金光の明滅
寮の自室でナマエの顔中に口付けたことが忘れられなかった。ナマエの柔い手のひらが服の上から俺の下肢に触れたこともよく思い出す。その数秒後にはナマエが何を触れているかに気づいた時の反応も可愛らしくて忘れられない。
あれから唇以外ならどこに口付けてもナマエは許してくれたし、ナマエから俺に抱きついたり、頬に口付けてくれたりすることもある。ナマエとの距離が一気に縮まったことはまさに夢のようであるが、そろそろあの果実のような赤い唇を──
「ねえ、次の週末なにするの?クロードくん?聞いてる?」
ナマエが怒ったように唇を尖らせ、俺の顔の前で手を振った。
休憩時間の合間に教室の外でナマエと話していたはずが、意識が半分以上記憶のナマエの方にいっていた。どちらにせよナマエについて考えていたのだから悪いことではないが。
「もちろん聞いてるさ。考えてみたんだが……俺もアネットの為に何かしてやりたいんだ。アネットが気に病んでいる──男のこととか病気の馬のこととかさ」
メルセデスから最近聞いたばかりのことだが、ナマエが俺に「したいことをしていいよ」と夢のようなことを言ってくれたのは、アネットが「クロードが他の女の子にとられないように!」とナマエに言ってくれたお陰らしい。俺はナマエ以外の女にとられる気はないが、アネットの言葉がナマエに効いていたのは確かだ。つまりアネットは俺の恩人ってわけだ。恩に報いてアネットを助けてやりたい気持ちがある。そうでなくとも、ナマエの大事な友達となれば気にかけたい。
「馬は体調が回復しているところでアネットちゃんも安心してるよ。ただ最近フィンドルフくんにベタベタしてる女の子がいて……」
「フィンドルフ?アネットが好きなのはあいつなのか?」
フィンドルフは確かナマエと温室の当番が一緒のヤツだ。ヒルダ曰く、ナマエには興味がなさそうとは聞いていたからあまり気にしていなかったが、まさかそいつがアネットの想い人とは思わなかった。
「あれ?聞いてなかったんだ……じゃあ、アネットちゃんには内緒にしてね!誰が好きかクロードくんに教えちゃったことをアネットちゃんが知ったら嫌な気持ちになっちゃうかもだから」
「それなら黙っとくよ。なあ、当番でフィンドルフとそのことについて話さないのか?」
「それが、『最近気になる子いる?』って聞いたら、『僕に毎日まとわりついてる女の子がいるけど別に……』って。アネットちゃんのことには気づいてないみたいだから、『あなたのことを好きな一途で素敵な女の子がいるからもっと周りをよく見て』とは言っといたよ」
「うーん。あいつは鈍そうだからな……ここは俺が暗躍してみるか」
「暗躍?一緒におまじないのお花取りに行ってくれるってこと?ありがとう!クロードくん、優しい!」
ナマエは俺の両腕を握って満面に笑顔を浮かべた。
「暗躍」と言った意図は、フィンドルフとアネットをくっ付ける為に根回しをするつもりだったのだが、ナマエの笑顔を見たら何も言えなくなった。
*
週末の朝。今までの散策とは違い、今回は事前にナマエが探している花のことを調べてから出立の準備をした。この日の為に毎日書庫に籠りきり、ナマエの探している花は恐らく亜熱帯に群生する木に咲く花ではないかと突き止めた。その木の花はアドラステア帝国が原産で、帝国では『香油の木』と呼ばれ、その樹木の咲かせる花から抽出した成分が香油に使われているらしい。ここからが興味深い話で、木の花は夜になると香りを増し、そのクセの強い甘い香りには催淫効果があり、枯花になる頃には黄色く染まるらしい。つまり、その『香油の木』は夜にその特性を発揮し、成長後期になれば花が黄色くなり、ナマエの言っていた『白い陽が燃え尽きる頃に咲く黄金の花』としての表象にぴったりな特徴を持つ。大修道院でも手に入らないか調べたが、流通しているのはアドラステア国内のみで、商人が他国へ持ち出して売ることを禁止しているらしい。
