どこにでもある夜の彩度
「ありがとう」
ベアトリーチェは最期に、確かにそう言った。あの子から見た私の絵は、私にはもったいないくらい美しい風景だった。
救ってあげたかった。傷ついて自分の殻に閉じこもって居たのは私、そこから理沙ちゃん、真山さん、たくさんの人が救いあげてくれた。助けることで、もうあの時の私じゃない、強くなったと思いたかった。
「こちらこそありがとう。さようなら、もう一人の私」
あの子の頬を撫でて、逆に血をつけてしまった。拭おうにも、私は今全身血塗れなので難しそうだ。呆れたように降谷さんがハンカチを出して、あの子の顔を綺麗に拭ってくれた。
「後味、悪いですね」
「そうだな。だが、俺たちは立ち止まれない」
「心臓が息の根を止めるまで、真実に向かってひた走る。それが刑事だ。上司の言葉です」
「良い言葉だな」
あの子の亡骸の側から立ち上がる。スーツの布地の端から、吸いきれなかった血が落ちる。
「事後処理はこちらで請け負う。もうすぐ迎えが来るから、君は……」
「………」
「…野宮?」
降谷が気を利かせてくれるが、さぁっと意識が遠くなって、返事も何も出来なかった。さっきまで燃えるように暑かったのが嘘のように寒くて、何となく気持ち悪くて苦しい感じだ。意識が朦朧としてきて、不快感が薄れてくる。このまま身を預けても良いかな、と思った。
夢から覚めたばかりような、寝ぼけた時の感覚だ。降谷が何か言っているが、聞き取れない。ぼーっと降谷の焦る顔を見ていると、いつも涼しい顔ばかりしている男が、私でこんなにも取り乱していると考えて悦に入った。
なんとなく、鼻をつまんだりイタズラでもしてやろうと思った。でも身体が鉛のように重たくて、動いてくれないので諦めた。
「ぃ、おい!しっかりしろ!野宮!!」
「ぁ……」
「はぁ、肝が冷えた」
さっきまでのモヤがかかった思考が晴れて、自分の状況を察した。どうやらばたーんと倒れたらしい。降谷が介抱してくれたのか、ジャケットともにクソ重たい防弾チョッキは脱がされ、シャツのボタンも開けられて緩められていた。
降谷は私の手首で脈を測っているようで、腕時計を見ながら「よし、戻ったな」とつぶやいた。
「そういえば、まだ一年目か」
「もう二年目になります」
「場馴れしていたから忘れていたが、上司としてもう少し配慮すべきだったな」
「スペックホルダーの協力者としては、学生の時から関わってましたから」
「ああ、なるほどな」
窓から船の灯りが差して、応援が来たのを察した。私がまだ動けないことも降谷にはお見通しだったようで、肩を貸してくれようとしたけど身長差がすごくて無理だった。結局おんぶしてもらって、船着き場に降りることになった。
「降谷さん!ご無事でしたか!」
「風見。建物の中に三宮和也と、口封じに来ていた一派をノシてある。連行しろ。それから、十代の少年に見える遺体もある。丁重に運べ」
「はっ!」
「降谷さん、あの子の絵。あれだけは、こちらで押収させてください」
「分かった。現場写真を撮り終えたら、そちらに運ぶよう手配しておく」
降谷は最低限の指示だけ終えると、船へ向かう。船には操舵室の下に警察官用の休憩スペースがあり、降谷はそこに私を寝かせた。
「野宮、顔色が悪い。さっき倒れた時も過呼吸になりかけていた。薬は持ち歩いているか?」
「ジャケットの、内ポケットに。でも、飲むと眠気が」
「どうせしばらくは船で移動だ。それに、野宮の今の格好では帰れないだろ」
「ごもっとも」
休憩スペースに置かれている水を取り、キャップを一度開けてから渡してくる。気遣いはありがたいが、モテる男すぎて引く。精神安定剤を飲むと、筋弛緩作用があるせいで少し眠くなる。船の揺れは眠気を誘って、私の意識は直ぐに落ちた。
眠る直前、降谷がやけに甘い声で、お疲れさまと言ってくれた気がした。
結論から言うとよく寝た。大変よく寝た。今回の件の捜査本部の隣室が仮眠室として押さえられているようで、恵はそこで目を覚ました。
簡易的なパーテーションの向こうでは、数名の寝息やいびきが聞こえ、隣室からはバタバタと忙しない音が漏れ聞こえる。
服はあの時のままで、とても気持ちが悪い。足元に置かれた紙袋には、新品のシンプルな服とスリッパが入っていた。張り込みや泊まり込み前提で、誰かの私物を譲ってもらった形だろうか。ありがたく頂戴することにして、恵は被っていた毛布にくるまったまま仮眠室をそっと出る。警察庁内とはいえ血まみれで出歩くのは流石に気が引けた。
警察庁に入るのは初めてだが、ほぼ似た作りだ。案内板に従ってシャワールームに行き、服を文字通り脱ぎ捨てて、熱めのお湯を浴びる。むわっと立ちこめた蒸気があの夏の日の夜を思い起こさせて、吐き気が込み上げる。
折角最近は落ち着いて来たと思ったのに、掘り起こされて塩を塗り込まれてえぐられてこのザマだ。恵は頭を抱え、しばらくそのままあの子の事を思い出していた。
「…次は助ける」
恵が決意を新たにし、シャワールームから捜査本部へ戻る。本当なら差し入れの一つや二つ持っていきたいところだが、残念ながら今の恵は貴重品を所持していないので諦めた。
捜査本部は非情に忙しないが、あの目立つ頭はすぐに見つかった。スリッパの音をパタパタさせて近寄ると、真剣な顔をしていた降谷は破顔した。
「随分とよく寝てたみたいだな」
「お陰様で」
「うん、戻ったな」
「ご心配をおかけしました。あと、これ、ありがとうございます」
降谷は隈こそこさえていないが、ほぼ働き通しなのだろう。何せ今回のガサ入れの最高責任者だったし。いつもよりキラキラ度の減った、やつれた顔をしている。
着替えの礼を述べると、やはり張り込みや泊まり込み用に、ある程度の着替えは経費で用意しているらしく、気にするなと言われた。まあ、気にしていないのだが。
降谷はさすがにまだ仕事があるらしく、車で送れないことを詫びられた。さすがの恵も、最高責任者で昨日から働き通しの人間に、家まで送れと言うほど厚かましくないのだが。ガサ入れ前に船に保管してもらっていた貴重品類を返してもらい、恵は帰路に着いた。