうことも考えた。けれど、それだと余計に自分の身を危険に晒すだけだと思い直した。


"うまく使え"


昨日、この補聴器を付けてくれたローさんが言ってくれた言葉だ。

"―――だったら諦めんな。夢はそう簡単に切り捨てて良いもんじゃねェよ。"


頭に反芻する彼の言葉。戦闘はできないけれど、トリアージと、負傷している船員の応急処置くらいはできるかもしれない。

私は、ローさんの部屋を見渡すと本棚の傍の台座に幾つかの薬品と布と包帯が置いてあるのをみとめた。薬品の中で、止血剤など使えそうなものを選ぶと部屋を飛び出した。


廊下はヒッソリとしているものの、揺れと怒号はおさまる兆しが見えない。私は剣等が立て掛けてある開けっ放しの武器庫を通りすぎ、食堂に寄ってフォークやナイフを数本引っつかんでポケットに入れると、看板へと続く扉を開けた。


『………っ。』


思わず息を呑んだ。
目の前に広がるのは、本物の剣、大砲、鉄砲同士の争いだった。

流れ弾に当たらないように注意しながら、できるだけ身を屈めて負傷している二人の船員の元へと向かう。


『大丈夫ですか!?』


「ナツミ!?」


イルカさんはお腹に銃弾を受けたのか、片膝をついてジッとしている。庇うように剣で複数の相手していたもう一人はシャチだった。辺りを見渡すと、少し離れたところでもペンギンさんが数十人の敵と闘っている。


「…イルカを頼む…っ」


シャチの言葉に頷くと、イルカさんの繋ぎを慎重に脱がせた。ザッと傷口を確認してからすぐに圧迫止血を施す。弾は綺麗に貫通しているし、幸いにも主要動脈や臓器からは外れていたようで、意外とすぐに止まりそうだ。


「ナツミ…、おれは……大丈夫だから…早く…逃げるんだ!」


『…大丈夫、もうすぐ処置も終わ―――』


その時左肩を何かが掠めた。一瞬遅れて感じる痛みと熱。
血が滴り落ちているのを感じてすぐに、銃弾が向かってきた方角に視線を向けた。


ゆっくりと進んでくる一つの影。長い白髪を垂らした彼は、舌舐めずりをしながらこちらを凝視している。顔中にメイクを施した彼は、まるで歌舞伎役者のようだった。

「……六千万の賞金首、ダラクレッド……コイコイの実の能力者か……くそ、ベポと船長はどこに!?」


『イルカさん、あまり動いたら―――え。』

「「「ナツミ!」」」


私は見えない何かに引っぱられるように身体が宙に浮いていた。
次の瞬間には、先程の歌舞伎役者の男に肩を捕まえられている。傷口に直に触れられたため、痛みで思わず呻いた。
ダラクレッドと私の周囲には、ペンギンさんやシャチを近づかせないためか数人の男達が武器を構えている。



「お前……死の外科医の女、か?」

『は、放して!』


もがいて何とか抜け出そうとするものの、彼はビクともしない。
それどころか、その弾みで右耳の補聴器が外れて落ちてしまった。

「あまり……ごくと毒……早いぞ。」


彼の言葉通り、肩から肘、肩から中枢へと痺れが廻ってくる。どうやら先程傷口に触れられた際に毒が塗られていたようだ。力が入らなくなった身体を、ダラクレッドが抱え直すと移動を始めた。


『や、だ!放して、よ。』



彼らは私を抱えたまま自分達の船に乗り込み始めてしまった。


「「―――!?」」


一瞬見えた視界の先には、見慣れた白熊とローさんがいて、その向かい側にはデップリとした男とその部下達が相対していた。


『ベポ、はぁ、?、ろ、ーさん、』

神経や筋に作用する毒なのか、呼吸も少しずつしづらくなっていくのが分かった。フグ毒による中毒作用に似ている。恐らく、呼吸筋にも毒が作用し始めているのだろう。


『…ぅ、はぁ…はぁ…っ、ベ、ポ、ろー…さ、ん、っはぁ…。』


少しでも多く酸素を取り込もうとしているけれど、うまくできない。意識がはっきりしているからなおのこと辛かった。苦しくて苦しくて、目に涙が浮かんだ。



その時だった。


"ROOM"


遠すぎて聞こえるはずのない声が、確かに届いた。


"シャンブルス"



次の瞬間、私はなぜかベポに抱き抱えられ、地面に降ろされていた。そのすぐ後に、野太い叫び声が聞こえたような気がしたけれど、幻聴、だろうか。


「ナツミ!?」


『……はぁ、あ、ベ、ポ?な…ん…っで?』


「キャプ…ン……だよ。」


『……っあ、…っう……ぅはっ……』


浅い息を繰り返して、どうにか保ってきていたが…もう、限界だった。


『………っ、』


「ナツミ、!?」


呼吸する力が足りない。
呼吸をしたくてもできなくて、生理的な涙がボロボロと流れ落ちていくのが分かった。
その時だった。誰かに頭と下顎を掴まれると一気に後屈させられる。目の前にいるのは、ベポではなく、ローさんだった。


『………ロ、さ…』

「黙ってろ、今助ける。」



痺れた唇を覆う温かな感触。
そして肺へとようやく届いた空気。ローさんの端正な横顔を眺めながら、甘んじてその口づけを受け入れる。少しだけましになった苦痛に、また涙が零れた。
今、私はローさんに生かされている。ローさんの人工呼吸が止んでしまったら、私はすぐに死んでしまうのだろう。感じたのは、不確かな恐怖だった。



「………大丈夫だ。」




ローさんは、それを分かっていたのだろうか。左耳に向かって何度も私を励ましながら、酸素を取り込めない私の代わりにそれこそ何度も何度も空気を送ってくれた。
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