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本を読むのも装丁を愛でるのも好きななまえが今一番興味を惹かれているのは好きな連続小説に出てくる焼き菓子である。
その焼き菓子は主人公の携行食で絶頂する程美味しいらしい。主人公はそれを推理に行き詰まった時に食べる。すると忽ち全ての謎が解け、その土地の冒険は華やかに終わり、最後に大切な恋人と夢のような情事に溺れるのだ。なまえはその連続小説の巻を追うごとに主人公の食べる、魔法のような菓子が気になって仕方がなかった。
一度自作を試みたが、味の決め手となる原材料の花の種類が何かわからない為か、あるいは料理の経験不足の為か、なまえは主人公が絶頂するという程のものは作ることができなかった。
「……ということで、料理上手なボネなら天にも昇るような心地になれる焼き菓子が再現できるんじゃないかって思って……お願いできる?」
夕暮れの見晴らしの丘で、今にも炎を舐めそうな顔をして焚き火にあたっているボネになまえはお願いをする。
ボネとは彼の怪我を応急手当てしたことがきっかけで最近よく話す仲になっていた。
「勿論、その焼き菓子とやらに私も興味があるから作りたいが……原材料の花の特徴は書いていないのか?」
ボネはなまえが大事そうに胸元に抱えている本へ視線を向ける。
「濃い桃色の花弁で、丈は成人男性の腕くらいの長さみたい」
「それだけではわからないな……一度その本を貸してくれないか?」
「だ、駄目……!」
なまえは本を抱える腕に力を込めて身を引く。本はあまりにも不健全なもので、知り合いに見せられるものではない。特に最後の章の生々しい大人の情事を見られでもしたら、なまえは羞恥に狂ってしまうだろう。
主人公が焼き菓子を食べて絶頂することを、「天に昇る」と言い換えて説明したくらい、なまえは大人な本を読んでいることを周りに知られたくない。
そんななまえの事情を知る由もなく、ボネは表情を曇らせる。
「物語を読んだ方がより味の再現をできるかと思ったのだが……」
「じゃ、じゃあ……わたしが読むから……それならいい?ボネも目の前になければ紙食べるの我慢しなくていいものね?」
主人公と恋人の情事の箇所だけは飛ばして読もうとなまえは内心画策して提案し、ついでにボネが本を食べないように牽制する冗談も付け加える。
「私は山羊か何かか……?」
流石に紙は食べないぞ、とでも言いたげな目をするボネから本の文字が見えないようになまえは丸太の上に腰を下ろして本を開き読誦を始めた。
*
「……そうして焼き菓子でぜっ……天にも昇る心地になって全てを解決した後に恋人を宿屋に誘い……ました……これで終わり……」
本当はこの後主人公は恋人と激しい夜を過ごすのだが、なまえは無理に終わらせて本を閉じる。昨晩寝床で読み直した際にその激しさに悶々としたことを思い出し、頬が熱くなる。
長いことボネは焚き火を見つめながらなまえの声に耳を傾けていたが、ふとなまえの方を向くと穴の開く程じっと見つめてくる。
「どうしたの?つまらなかった……?」
「いや……心踊るような冒険と、驚くような裏切り……そして甘美な文章となまえの麗しい声は素晴らしかった……」
「それならよかったけど……焼き菓子作れそうかな?」
予期せず声を褒められてなまえは気恥ずかしさに閉じた本に目を落とす。
「香りを嗅いでもいいか?」
「へ?」
ボネの質問の意図が読めず、なまえは固まる。そんななまえにお構いなしにボネはなまえと同じ丸太に座り、距離が近くなる。
「体に触れても?」
「なんで……?」
ボネの懇願するような問いになまえは小首を傾げる。
否定も肯定もしないなまえに痺れを切らしたのか、ボネはなまえとの隙間の丸太に手をついて、身を乗り出し……なまえの首筋に顔を近づけてきた。
「ちょっと……」
匂いを嗅ぐようにスンスンと鼻を鳴らすボネになまえは逃げるように顔を背ける。首にボネの吐息を感じてゾクゾクと何かが背を駆け抜け、心臓の鼓動が速くなる。
「とてつもなく芳しい香りがする」
「……か、芳しいって……?なんで?」
「それはこちらが聞きたい……突然私の鼻をくすぐってきたのだ。なまえから漂ってきているのは間違いない……」
「や、やだ……どんな匂い?臭いの?」
「とんでもない!みずみずしい甘い果実のようなとても良い香りだ……舐めても?」
ボネはなまえの香りを吸い込むようにスーッと深く息を吸うと、しっとりとした声音で聞いてくる。
一体どこを、とは怖くて聞けずなまえは丸太から立ち上がってボネから後退った。
「舐めるのは駄目!」
「では口につけるのは?」
「それも駄目……!そんなことより、焼き菓子作ってくれるの?」
「そうだな……幾つか試してみて作ってみよう。それでなまえを天に導いてみせよう」
人によっては死を予感させる言葉であるが、なまえはなんだかいやらしい方に考えていた。それはなまえが耳年増であるからというよりも、ボネのしっとりとした囁くような話し方や先程の大胆な行動によるものだ。あのままボネに体を舐められでもしたら本の主人公が恋人と共に味わう絶頂のようなものをなまえも体験するのではないかと妄想してしまい自己嫌悪した。
