触れたらすべてが変わってしまう

「(苦しい…全身が引き裂かれるような痛み…)」

 玲珠は苦痛に支配される中、朧げに周囲を見渡した。母が手を握って深い祈りを捧げ、その奥では姉が顔を青くして呆然と玲珠を見ていた。
 周囲の声は、瑞獣の訪れに歓びも不安も抱き、戸惑いを隠しきれない。けれどそれ以上に透けて見えるのが安堵で、姉ではなく出来損ないの玲珠に瑞刻が刻まれたことへだろう。

 玲珠の家、朱家は稀代の魔術師クロウ・リードの母方の家系に縁がある。クロウ・リードの母の実家の、分家筋である。朱家は火を司る家系で、生まれる子供達は火の気が強い傾向にある。
 けれど、雪の降る冬至の夜に、安産だった姉と違って難産の末産まれた玲珠、火の気が薄かった。生命力とも言える魔力の性質が根本から異なるので、考え方や性格が火の気の強い者ばかりの朱家では浮いていた。
 次期当主である姉が瑞刻を刻まれたのであれば、一族をあげて使命を遂行しなければ、次期当主の命が危ぶまれる。その点、玲珠は遂行できれば朱家の価値を高めることができ、失敗しても損失はさほど大きくはならない。
 痛みに侵されながら、玲珠もまた、選ばれたのが姉でなくて良かったと思っていた。苦しくて投げ出してしまいたいけど、この苦痛を姉が受けるのは嫌だった。浮いた存在で人付き合いの下手な玲珠を、いつも庇って強気でいる姉は憧れだった。それに、玲珠にはほんの少しの打算もある。もし、玲珠が使命を全うできれば、朱家の者達に認めて貰える、と。





「母上、わたくし日本へ行って参ります」
「それが関係しているのか?」
「はい」

 母はそれ、と玲珠の目の奥を指す。一般的に瑞刻は大勢の生命を左右するような重大な使命の場合、大きく目立つ場所に現れる。玲珠の瑞刻は瞳の奥に刻まれており、大きさで見るなら些事のようだが、いかんせん目立つ場所なので、使命の重要度を推し量るのは困難だった。
 瑞獣に与えられる使命は、非常にぼんやりとしている。何をどうすれば達成なのか、いまいち瑞刻を得た本人すら分かっていない。けれど、玲珠はなんとなく日本へ向かって、誰かに会わなければならないことを感じていた。
 母は扇で口元を隠したまま何やら思案し、軽く手を上げて側仕えを呼ぶ。

「日本の別邸を玲珠に譲る。玲珠が過ごせるよう、整えておくように」
「かしこまりました」
「玲珠、必要なことがあればこの母に言うように。準備もあろう下がって良い」
「失礼します」

 衣食住の手配は頼もうと思っていたが、まさか別邸を譲られるとは思っていなかった。玲珠は跡取りではないから、どこかへ嫁に出されることが決まっているようなものだ。母や姉から言われた一族の決定ではないが、慣例にならえば自然とそうなるであろう。現に、玲珠に水の気が強いことから、水の家系からの縁談が舞い込んでいるとも聞く。
 将来、姉が相続するであろう財産を、瑞獣の使命のためとは言え玲珠が受け取る事になるとは思っても見なかった。当主として身内贔屓をしない母の、朱家らしい火の気を見た気がして嬉しくなった。





 一族総出で見送られ、玲珠は日本へやってきた。気候は香港と大して変わらない。大きな変化がないことに、玲珠は人知れず安堵した。
 母の命令で整えられた日本の別邸は美しかった。埃一つないし、立派な調度品が置かれ、庭も綺麗に整えられている。強いて言うなら、使用人に問題があった。

「衣はこちらに準備しております」
「朱様は着飾らずとも、お美しくいらっしゃる」

 側仕えと、屋敷の管理を任された執事。おおかた執事が命令しているのであろうが、最低限のことしかしない。いや、朱家の家格を考えると、最低限のこともしていない。
 時と場を踏まえた装いをするが、基本的に当主一族は自分で何かをすることがなく、人を動かして何かしらさせる立場だ。そして、魔術師として儀式を行うための正装や、関係性や力を示したりするため、身支度は誰かの手を借りることを前提としたものだ。
 衣装や装飾品を用意されたからといって、玲珠はそれを身につけられない。側仕えを呼んで不出来を責めたり罰を与えるべきなのだろう。そんな側仕えの監督役である執事も同罪だ。
 それでも玲珠は朱家のはみ出しもので、言ったところで素直に聞くとは思えない。母や姉の名前を出せば真面目に仕事をこなすだろうが、権力を笠に着るようで気が進まなかった。朱は冷めたところがあるので、側仕えと執事の評価を落として、自身の手足ではなく、掃除機のような道具として見做すことにした。





