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無印良品で購入したアロマディフューザーにお水とオイルを入れてスイッチを入れる。今日はなんの匂い? と尋ねる彼にハニーアロマだと答えると、ふーん、と気のない声が返ってくる。聞いておいてその答えには興味のない、彼らしい態度だった。
季節は秋に移り変わり、部屋について汗を流すためにシャワーを借りることはなくなった。けれど、彼の服を借りるところは変わらない。薄手のニットを着て定位置に座る。
今日の彼は本を読んでいた。一年に一、二冊は話題小説を読むのでその姿自身は珍しくないけれど、持っていたものが自己啓発本だったから幾許か驚いた。視線で感じ取ったのか「上司に読めって言われただけだよ」と先回りして教えてくれる。いつも思うけど、どうしてそんなにも視野が広いのだろう。
わざわざわたしといるときに読むということは、平日の仕事や練習終わりに読む時間か体力がないのだろう。彼がわたしがいてもスマホゲームをやることはあれど、途中ですぐに中断できないものはやらない。据え置きゲームのRPGとか、今みたいな読書とか。
邪魔してはいけないとサブスクで旅雑誌を眺める。普段はSNSで情報収集をするけど、たまにはこうして特集を組まれたものを見るのもいいものだ。さらっと流し見し終えてもまだ声がかからないから──と次に選んだ雑誌が間違いだった。
「うそばっかり」
「何がー?」
「倫くんが」
俺が? と不思議な顔をして本を閉じ、わたしの隣に腰掛ける。本はもういいの? と聞くと、キリいいとこまで読んだし、飽きちゃった、と返ってくる。本心かわたしへの気遣いかはわからないけど、どちらにせよこれ以上読むつもりがないのは本当っぽい。
わたしが見ていたスマホの画面を覗き込む。そこには、各チームの中からEJP RAIJINの特集が組まれたページだった。月刊バリボーを開いても、結局わたしは倫くんに関係のあるページしか見ることはない。
選手同士でそれぞれの印象を話していた、その中だった。
「古森くんが倫くんの印象を『マイペースな一匹狼』って答えて、倫くんが『そうかも(笑)』って。嘘じゃん」
「俺マイペースじゃない?」
「マイペースだけど一匹狼じゃないよね」
「うん。だからマイペースに対して『そうかも(笑)』って言っただけだよ。一匹狼は肯定してない。わざわざ否定もしてないけど」
この流れだったら「マイペースな一匹狼」を肯定しているように見えるけど。
倫くんはその見た目からクールでひとり行動が好きなように思われている。だけど実際は全然そんなことないし、前に高校時代を過ごした兵庫に行ったときには高校の同級生とわざわざ一時間パンケーキのお店に並んだなんてことも言っていた。倫くんが食べたいと言ったのだろう。倫くんがわたし以外のわがままで誰かに付き合って一緒に一時間も並ぶとは思えないから。
自分が食べたいだけであってもひとりで並んでパンケーキを食べることはない。絶対に誰かを付き合わせるのだ。そんな彼が一匹狼とは言い難いだろう。それは彼も自覚しているらしい。
「俺はさみしがり屋なうさぎさんかなー」
「……えっちなうさぎさんなんじゃないの」
「そーだね。えっちなことする?」
「しない」
「夜はするけど」
こんな大きなさみしがり屋なうさぎさんがいてたまるかと意地悪に言ったのに、さらっと言い返された上にその返事に困るのはわたしのほうだった。
「アハッ、かーわい。照れてやんの」
キュッと唇を結んで俯く。倫くんはふたりになるとすぐにわたしに触れてくるし、こうして話している今も腰を抱いたあと、わたしの下唇をなぞった。固く結んでいたはずの唇に倫くんの親指が入り込んでくる。キッと睨みつけるとおかしそうに目を細めて、手を離す。