「じゃあ、楽しみにしてるね。またね」
なまえはなんともないような様子を装って本を抱えてそそくさとその場を後にした。
*
翌日、なまえはボネに呼ばれてカフェテラスにて数十種類にも及ぶ焼き菓子の試食をしていた。菓子はどれも美味しいものであったが、あの物語の主人公のように絶頂する程のものではなかった。
「色々な花を刻んだり、すり潰したり、蜜だけを抽出して使ってみたりと試してみたのだがどれも違うみたいだな」
テーブル席に着くなまえの側に立つボネはなまえの顔を観察するように見下ろす。
そんなボネの視線になまえは緊張するが、そんなことは表に出さずいつも通りに振る舞う。
「でも全部美味しかった……ボネ、昨日の今日なのにこんなに沢山作ってくれてありがとう。お花集めるのだって大変だっただろうにそれを色んな手法で加工するなんて凄いよ。なんて御礼したらいいか……」
「礼など不要だ。これは私の探究心によるものだ。天にも昇る心地にさせる料理を作り出したい、なまえをそのような高みへ昇らせたいという一心だからな」
「そっか……それならむしろ焼き菓子を再現する手伝いをした方がいいってことだよね?」
なまえはボネの際どい言葉選びに反応しないようにして聞く。
「そうだな……そういえば、なまえの読んでいる小説は続きがあると聞いている。昨日読んでくれたものは一冊目か?」
「うん。三冊中の一冊目だよ」
「それなら残りの二冊も読んでくれないか?その方がより焼き菓子の正体を掴めると思う」
「時間かかるけどいいの?」
「一向に構わない。その焼き菓子を再現するまでは、なまえを天へ押し上げるまでは幾らでも時間を使おう」
「ありがとう……こんなに労力を使うことに付き合ってくれるなんて……本当になんて御礼を言ったらいいかわからないよ」
「本を読み上げる方が大変だと思うが……現に時折躓いていたみたいだからな」
「そ、それは……」
ボネの言う通りなまえは何度か吃ったり、言葉に詰まることがあった。だがそれは読誦が大変だからではなく、淫らな表現を別の表現に言い換えたり、そもそも読まないように飛ばしているからである。
ボネには読まなかった淫らな描写の数々を思い出してなまえは顔に熱が上るのを感じる。
「ん?……何やらまた芳しい香りが……」
「ひぁ……」
なまえの耳元にボネの鼻先が当たり、なまえは昨日のように顔を背けた。心臓が一瞬にして激しく打ち鳴り始め、胸の辺りが苦しくなる。
なまえがこの前のように逃げるように立ち上がらずその場に固まっていると、ボネはハッと我に返ったようになまえから離れる。
「驚かせてすまない……心惹かれる香りがしたものでつい香りの素を辿ってしまった」
「う、うん……そうだよね。それは仕方ないよね……」
そう誰が相手でも気になることがあればボネはそういうことをしてしまうのだ。赤子が何でも口に入れてしまうようにボネは気になるものはなんでも嗅いだり舐めたりしたくなる。例えそれが友達の腕だったり、神竜の召物であったり、荘厳な教会の柱であったり、なまえの体の一部であったりと対象は問わない。
なまえはボネに恋をしているわけではないのだが、ボネにとっては自分は数ある興味の中の一つであろうことがなんだか寂しいような残念な気持ちになった。そしてその自分への興味はなまえ自体というよりも香りだけであるというのが余計に侘しさを感じさせる。
なまえが辛そうな表情でいると、ボネもなまえの表情から何かを読み取ったのか眉を垂らす。
「嫌いになったか……?」
「え!そんなことないよ!ただ驚いただけだから……」
「嫌われていないのなら良かった。それならもっとよくなまえの香りを確かめる為に舐めてもいいか?今この瞬間も香りに深みが増している気がする……」
「それは駄目!恥ずかしいから駄目!」
「それは残念だ……では、本の続きを読んでくれないか?二冊目があるのだろう?」
「うん。今持ってくるよ」
なまえは二冊目の本はどの辺りに官能描写があったか思い出しながら本を取りに部屋へ戻った。
部屋で一人になると、はぁとため息をつく。漸く緊張から解放されたが、またボネに会うことを考えるだけで緊張して体が固くなる。
「うぅ……現実の耐性がないからかなぁ……」
幾ら恋愛小説を読もうとも、実際に異性にあんなことをされては動揺してしまう。周りの女性はどうボネに対処しているのだろうか、という思考に及んだところでチクリと胸が痛む。
他の女性を舐めようとするボネを想像するのが苦痛になり、ボネに読んだ続きの本を棚から取り出して軽く中身を確認する。困ったことに二冊目が全三冊の中で一番官能描写が多いことをたった今思い出し、二冊目を読むこと自体を躊躇った。
*
なまえは重い足取りでカフェテラスに戻ると、テーブル席に着いて菓子を食べている人が増えていた。「余った菓子を振る舞っていたんだ」と微笑するボネになまえは階段脇のソファに案内される。
