felix
強さを極めるには武だけでなく精神も鍛える必要がある、と考えるフェリクスは今正にそれを意識して走っていた。あらゆる雑念を振り払おうとし、打ち鳴る心臓と、痺れる筋に何度もおさまれと言い聞かせるが、なかなか言うことを聞かない自分の精神の弱さに腹が立つ。
「おー、フェリクス。もう講義始まるぞーって何走ってんだー?」
フェリクスが青獅子の教室の中の前を通る時シルヴァンに声をかけられたが、今の顔を人に──特にシルヴァンに見せるわけにはいかず、そのまま訓練場へ走って行った。
もうすぐ講義が始まるのだが、このまま出ても何も頭に入ってこないことは明白で、それよりも一旦今あったことを整理して心を落ち着けてから講義に出る方がいいだろう。
そう思い、フェリクスは訓練場の武具置き場に座り込み、黴臭い革や古い油、金属特有の匂いの中で乱れた呼吸を落ち着かせ、先程あった出来事を振り返ることにした。
*
なまえとの手合いで完敗してから一月が経った。あれから毎日必死に身体を鍛え、剣術を磨いた。担任のベレトにもしつこく教えを乞い、何度も訓練をした。手袋をしてもできる血豆を同級生やマユエラ先生に治してもらいながら自己研鑽を怠らなかった。
そうして心身ともに強くなった実感を持てた頃、そろそろなまえに手合わせを申し出ようと思い金鹿の教室へ行き、ちょうど教室の入口にいたヒルダに頼んでなまえを呼んだ。が、来たのはヒルダ一人であった。
「ごめんねー。なまえちゃん、もうここの生徒とは誰とも戦いたくないって言うの。だからもう手合いに誘わないでって」
「は……?」
フェリクスはあまりの衝撃で固まり、ヒルダの言っていることを正確に噛み砕こうと巡りの鈍くなった頭で反芻する。つまり、フェリクスとは当分戦わないということだ。「それならここを卒業すれば戦うのか?」そんな疑問がわくが、なんとなく卒業してもなまえはフェリクスを相手にしない、そんな予感がした。
「じゃあ、そういうことでー」
「待て……なまえと直接話したい」
「うーん……なまえちゃん、最近色々あったみたいだからあんまり話さない方がいいと思うわよー?」
「……関係ない。俺が話したいから話す」
「あ、ちょっとー」
フェリクスはヒルダの制止する声には耳を貸さず、教室の奥へぐんぐん進み、一番前の席の左端に座るなまえを少し離れたところで見つけた。
なまえはフェリクスに気がついたのか、立ち上がって背を向けて教室の端から出入口に向けて逃げようとするがそうはいかない。
フェリクスはなまえと距離を詰め、後ろから声を掛けた。
「なまえ、話がある」
「……何?」
なまえは壁際でぴたりと立ち止まると振り向く。目は優しく眦が下がり、唇には微笑が浮かんでいるが、どこか憂鬱な表情である。
「誰とも手合わせしないとはどういうことだ?」
「誰ともじゃないよ。ベレト先生とならするよ」
「なら俺ともしろ。あれから毎日鍛えていた。今度こそなまえを満足させる」
「わたし、そういうのじゃないの……」
まるで相手にしていないかのように興味のなさそうに言うなまえにフェリクスの自尊心は負けた時以上に傷つき、怒りに燃えた。
フェリクスは壁を背にして俯き加減のなまえの頭の横に両手をついて逃げられないようにした。
「今すぐ俺とやれ」
「嫌だよ。もう講義始まるし」
「頷くまでこうしてる」
「驚いた……そうまでして、わたしとしたいんだ?」
なまえは目を丸くする。心なしか声色と表情が明るくなった気がする。このまま粘れば言いくるめることができそうだ。
「その為に鍛えてきた」
「でも、フェリクスくんはわたしが頷くまでなんてこんなことできないと思うよ」
なまえはふっと笑う。なまえに余裕があるのは講義がもうすぐ始まるからだろうが、フェリクスはそれでも構うつもりはなかった。
だがあのなまえである。そんな作戦に頼らずとも己の体一つでフェリクスから逃げることができるのだろう。そう気がついた時には遅かった。
なまえはフェリクスの首の後ろに腕を回して抱きつき、胴に両脚を絡めた。