それからすぐにわたしの頬にキスを落として、頭を撫で、至近距離で見つめ合ったあと、唇をふさいだ。
顔が熱い。倫くんの触れた場所が熱い。
「なんでナマエってずっとウブな反応してくれるの?」
「倫くんがかっこいいのが悪い……」
何度も抱き合って、キスも何度もして、それなのに倫くんに触れられるとドキドキして仕方がない。心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと毎回思うし、彼の反応を見る限り、聞こえているのかもしれない。
倫くんは、わたしが倫くんのことが大好きだということがよくわかっている。
古森くんは倫くんのことを「マイペースな一匹狼」だと評した。確かに倫くんはマイペースで、いつだってわたしの調子を崩してくる。だけど決して一匹狼ではない。休日に時間があれば必ず会いたいと言い、会えないと拗ねてテレビ通話を要求してくる。一日くらいしなくてもいいじゃんって言えば、俺は会いたいの我慢してるのに、なんて言ってわたしを悪者に仕立て上げて、自分の思いどおりにいくようにするのだ。
倫くんの言うとおり、倫くんはさみしがり屋なうさぎさんかもしれない。──わたし限定で。
「キスしたい?」
「倫くんがしたいんでしょ」
「うん。俺はしたいよ? ナマエは?」
「……」
「したくないの?」
「したくないわけ、ないじゃん」
「じゃあ?」
「……」
「ねえ、言ってよ」
なんでそんなに簡単にキスしたいって言えるの。なんで恥ずかしがるそぶりもないの。なんて聞いたら「だってナマエのこと好きだし。なんで恥ずかしがらなきゃなんないの」と恥ずかしいことをこともなげに言うのはわかってる。
「した、い……」
「よくできました」
あまいキスが降ってくる。背中に腕を回して受け入れたら、嬉しそうにふっと笑う彼の声が聞こえた。
さっきまで真剣に本を読んでいた。面白いと思っているかどうかはわからないけど、あんなに真剣に読むものをわたしと読みたいと思って、実は旅雑誌を読む前にそれを調べた。付き合ってから決して短くはない月日を過ごしていて、それでも倫くんの知らないことはまだまだあって、倫くんの読むもの見るものすべてを知りたいと思う。おんなじような欲が、倫くんにもあるのだろうか。
いつだって彼とのキスに息も絶え絶えになるわたしに、かーわい、と目を細める。
「いい加減慣れたほうがいい、よね」
「慣れなくていーよ。かわいーから」
「でも、倫くんはいつも余裕で、悔しい」
張り合ってどうするんだ、とは我ながら思うけど、悔しいものは悔しいのだ。
「俺が余裕?」
不思議そうな表情を浮かべたあと、困ったように笑う。倫くんはいつも余裕だ。わたしだけが照れて、恥ずかしがって、顔が真っ赤になって、ドキドキして、そんな姿を見て笑っている。
「いつもけっこー余裕ないけどね」
「う──」
嘘だ、と否定する言葉は空気に飲み込まれていく。
彼の大きな左手がわたしの右手首を掴んで、そのまま彼の中央からやや左に位置した胸に手のひらを押しつけられる。心臓のある場所だ。布越しにもよくわかる、速く大きく、上下していた。
驚いて彼の顔を見ると、少し恥ずかしそうにはにかんでいた。
「別に、ドキドキしてるの、ナマエだけじゃないよ」
「りんく──」
「ま、ナマエみたいに顔真っ赤にはしないけど〜。お前はりんごみたいだもん」
意地悪く笑って、右手でわたしの頬を撫でる。
見慣れた表情に、聞き慣れた声だ。
誤魔化すようにからかった。もしかして、今までわたしをからかっていたのも、全部照れ隠しだったの?