そこで朗読するのはいいのだが、三人掛けのソファのはずなのに隣に座るボネと腕同士が触れてしまう。いくらボネの体格が大きいとはいえこんなに狭いはずがない、と確認するとボネがなまえの方に寄っているだけである。
「さぁ、なまえ。その麗しい声で続きを読んでくれ」
「うん……」
なまえは離れて欲しいと思いながらも特に口には出さず、ボネからあまり本の内容が見えてしまわないように本を開く幅を狭めて読誦し始めた。
主人公が恋人と真昼間の森の中で戯れる箇所は飛ばしたり、主人公の淫らな台詞は言い換えたりしてなんとか朗読を終える頃にはなまえは顔だけでなく、体まで火照っていた。
隣のボネからずっと視線を感じるわ、腕越しに体温を感じてしまうわ、官能描写を飛ばしながらも頭にはその光景が浮かんでしまうわで冷静ではいられなかった。
今もボネの顔を見られず、顔を俯かせている。
「ということで、二冊目は前作と流れは一緒なんだけど一番恋人と過ごす時間が多いの。焼き菓子の描写は前作と殆ど変わらずで、原材料の花の色が今作で初めてわかるくらいかな」
「……」
先程からボネが何も言わないので、なまえが沈黙を埋める為に総括したのだが、それでも反応が返ってこない。
なまえは思いきってボネの方を見ると、ボネは酒でも飲んだような夢見心地な瞳でじっとなまえを見つめていた。
「な、なに……?何か変だった……?」
「なまえ……すまないが私はもう我慢できそうもない……今すぐなまえの味見をさせてくれないか」
ボネは苦しそうに胸元を押さえて懇願する。
心に迫るような訴えになまえは動揺してポロリと大切な本を落としかけて宙で掴み直した。
「ボネ……クランとかが見てるし、そういうの、駄目だから……!」
なまえは離れたテーブルでボネの作った焼き菓子を手にしたまま空いた手で目元を覆いつつもこちらを見ているクランや、「まぁ!」と顔の横で両手を合わせて微笑んでいる、友人のクロエらを横目にボネを説得しようとする。
「誰も見ていなければいいということか?」
「そうじゃなくて……!わ、わたし、もう行くね……!」
なまえはカフェテラスから飛び出すと、ちょうどディマンドと話していたアンバーにぶつかってしまい何やら硝子のようなものが砕ける音がした。
「大丈夫か?」
「なまえ……!」
側にいたディアマンドと走り寄ってきたボネに声を掛けられるが、なまえは側頭部の痛みと平衡感覚を失ったようなふらつきを覚えて真っ直ぐ立てなくなっていた。それでもなんとか歩こうとしてよろけ、倒れかけたところをボネに支えられる。
「瓶が割れている……怪我はないか?」
なまえのぼやけた視界にボネが映る。おまけに声がくぐもって聞こえる。
「ボネ、わたしに近づかないで……」
なまえはくらくらする頭ですっと思いのままを口にする。別に失礼なことを言っている自覚はなく、素直な気持ちが勝手に口をついて出てきてしまう。
「やはり嫌いになったのか?」
「ううん。違うの……その逆。近づかれてあんなことされたら好きになっちゃうからもう近づかないで」
「なまえが私を好きになって困ることがあるのか?」
「困るよ……人を好きになるって辛いことだから……」
「……かつて好きになって辛くなったことがあるのか?」
ボネの問いかけは頭に入ってこず、ふっと突然なまえの視界が晴れて頭がすっきりと元に戻る。
漸く周りを見ることができて初めてボネに肩を抱かれていることに気がつき、慌てて離れた。
「ご、ごめん……わたし、なんでこんなこと……」
後ろを振り返ると、ディアマンドとアンバーが不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「あれ?ディアマンド王子にアンバー……どうされました?」
「いや……ゴホン。私達はただ世間話をしていたところだ。行くぞ、アンバー」
「俺はディアマンド様だけでなく、なまえも大好きだぜ!二人とも雰囲気がアルパカに似てるからな!」
「……お前も吸っていたのか」
ディアマンドが呆れたように言う。
なまえはというと、アンバーに好意を伝えられて動揺したが、ディアマンドと同列であることとアルパカに似ていると言われたことですぐに落ち着きを取り戻した。
「吸ったとは?この割れた小瓶が関係しているのですか?」
ボネはなまえとアンバーの間に入ると、アンバーの隣にいるディアマンドに聞く。その視線を追ってみると、少し離れたところに割れた瓶の破片が散っているのがわかる。
「ああ。それは匂いを吸うと本音を話すという秘薬だそうだ」
本音を話す秘薬と聞いてなまえは悪い予感がして片手で口元を覆った。まさか頭がぼんやりしている間に何か口走ってしまったのだろうか。それもボネだけでなく、ディアマンドとアンバーの前で。
なまえはいたたまれず、「失礼します!」と叫んでその場から逃げ出した。
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