alcryst2
遠くの黒い山の上から黄金の光が空の藍を徐々に押し上げていく。そんな夜明けの刻になまえはスタルークと凍てついた湖の上を歩いていた。
厚い氷に覆われているとはいえ、転んで割れてしまう可能性もあるので二人は慎重に一歩一歩進んでいくのだが──
「わっ……」
なまえは足を滑らせて体勢を崩し、上体が後ろに傾いてしまう。
「なまえ……!」
スタルークに腰を抱きかかえられてことなきを得たのだが、なまえの胸の辺りは無事ではいられなかった。
過去にも魚を釣り上げる時に密着したことはあったのだが、何故だろうか。空気が薄いという要因以外のことで心臓が強く鼓動している。息がしづらい。
「大丈夫ですか?わ、す、すみません!気安く触れてしまって……ああ、でも危なくてまだ離せません……!」
「もう大丈夫です。ありがとうございます……」
なまえはスタルークに寄りかかりながら体勢を持ち直す。靴の装備を確認したいが、下手に動いたらまた転倒してしまいそうなのでやめておいた。
「……て、手を繋ぎませんか?」
「え?」
自然の流れともとれなくはないのだが、スタルークからのそんな申し出は意外なことでなまえは耳を疑って聞き返すと、スタルークは両手を体の前で慌ただしく左右に振る。
「あ、いえ、その、す、すみません……!僕みたいなゴミとは繋ぎたくないですよね……!手を繋いだ方が安全かと思ったのですが、僕がなまえの下敷きにならせてもらえば解決ですね。いつでもなまえと地面の間に体を挟み込めるよう努めます!」
「わたしはスタルーク王子と手を繋いだ方が安心できます……繋ぎたいです」
「ひ、ひぇ……そんなこと言っていだけるなんて身に余る光栄です……!ぼ、僕なんかの薄汚い手でよければ、どうぞ……いえ、汚い手を出すのも失礼ですが、一応凄くいい革手袋なのでどうぞ!」
スタルークが手袋に包まれた手を差し出す。厚い布越しでもわかるほど震えている。余程寒いのだろう。
それもそうだ。何せ湖の上を歩ける程に凍っているのだから。
なまえはスタルークの手を取って、再び慎重に歩き始める。
派手に転ぶ心配はなくなったはずなのに、緊張が高まる。
昨晩こっそりと一人で来たところまで辿り着くと、スタルークは前を向いたままあっと声を上げる。
「あそこ、小さな天幕が張ってあるように見えるのですが……」
「……あれ、わたしが真夜中にこっそり設営した天幕です」
「ええ、いつの間に?わざわざ暗い中でどうしてですか……?何か理由が……?」
「近くまで行きましょう」
なまえが誘うと、スタルークは疑うことなく歩みを進める。
天幕の手前まで行くと、なまえは立ち止まりスタルークを見つめる。
互いに耳まで覆う帽子を被り、顎から首に掛けて布をグルグル巻いて顔が少し隠れているが、表情くらいは見て取れる。今は不思議そうな顔をしている。そんなスタルークの顔が笑顔になればと願いながらなまえは刻を待つ。
「なまえ……?」
「もう少し待っててください。陽が昇れば……」
段々と遠くに見える黒い山の塊が、陽に照らされて色彩を露わにする。
「夜が明けてきましたね……太陽は僕には眩しすぎて直視できませんが、日陰者の僕に居場所を作ってくれるので好きです」
「……太陽は陰となるはずの場所も照らしてくれることもあるんです。そしてその場所はとても美しいんですよ」
山間から陽が差し込み、氷上が朝焼けの色に染まる。草原などでは作ることのできない唯一無二の絢爛な景色だ。
「凄い……氷の色が綺麗に反射されてます」
「この美しい景色もずっと見ていたいですが、スタルーク王子にもっと見ていただきたいものがあるんです。穴が空いているので足元に気をつけてくださいね」
なまえはスタルークを誘い、こじんまりとした天幕に入る。椅子がわりに木を敷き詰めた上に布を敷いたところに二人で並んで座った。
「わあ……凄いです……!」
スタルークが目の前の氷面に空いた穴を覗き込む。
「太陽の光で湖底がエメラルドに輝くんです……更に天幕で陽光を遮ると反射でより鮮やかな美しい色に見えるんです」
「よく見つけましたね。一体どうして……」
「氷上釣りをしてみたくて、パネトネと探していたらこんな場所を見つけたんです」
パネトネの方は氷上の幽霊伝説について調べていたということは言わない方がいいと思い、なまえは伏せて話す。
「……本当に綺麗なところです。こんな素敵なところを僕なんかに教えてくださるなんて……嬉しいです」
「喜んでいただけたみたいでわたしも嬉しいです。エメラルドなんてブロディアでは珍しい色ではないでしょうが……」
「そんなことないですよ……!宝石と景色は別ですし、比べたとしてもこの景色はただの宝石よりも何百倍、何千倍と価値があると僕は思います」
「……スタルーク王子にそう言っていただけて嬉しいです」
こんな寒くて冷たいところ、スタルークは嫌かもしれないと、ここに来るまで何度もなまえは思い悩んだ。だが、今はスタルークと来れて本当によかったと心から喜べた。
「……い、今大きな白い魚が下を通りました……!
