青褪めてざらざらの眼差し

人間の脳は通常10%しか使われていない
残り90%が何故存在し、どんな能力が秘められているのか





「おはようございます」
「わぁ!びっくりした。おはようって言っても野宮くん、もうお昼だよ?」
「低血圧なので」

 野宮恵は上司である野々村光太郎に対して、遅刻を詫びるわけでもなくいつもどおりに自分のデスクに着く。
 野々村は定年を過ぎても属託という形で配属されている昼行灯だ。新卒採用の若手である恵が当然のように遅刻してきても、軽く注意をするだけでなんだかんだ定刻通りに勤怠をつけてくれる甘い男だ。

「そういえばまた、出たらしいよ」
「レディー・ジャスティス、ですか?」

 野々村は昼行灯と馬鹿にされることの多い男だが、元捜査一課弐係係長だったベテランの刑事だ。一線を退いた今でもかつて育てた部下たちから情報を渡されるような、できる男でもある。
 くだんのレディー・ジャスティスとは、最近巷を騒がせている連続男性傷害事件のことである。何でも、男性器を切り落とされるのだとか。しかも、相手は痴漢やセクハラの常習犯で、女性からの恨みは絶大だそうで、天誅だと同情の余地なしだとか。
 野宮恵も例によってそういう男性は嫌いだし、天誅 ザマァくらいに思っている。しかし、行き過ぎた正義や狂気をビシバシと痛いほどに感じる。警察官として、法を犯す人間を見過ごせはしないのだ。

「にしても、妙だよねぇ」
「そうですね。ガイシャ(被害者)は全員痴漢やらセクハラやらやらかしてた女性の敵なわけですが、それ以外に勤務先や年齢もバラバラ。犯人は何故ガイシャの罪を知っているのか、ガイシャには何故性器切断以外に争った形跡がないのか、犯人はどうやってガイシャを無力化しているのか。奇妙な点も多い事件ですね」
「女性の怨恨かって線だと、ガイシャを無力化できないからね。犯人が男か女か、単独か複数かで捜査はてんやわんや。マスコミも色々と騒いでるよ。にしても、切り落としちゃうなんて怖いねぇ。僕も気をつけないと」
「野々村係長は女性の恨み買ってますからね、天誅が下るかもしれませんね」
「怖いこと言わないでよ…」

 野々村はさっと自分の股間を守るように手で覆った。情けないことを言っているが、野々村という男は70歳で妻もいるが、警視庁内で不倫しており、離婚調停が中々進まないという。女性からの怨恨は十分だろう。
 恵は室内に設けられた給湯スペースに行き、ケトルでお湯が沸くのを眺める。気泡が底から湧き上がり、ぐらぐらと水面が揺れる。蒸気の熱が顔にむわりと当たり、暑い夏の夜のことを思い出す。無表情のまま、一人でぎりりと歯を食いしばって激情を呑み下す。
 パチン、とお湯が沸いたことを告げられるが、野宮は淹れようとしていたハーブティーをそのままに昇降機に乗った。

「ちょっと出てきます」
「いってらっしゃい」

 野々村の満足げな笑顔が何となく腹立たしかった。


「何の成果もなしか!」

 一課のお偉いさんが怒鳴り散らしている。恵は捜査本部とされている会議室にやってきていた。上座に座る名前も知らないお偉いさんが、苛立ちを隠そうともせず報告する部下を威圧している。加えてボソボソと、大体生安が対処していればこんなに大事にはならなかった、だの責任転嫁するような発言ばかりだ。
 刑事部捜査一課は刑事ドラマでお馴染みの部署で、殺人・強盗・強姦・誘拐・放火等の犯罪捜査を担当する。対して生安、生活安全部ではそれこそストーカー対策や犯罪予防が主だ。

「見苦しい…」

 結局のところ、警察も組織でありそれぞれが負う責任がある。そしてその責任を押し付けあったり、手柄を横取りしたり、人間組織の醜悪な部分もある。恵は組織や集団行動が苦手なタイプなので、辟易しながら目的を果たそうとする。
 ホワイトボードには被害者と周辺人物などの相関関係が記されている。恵は堂々とそれらをスマホのカメラに収める。