一瞬の出来事だった。予測不可能な行動でもあり、フェリクスは反応できなかった。
自分に巻き付くなまえは見た目以上に重く、重心が前に傾く。なまえは軽やかに飛んで見せていたが、筋肉はそれなりにあるのだろう。
しかし問題はなまえの重さではなく、この状況である。
なまえのことを武術を志す一人の人間と見ていたフェリクスも、流石に抱きつかれては女を意識せざるを得ない。急激に顔に熱が上ってきて、のぼせたように視界が揺れかける。
それに「これじゃあ何もできないでしょ?」と至近距離でケラケラ笑うなまえの笑顔から目が離せない。まるでフェリクスから何もかも吸い取るような蠱惑的な笑みに、胸に落ちてくる髪から花のように立ち上ってくる香りに、体に触れる柔い感触に、フェリクスは暫くの間固まってしまった。
しかし状況を受け入れ、周りの騒めきや野次が聞こえてくるうちに我に返り、なまえの服を掴んで引き離そうと奮闘した。
「おい!何をする!離れろ!」
「嫌。もうわたしを誘わないと約束するまで離れない」
「こいつ……!」
なまえとの手合わせを諦めるつもりはないフェリクスはなんとしてでもなまえを引き剥がそうともがきながら、咄嗟の機転で空いている机の上に伏せるように倒れ込んだ。机と自分の体でなまえを挟んで圧迫する寸法である。
「考えたね」
フェリクスに体重をかけられ、なまえは苦しそうな声を出す。
「このまま押し潰されたくなかったら俺から逃げるな」
「逃げてるのはフェリクスくんからじゃないよ……それにフェリクスくんは甘過ぎるよ」
なまえはまた何かを仕掛けるらしく、スーッと息を吸い込む。
「きゃあああああっ!助けて、クロードくん!ローレンツくん!」
鼓膜を裂くようななまえの叫び声は教室中に鳴り響き、教室の一部だけに留められていた騒ぎはやがて全体に広がっていった。
「なっ……女性になんてことをしているんだフェリクス……!」
「おーと、これはこれは……」
駆けつけてきたローレンツは白い顔を赤くさせて非難し、級長のクロードは面白い玩具でも見つけたように笑う。
なまえが首の後ろで絡めていた手はフェリクスの肩を押し、胴に巻きついていた脚は胴の横で宙を掻くように暴れ、いつのまにかフェリクスが無理やりなまえを襲っているような構図が出来上がっていた。
客観的状況に気がついた時には既に遅く、周りの非難がましい目と囁きにフェリクスはその場から逃げるしか選択が残されていなかった。
*
振り返ると、我ながらなんてことをしたのだろうと思うが、今考えてもなまえに抱きつかれた後は体重をかけることしかなまえを引き剥がす方法がなかったと思う。
それにしてもなんて女なのだろうか。相手を無力化する為に抱きつくなど──いや、接近戦においてはなくはないのだが──あんな人のいる教室で武具も付けていない薄い制服しか隔たりのない格好で、それもスカートで抱きつくなどとんでもないことだ。
『これじゃあ何もできないでしょ?』
なまえの笑顔が何度も頭を過ぎると同時に鼻腔を通って脳を蕩かすような甘やかな香り、それに柔らかな体を思い出す。
「クソッ……!」
なまえの幻影を振り払おうと、フェリクスは武器入れから錆びた訓練用の剣を手に取り、素振りを始めた。
強さに必要なのは揺れない心。今のままではなまえに勝てない。次に手合わせする時になまえがあんな淫らなことをしなくとも、対面するだけで動揺して剣を振ることすらできなくなってしまう前に雑念は捨ててしまわねばならない。
心といえば、ヒルダによるとなまえは最近何かがあったらしい。その所為でベレト以外と手合わせする気がないのなら、その原因を探り解決すべきだろう。
そうすれば、またなまえと戦える。当然その前になまえと会っても平気でいられる心を取り戻さねばならない。今は後者の方が優先事項だ。でないと、なまえの抱えている問題を探る会話すらできないだろうから。
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