「白い魚?行ってしまったみたいです……」
以前パネトネと来た時は小魚しか獲れなかったのだが一体どんな魚だろう、と期待して穴を覗くとエメラルド色の美しい冷水が揺蕩うのみで見当たらない。
「一瞬でしたが、大きな魚でした……」
「スタルーク王子のおかげで寄ってきたみたいですね。小魚用の釣り道具しか今日はないので、また見られることを期待して釣りをしましょ?」
「はい。この前みたいに沢山釣れるよう頑張ります!といっても静かに待つだけですが……」
「それがスタルーク王子にしかできない才能なんですよ」
「そうですね。僕の才能を生かしてなまえが小魚を沢山釣れるように魚を引き寄せます!」
「頼もしいです」
互いに朗らかに微笑み合う。凍えるような寒さの中でもスタルークが隣にいたらなまえは温かな気持ちになれた。
*
広大なソラネルで人探しは難しい。通り過ぎの人に尋ね人を聞いて、さっき見たよ、と教えてもらった場所に行くと既にいないなんてことはよくある。ことスタルークを探すことにおいては誰もその居場所を知らないことが多く、なまえはいつもスタルークを見つけるのに苦労していた。
だから最近ではなんとなくスタルークの居そうな場所で彼が来ることを淡く期待して刻を過ごす。今日は動物小屋でピョンウサギの観察をしながら餌やりをしていたところ、スタルークが柵の内側へと入ってきた。
「なまえ」
「スタルーク王子。どうかしましたか?」
スタルークはもじもじとと落ち着かなく、なまえの顔を伺うように見てはピョンウサギに目を落とす。
「なまえに渡したいものがありまして……」
そう言ってスタルークがおずおずと両方の手の平を上に向けて差し出す。手の平には上品な光沢を持つ布が一枚とその上に長方形に整えられたエメラルドに燦然と輝く宝石が乗っている。
「これは……エメラルドの宝石ですか……?」
「はい。ぼ、僕の気持ちです。受け取ってください……!」
スタルークはそう言うが、なんの気持ちだというのだろう。なまえは何故スタルークが自分に見合わない価値のものを差し出すのか心当たりがなく動揺する。
「これ、高いですよね……?こんな高価なもの、受け取れないです……」
自分の出生地すら知らず、運良くミスティラに臣下に置いてもらった身分。戦場でスタルークを救ったわけでもなく、宝石を与えられるような働きもしていない。宝石を受け取れば、スタルークとの関係が変わってしまうようで恐ろしい。いや、そもそも一体どんな関係だというのだ。スタルークはブロディア王国の王子で、自分は運良くなれたソルム王国の王女の臣下。
なまえは今更ながらにスタルークが一国の王子であること、彼が如何に遠い存在であるかを再認識して暗い気持ちになる。
「す、すみません!突然過ぎましたよね!ち、違うんです!僕がなまえにあげたいと思ったから……この前の湖の思い出に、二人の思い出にいいかなと思ったからでして……はは。あの時、あの湖のエメラルドの方が価値があると言ったものだから贈り物としても微妙ですよね……贈り物のセンスすらなくてすみません……」
スタルークはもともとの下がり眉を更に下げて泣きそうな顔で何度も謝る。スタルークのそんな表情と言葉はなまえの胸に重くのしかかるが、受け取れないものは受け取れない。
「そういうことでしたか……贈り物はなんであれ気持ちが籠っていればとても嬉しいです。ですが、ごめんなさい。高価なものはちょっと……」
「……すみません……次はなまえが受け取ってくれるようなものをもう少し考えてみます……」
「待ってください……スタルーク王子のお気持ち本当に嬉しいんです。このエメラルドの宝石は確かにあの凍った湖のことを思い出します。王子と二人で出掛けることは全てわたしの大切な思い出だから、あの時のことを思い出したい時、この宝石を見に行ってもいいですか?」
「もちろんです……!最近毎日この宝石を持ち歩いて思い返しているのでいつでも声を掛けてください!」
「持ち歩いているのですか……?」