 さて、日本に来てしばらくが経ち、新しい生活にも慣れてきた。そろそろ使命の方に取り掛かりたいが、何をしたらいいのかさっぱりだった。瑞獣も何かをさせたいのであれば、そのように命じれば良いものを、と頭を悩ませていると、玲珠の張った結界が揺らぐのを感じた。
 魔術師というのは不思議な存在で、一般人にそれを知られるのはあまり良くない。そして時に同族間で争いが起こることもあるため、自分の領域を守る結界を張るのは常識だ。
 玲珠の結界は瑞獣の力を用いた目眩しと、招いた者以外は道に迷って辿り着けないようにするためのものだ。道迷いも閉じ込めるような悪質なものではなく、正解のルートを通らなければ振り出しに戻るだけの、簡素な術式だ。今その結界の一つ目の道に正解した者がいる。
 玲珠はなんとなく、瑞獣の思し召しを感じた。

「客人がまもなく到着する。もてなすように」

 執事と側仕えは慌てた。普段の怠慢が祟って、とても客人をもてなせるような状況ではなかったからだ。側仕えは大慌てで玲珠を引っ張って部屋へ連れて行き、あれでもないこれでもない、時間がないから、と手荒に身支度を整えていく。執事も執事で、お茶や菓子の準備に奔走していることだろう。
 玲珠は香港の本邸にいた時と同じくらいには着飾り、濃い化粧を施され、複雑に髪を結い上げて簪を差している。応接室の長椅子に肩肘を預け、くつろいで待つ。丁度客人が最後の道を選び、邸の門扉の前に到着した。玲珠は魔法で門を開いて、その人を招き入れた。

「ええと、ごめんください…?」
「ようこそおいで下さいました。こちらへどうぞ」
「いやあの、俺は道に迷って……」

 人の良さそうな声だった。執事の出迎えに恐縮した様子で、流されてお邪魔しますと断って邸に上がった。玲珠の待つ応接室に通されたその人は、青年に差し掛かろうとしている少年だった。育ちがいいのか、それなりの身なりをしている。吊り目だがきつい印象は無く、物腰が柔らかくて誠実そうな男だった。

「掛けると良い」
「えっ、あ、失礼します」

 男が椅子に腰を下ろしたタイミングで、側仕えがお茶とお菓子を持って入ってくる。お茶は母や姉が好む花茶で、菓子もそれに合わせたものだ。高級なものに違いはないが、男性に出すようなものでもない。
 不出来な使用人達に頭を痛めつつ下がらせ、男の手本となるように茶器をとる。花茶は華やかで香りも良いが、飲む時は蓋を少しずらして飲まなければ花びらが口に入ってきて飲みずらいのだ。

「これは花茶だ。この見た目故女性に好まれるので、そなたの口に合うか微妙なところであろう。使用人の不出来をお詫びする」
「いえ、その慣れない味なので独特に感じますが、美味しいです」
「そう言って貰えると助かる」

 玲珠は菓子を一つ摘んだ。普段は出されない上等なもので、せっかくの機会なので堪能することとする。

「まず、其方が此処へ迷い込んだのは、私の結界によるものだ。其方の責ではないのでd、気にせず楽にすると良い」
「結界…?」
「この屋敷には目眩しの術がかかっていて、たとえ隣の家からこちらを見ても、認識できない。そして、此処へ来ようとすれば道に迷って辿り着けず、元いた場所へ戻る。そういう仕様の結界を張っていた」
「…??……」
「其方は偶然にも、幾多あるはずの外れの道ではなく、ただ一つ正解を辿って此処へ辿り着いた。運命の導きと言えよう」

 玲珠はあまり他人と関わらないし、会話する機会もない。少年が玲珠の尊大な態度や古風で独特な口調、結界などの魔術を理解できず戸惑っているのに、お構いなしに話を続けていく。

「先程私は偶然と言ったが、ある者はこう言う。この世に偶然は存在せず、あるのは必然だけである、と」
「えーっと、あの、ちょっと話が見えないというか」
「これも何かのお導きによる必然ということだ」

 少年は相変わらず戸惑っているが、やはり玲珠はお構いなしだ。玲珠が差し出した手に、これで合ってるのか?なんなのか?と怯えながら、少年がそっと手を重ねた。刹那、

「ぁ!?」
「だ、大丈夫ですか!?」

 玲珠は雷に打たれたような衝撃にただただ驚愕した。瑞刻を受けた時と同様に、脳裏に何かが刻み込まれるような感覚がする。頭の中に断片的な情景が浮かんでは消え、またすぐに別の情景が浮かぶ。瑞刻を受けた時ほどではないが、大量の情報を処理するのに、玲珠の脳は焼き切れそうだった。
 少年は玲珠に駆け寄って、玲珠が取り落とした、口元を隠すのに持っていた刺繍の丸型のうちわをテーブルに置き、玲珠の肩を控えめにゆすって倒れた体を支える。

「誰か、誰か!」
「まぁ!お嬢様!」

 側仕えが今にも意識を失いそうな玲珠を少年から預かり、寝台へ運ぶために応接室を後にする。独特な存在感で空間を支配していた玲珠が居なくなった事により、少年は肩の力が抜けるのを感じた。

「騒がせして申し訳ございません。主人に代わってお詫び申し上げます」
「いえ、お気になさらず…。あの、さっきの方、大丈夫でしょうか」
「元々丈夫な方ではございませんから。お客様の前であのような失態…奥様になんと申し上げれば良いか……」
「あー、そしたら俺はこれで失礼します。お大事になさってください。ご馳走様でした」

 少年、諸伏景光は執事の深い礼に恐縮しながら、この数十分を振り返る。
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