 捜査資料から被害者の入院先が分かった。恵は一度自部署に戻ると、野々村に外回りから直帰する旨を報告する。野々村はまたにこにこと笑い、許可を出す。少しだけ居心地の悪さを感じながら、上着とバッグを回収して警視庁を後にした。
 被害者はそれぞれ救急搬送された病院の神経外科に入院していた。病院で警察手帳を見れば、事情聴取は連日のことだったためか、とてもスムーズに病室に通される。警備の警官が入り口に立っているが、恵スルーして病室の中へ入った。

 最初の被害者、壱原ハジメは痩せ形でひょろりとしており、気の弱そうな印象だ。いわゆるブラック企業に勤めており、上司である女性に日常的にパワハラを受けていた。そのストレスの吐口に、自分より弱い女性に痴漢行為をしていたという。

「壱原ハジメさんですね」
「、びっっっくりしたぁ…」
「刑事の野宮と申します。連日捜査にご協力頂いておりますが、またお話を聞かせて頂きたく参りました」
「あぁ、はい…」

 警察手帳を見せながら自己紹介し、早速本題に入る。

「改めてご確認ですが、ご帰宅中に何者かに声をかけられた。そして現場の空き地に連行された。お間違い無いですか?」
「はい」
「犯人がお知り合いだから、ついていったのですか?」
「………」
「犯人は、一人でしたか?複数でしたか?」
「…………」

 そうなのだ。事情聴取では犯人のことになると、被害者は必ず口を閉ざしてしまう。捜査が難航する理由の一つだ。

「犯行時、犯人は貴方を一度しか傷つけていません。抵抗しなかったのですか?」
「………」
「聴き方を変えます、抵抗できなかったのではないですか?」

 初めて壱原の表情が変わった。入室してから愛想笑いなどは浮かべていたが、虚ろだった目に初めて光が宿った。恵は自分の勘が間違ってはいないことを半ば確信する。

「犯行のことを話せないんですね」

 きゅっと唇が引き結ばれれた。手は布団を握りしめ、ずいぶん力が入っているのか恐怖なのか、震えている。

「事件のことだけでは気が滅入ってしまいますね」
「え、あ、はい…」
「ご結婚なさってるんですね。お子さん、おいくつですか?」
「えっと、今年小学生になりました…」
「……お仕事、辞められなかったんですね」
「…はい。自分はまだ学生だった妻を妊娠させて、妻の分も子供の分も頑張らなくてはいけなくて。それで、それで…。夫として、子を持つ親として、してはならないことをしてしまった。メディアの言う通り、天罰が下ったんです」

 壱原の独白を、恵は相槌もせずただ聞いていた。家族を養うために仕事は辞められない。上司からのパワハラで溜まったストレスを、家庭に持ち込みたくなかった。発散の方法は間違っていたが、それで家族は守られていたのだ。
 床頭台に飾られた家族写真を見て、すぐに目を逸らして顔を俯かせる壱原は合わせる顔がないと言っているようだった。そんな壱原に同情できるだけの優しさを恵は持ち合わせていない。

「壱原さんは、超能力とかって信じますか?」
「つい先日から、信じるようになりました」
「そうですか。ご協力感謝します」

 聞きたいことは聞けた。事件に関することをもっと聞きたいが、それは不可能だろう。ここが切り上げ時だと、恵は一礼して去ろうとする。
 その背中に、声がかかった。

「刑事さん。嘘はついてはいけないんです。嘘つきには、天罰が下りますから。僕は…天罰が下ってしまったので、刑事さんはそうはならないでください」

 振り返って壱原の顔を見る。今まで後悔に塗れた暗い顔をしていたが、今までで一番強い意志を秘められているのが分かった。恵は頷き、病室を後にした。

「(やっぱりこの事件、スペックホルダーが関わってる)」

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