それはある朝、通勤電車でのことだった。
毎日同じ時間の、同じ車両の定位置に立っていた。乗換やら混雑具合やら空調やら……ベストな位置を確立したのは数年前ほど前か。それ以前は別の車両でなんども数多の乗客に揉みくちゃにされ、極端な冷暖房で体調を崩し、途中下車を繰り返していたことか。今の快適車両に比べると地獄の空間そのものだったな。
トンネルに入ると、車窓に反射した乗客の面々が映り込む。彼らをただなんとなく見ていると、いつものタイミングで車両が大きく揺れる。乗客も慣れているからか、さして体勢を崩す人もいない。
乗換まであと2駅。やることもなく、肩の荷物を持ち直して広告へと目を向けようとする。しかし、ふと車窓越しに隣りの乗客が目に入った。
爽やかな雰囲気を纏った大学生らしき男の子が、文庫本を片手に吊革に掴まりながら本を読んでいる。まだ幼さが抜けてないものの、読書に集中するその瞳は真っ直ぐに文字を追っていて凛々しい。姿勢が良いからか、その姿は誠実な人柄を思わせ、なによりも整った容姿が目を引く。
それに加え、彼の服装。Tシャツに『燃えよ我が魂』と書かれていて、そのフォントも赤や橙色で炎を表現しているようで大変熱い代物だった。それさえなければただのイケメンだっただけに、余計気になってしまう。
この子の趣味なのだろうか……趣味も含めて、こんなイケメン見たことーーー
ダダガタンッ!
「わっ、!」
咄嗟に吊革を掴む腕に力を入れるが、突然の大きな揺れに上手く対応できず体勢が崩れてしまった。吊革に掴まっていた手は役立たずも同然の痴態を晒してしまったのだ。体が傾いた方向、大学生とは反対隣りのサラリーマンに「すみません」と一言謝罪し、体勢を整える。そこでようやく電車がトンネルの外に出ていたことに気付いた。
完全に油断してた……静かな車内で声まで出しちゃって恥ずかしい……!ていうか、隣のイケメン大学生に見とれてたってことになるのか……?!うわ、余計みっともない!
二重の痴態に頭を抱えたくなるが、ここは公衆の場。静かに一息ついてから、同じことを繰り返さないように足元を意識しつつ窓の外を見て過ごそうとした。……結局、大学生が気になって何度か視線をやってしまったのだけど。
彼のページをめくる所作や手の骨格などから、どうも貫禄のようなものを感じて変に緊張してしまう。だがTシャツを思い浮かべると、真面目に凛々しく本を読んでる彼とのギャップが面白く、口元が緩みそうになる。見ず知らずの人間に対しては失礼なんだろうけどさ。
あのTシャツは彼自身の趣味なのだろうか。それとも、親兄弟が選んだ服なのだろうか。もしかしたら学内の仲間内で示し合わせて着ているのかも知れない。どんな気持ちで買ったのか。どんな表情で受け取ったのか。何か深いこだわりがあるのだろうか。逆に何もないのか。
すぐ隣にいる男の子の、シャツにまつわる事情を想像すると不思議な気持ちになった。車内の雰囲気や揺れ、窓に流れる景色もいつもと変わらないのに。頭の中を埋め尽くすのは、知らない男の子の、知るはずもない世界。
車内に駅到着前のアナウンスが流れ始め、思考は地に足がつく。さあ、乗り換えだ。駅に到着した車両が止まり、吊り革から手を離す。
ホームへ出る瞬間、どうしても気になってあの大学生を直視してしまった。彼はどうやら降りないようだ。あのまま同じ吊り革に掴まり、文庫本を読みながら到着駅まで過ごすのだろうか。
再び浮ついた思考をすぐさま振り払い、人の流れに乗ってそのまま乗り換えホームへと向かう。それでもやっぱり、目の前に広がる景色はいつもと違くて。朝ってこんなに気持ち良かったかな。明日も、今日みたいな朝だと良いなぁ。