このことを大修道院の森でナマエに話すと、「伝説でもなんでもなかったんだね。それにアネットちゃんは優しくて賢くて可愛いからそんなよくわからない匂いがなくてもなんとかフィドルフくんと上手くいくもん……」と落ち込んじまったが、俺は諦めるつもりはなかった。
「男は結構匂いに敏感だぜ?聞くと、アネットはフィドルフの前だと緊張してあまり話せてないんだろ?男を誘う匂いを付ければ、フィドルフに興味持ってもらえるかもしれないぜ?」
「匂いだけでそんなに変わる?」
「きっかけにはなるさ」
「そうなんだ」
「ま、とにかく行こうぜ?」
「行くって?修道院の森で見つからないなら、今日は散策だけして帰ろ?」
「今から行くのはアドラステアだよ。入国許可証は手に入れたし、たまには泊りがけの旅もいいだろ?」
「アドラステア帝国……?私、行ったことないから怖い……でも、アネットちゃんの為なら行くよ!クロードくん、アネットちゃんの為にここまでしてくれてありがとう!」
ナマエが俺に抱き着いてきた。こんなに勢いよく抱きしめられたのは初めてで一瞬戸惑っちまったが、すぐにその小さな背中に腕をまわして力強く抱きしめ、ナマエの体の柔らかさや温もりを少しの間感じた。ずっとこうしていたいが、今はこんなにのんびりしている暇はないから、なんとか理性で抑えてナマエを離し、幸福の時間を終わらせた。
事前に森へ隠していた、士官学校で一番体力のある飛竜を呼び、それにナマエと乗ってアドラステア帝国を目指した。
*
アドラステア帝国から一番近い商業街に着き、そこで『香油の木』の香油を手に入れた。怪しい露店から買ったものだが、ちょうど身なりのいい女性とその使用人らしき奴が大量に購入していたのを見て信じることにした。
そこから大修道院へ戻るのに、急いで飛竜を飛ばしていた。学校には『家の用事』といって休みをとったが、ナマエとふたりで何日も消えるわけにはいかなかった。
幸運にも今日の夜空は満月と星がよくでていて夜目が利く。それに向かい風はなく、飛竜を飛ばすことで漸く風が感じられる程度だ。
「月、綺麗だね。まだ低い位置にあるけど、今日は黄金色だね」
「そうだな」
俺の前で飛竜にまたがるナマエが少し俺を振り向いて笑った。昼間のナマエも魅力的だが、月下のナマエは可愛さが増していて、肌は玉のような美しさだ。
「ナマエ」
飛竜を制御する手綱を片手で持ち直し、振り向くナマエの輪郭に沿うように手を当て、滑らかな頬へ軽く口付けた。
そのまま鼻先をナマエの鼻先へくっ付け、ナマエを見つめた。
「クロードくん……?」
「知ってたか?今日で付き合って一節だ」
「……知ってたよ」
ナマエは小さく呟くと、瞳を閉じた。どうやらこれ以上言葉はいらないようだ。
ナマエの輪郭に添えていた手を首の後ろへと滑らせ、顔を傾けてナマエの唇へ自分のを重ねた。
唇の感触を堪能する、というよりは好意を伝えるような軽いものにし、すぐに顔を離してナマエの反応を確認した。ナマエは長い睫毛を上下に跳ねさせるようにして瞳を開けると、俺の制服の上着を握った。
「もう一回……」
「一回だけでいいのか?」
「ううん。こんな素敵な夜空だから陽が明けるまで何度でもしたい」
「それじゃあ、修道院に帰れなくなるぜ?」
「帰れなくなったっていいよ……大好きなクロードくんとずっとこうしてたい」
ナマエは風に揺れる横髪を抑えるようにして耳にかけ、星の光を吸い込んだように煌めく瞳で見つめてきた。甘いナマエの言葉に、胸の内にじんわりとした温かいものが広がっていくのを感じる。
ふと、思い出すのは初めて厨房で会った時の、甘い匂いを漂わせていたナマエだ。その時はナマエのことを何も知らなかったが、知った今もナマエに対する印象は変わらない。──ナマエは砂糖菓子のように甘い、素敵な女の子だ。
絶え間なく瞬く星に、黄金に燃える月、風に揺れて香るナマエの匂い──全てが甘い空間で赤い実りに深く、長く口付けた。