そう思うと、これまでのあれやこれも、全部いとしくなってしまう。元々嫌だとも思ってないけど。
思いがそのまま顔に表れているのがわかる。必死に抑えようとしても、どうしても頬がゆるんで口角が上がってしまう。右手首が解放されて、宙に浮いたその手はそのまま膝の上に置いた。
「ナマエってすぐ顔に出るよね」
「だって……」
「かわい」
囁く彼の表情はもういつもどおりで、何かを言う前に再び唇は重なった。倫くんのキスは長い。一度の長さも、会ったときにしている時間も。
そのとき、彼の長い指がわたしのふとももを撫でた。思わずビクッと反応してしまったけど、そのまま特に抵抗せずにいると受け入れたと思ったのか、ニットの裾から手が入ってくる。裾が上がり、肌が外気にさらされ、彼の親指がおへそのすぐ横を撫でたとき、胸を押して距離を置く。
「んっ、もう!」
「いいじゃん、触るくらい」
「よくないっ! 調子に乗らないの!」
「ちぇっ」
拗ねたように口を尖らせたあと、チラ、チラ、と視線を向けてくる。反応したら負けだ。かわいいけど、だけど、あまやかしたらエスカレートする。触りたいところを触りたいように触って、顔も体も赤くするわたしを見ておかしそうに笑うのだ。それがわかっているのにされるがままになんてしない。
わたしが折れないことを悟ったのか、あからさまにため息をつく。その仕草に「ナマエはわがままだから仕方ないなぁ」なんて言葉が潜んでいる気がした。わがままなのは彼であり、わたしではない。
そのあとは最近彼がハマっているという詰将棋アプリを一緒にやって、サブスクで映画を見て、マーケットに食材を買いに行って、彼には料理の火の番をしてもらう。少し失敗してしまった料理をわたしのほうに置いたはずなのにスープをよそっているあいだにすり替えられていて、こういった積み重ねに愛を感じる。
お風呂に入ってお揃いのジェラートピケのパジャマを着て、特に見たいわけでもない歌番組をふたりで見る。
「そーいえば、あと三ヶ月でこの部屋の契約切れるんだよね」
「ってことはわたしも更新月だ」
人気のアーティストが歌っている中で、ぽつりと思い出したように彼は呟いた。その歌の中に、彼の発言を彷彿とさせるものはない。愛を歌うでもなく、正反対にも世間への毒を吐き出すものだった。
だから、きっと、思い出したかのように口にしたのはきっと嘘だった。きっととっくに準備した言葉で、だけどそれを指摘しない。
偶然にも、わたしたちが交際を始める前に契約したそれぞれの部屋は、同じ月に更新を迎える。更新するか、新しく引越し先を探すか。特に今の部屋に大きな不満があるわけではないけど、もう少し広い部屋がいいなとか、マンションからもう少し近い距離にマーケットがあったらいいなとか、そういった願望はある。かと言って、引越しを決める理由には少し足りない。
きっとこのまま更新してしまうのだろう。お知らせもまもなくメールで届くはずだ。
「キリいいしさ、一緒に住むとこ探そうよ」
わたしのそんな考えをどこか遠くに追いやってしまったのは、ほかの誰でもない倫くんの言葉だった。
からかっているのか、と思った。だって言葉が軽やかだったから。いつもみたいに意地悪く笑って、騙されたって、そう言うのかもって。
だけど、彼は、言葉の軽やかさとは似つかぬ、真剣な表情をしていた。
「遠征のときとかナマエがテレビ通話してくれるけど足りないんだよね」
あまりにもわたしが驚いた顔をしていたのだろうか。彼は安心させるように微笑んだ。それでも珍しく、自身の左親指の爪の上に左親指を重ね、なぞるように指を動かしている。緊張の表れだった。
倫くんはさみしがり屋だ。ひとり行動ができないわけじゃない。集団で行動しているのに、ふらっと姿を消すことは高校時代に幾度となくあったのだと、高校の部活仲間である宮くんから聞かされたことがある。宮くんはその逆で夢中でひとつの場所に留まろうとするから、それを率先して「置いて行こう」と発言するのは倫くんだったとも。人を置いていくくせにふらっとどこかに姿を消す倫くんを咎めても、めんどうくさいと耳を塞いで聞かなかったのだと、思い出話なのに若干怒りながら話していた宮くんに、ああ、これは単なる思い出話ではなく現在進行形のことなのだろう、と思った。
それが角名倫太郎という男だ。
マイペースで、人のことを振り回しても知らんぷり。それは信頼の上であり、多少は相手にも振り回されてくれるからなのだけど。