「あ、その、気持ち悪く思われたらすみません……!なまえが嫌だったらすぐに可及的速やかにやめます!」
「嫌ではないです……わたし、用がないのにスタルーク王子に話しかけたいといつも思っています。話しかける理由できて良かったです」
「……実は僕もいつもなまえに話しかける理由を探してます。何回か話しかけられずに通り過ぎてしまったこともありました。かっこ悪いですよね……ですが僕はもう逃げません……!なまえ、先ほど僕の気持ちを受け取ってくださいと僕は言いました。それはあなたのことが好きだから、僕と同じ気持ちなら受け取って欲しい、という意味で言ったんです……」
さわさわと気持ちのいい柔らかい風が動物小屋を吹き渡るが、なまえの胸はひやりとした冷たさに締め付けられて息苦しい。
嬉しい言葉であるはずなのにどうしても負い目が喜びを阻む。
「……そう、でしたか……わたしも同じ気持ちです。スタルーク王子のこと、お慕いしています……ですが、わたしの出生はいいものではありません……」
今度はなまえの方がうじうじする番であった。なまえは伏目がちにスタルークから視線を逸らし、体をもじつかせる。
今思えば、スタルークを初めて釣りに誘う前から彼のことを気にしていた。臣下や動物に優しく、弓の技量向上の為に矢羽にも気を遣う丁寧な人。実際に話してみれば、自分のことは卑下するのに他人のいいところばかりを見つけてくれる善良な人。気がつけばスタルークの人柄に惹かれていた。
早く手を引くべきだった。だが、もう遅い。なまえの心はすっかりスタルークに奪われていた。
「あなたは自由の国、ソルムの国で育ったんですよね。なまえはソルムの民らしく、自由を謳歌し、強く、賢く生きているように見えます。僕はそんななまえに憧れるのと同時に好意を持ちました。だから、ご自分の出自に縛られずに僕と一緒にいて欲しいです」
「スタルーク王子……」
しっかりと芯を持った声音で発せられるスタルークの言葉はなまえの胸に温かく響く。
「改めて聞きますね。これを受け取ってくださいますか?」
いつも自信のなさそうな眼差しはいつになく熱の籠ったような色を湛えなまえを見つめる。赤紅の双眸がいつか他の誰かに向けられたら、なまえは多分耐えられないだろう。後悔はしたくない。
「はい……」
なまえは震える両手で宝石を戴き、その重みに驚く。このような宝石を渡せるような高貴な人と人生を共にすることの重さを感じざるを得ない。だが、スタルークの為ならなまえはその重みを背負い続けて彼を支えるつもりだ。
「受け取ってくださり、ありがとうございます。今のブロディアには凝った意匠の指輪や首飾りを加工する技術はありませんが、いつかその宝石をあなたに似合う立派な装飾具にできるよう兄上と共に国を発展させたいと思います。だから僕を信じてそれを持っていてくれたら、僕は嬉しいです」
「大事にします。ディアマンド様を支えるスタルーク様を、わたしは支えたいです」
なまえは宝石を包みにしまい、大事に胸元に抱く。
「ああ、そうだ。ミスティラ王女に先にお伝えすべきでしたよね……?なまえはミスティラ王女の大事な臣下ですから」
「うちはそこも自由ですよ?スタルーク王子が気を遣わなくてもミスティラ様はお気になさりません。むしろそんな報告をしてしまったらわたしを祝おうとソラネルで騒ぎになってしまうと思います」
「そうなんですか?ですが、お祝いはいいことですし、挨拶はしておきたいので後ほど伺いますね」
なまえは自分の主がどういう人であるかを身をもってスタルークに知ってもらう為、スタルークを止めはしなかったが、早めにソラネルの中でも一番目立たない場所にスタルークと二人で避難することにした。
案の定【ソルムの騒音】の本領発揮と言わんばかりに、夜通しミスティラと臣下二人の小恥ずかしい歌詞の歌が聞こえ、絶えず肉を焼く匂いまで漂ってきた。
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