そんな彼が、マイペースだけでは生きていけない提案をしたのだ。
「……だめ?」
一緒に住むということ。それは、互いにマイペースではいられなくなるだろう。シーズン中や代表戦は自宅を空けても、それ以外の日は帰ってくる。同じベッドで眠れば起床時間が違っても早い時間にすぐそばで目覚まし時計は鳴るし、好きな時間にお風呂に入って好きな食べ物ばかりを食べるということもきっとなかなかできなくなる。どちらかが家事をサボればもう片方にそのしわ寄せがいってしまって、そうしてギスギスする未来も待っているかもしれない。
なかなか起きない彼に、今みたいに根気強く「倫くん起きて」と声をかけられないかもしれない。怒って口をきかなくなる日もあるかもしれない。その逆も、きっと。
そんなリスクを考えずに提案するとは思えない。だって、それが角名倫太郎という男なのだ。
「えっ、ごめん、泣くくらい嫌ならさすがに無理強いは──」
「いい、の……?」
信じられなくて、気づいたら、涙がこぼれていた。
同棲を始めたら、すぐに解消はできない。解消するそのときは、別れが待っている。だけど、そんな簡単に別れを決められるわけではないだろうし、考えたくもない。
どちらかの家に入り浸り、なし崩しに同棲が始まるわけでもない。自分たちで決めて、新しく部屋を借りて、ふたりで住むと決断するのだ。それは、この先のことも考えずにはいられない。
そこまでのことを考えるのはめんどうくさい、だから一緒に住んでもいいかもって思っても言わない。それが、角名倫太郎という男だ。わたしの知る、角名倫太郎という男なのだ。
だから、この提案は、あの緊張は、一世一代の告白に近いものがあったのだろう。
「ほんとうに、いいの……?」
「泣くほど嬉しいってこと?」
コクリ、と頷くわたしに、倫くんは「あー、もう」と言ってこの目で見てわかりやすく肩の力を抜いた。そして「マジで焦った」と呟いたあと、わたしを抱き寄せる。
「かわいすぎ」
あまく、やさしい声だった。
至近距離で見つめ合って、彼はわたしの涙を親指で拭う。
あまく、やさしい表情で、わたしを見つめる。
「いーよ。いいに決まってんじゃん。俺がナマエと少しでも長く一緒にいたいんだから。俺のいつものわがままだよ」
少しでも長く一緒にいたいのはわたしも同じだ。
どれだけ好きだと思っても、どれだけ好きだと思ってくれているか感じても、態度で示しても、その実言葉にしないと伝わらないことなんていくらでもある。少しでも長く一緒にいたい。そんなふうに思いが通じ合うことが、どれだけ嬉しいことか。
わたしは倫くんをわがままだと言う。倫くんも自分のことをわがままだと言う。だけど、これは、倫くんのわがままなんかじゃない。
「倫くんが、わたしと一緒に住んでくれるなんて信じられない……」
「なんでよ」
「だって夜寝るときも、朝起きるときも、毎日倫くんがいるんでしょ?」
「うん。遠征以外はね」
「毎日心臓止まっちゃうかも」
「アハッ、止まったらちゅーで起こしてあげる」
不安がないと言えば嘘になる。だけどそんなもの、わたしたちの愛の前では瑣末なものだった。
わたしのアラームの音に顔を顰める倫くんを置いてベッドを出て、支度をしながら起床時間を過ぎても起きてこない彼を起こす。夕飯を作って彼の帰りを待って、食べ終えたら彼が家庭用手袋をして手荒れしないように気をつけながら食器を洗ってくれる。洗濯物を干すときはシワを伸ばさないといけないんだよと言うわたしに、めんどうくさいって思っていることを隠しもしないで表情に出して、それでも言うとおりにしてくれる。ボディーソープも柔軟剤も同じものを使うから、わたしを抱き締めて、おんなじ匂い、と嬉しそうに倫くんが笑う。
そんな毎日を、想像する。
だけどやっぱり想像と現実は違うもので、倫くんよりも早い起床時間のわたしに合わせて、彼も起きてきた。まだまだ眠たそうな彼にどうしたのって聞くと、寝起きなのもあってか、はにかんだ。
「言ったでしょ? 少しでも長く一緒にいたいって」
倫くんはわがままで、意地悪で、マイペースだ。
だけど、わたしへの愛が、彼のペースさえも狂わせてくれるなんて、誰が思っただろう。
ああ、もう、一匹狼だけじゃなく、マイペースも嘘になっちゃったじゃない。
倫くんとわたしの部屋は、倫くんとわたしの愛であふれた、あまいあまいはちみつのような部屋である。