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倫くんの部屋の空調設定温度はその日の彼の気分によって変えられる。
そのことを十分にわかったわたしは、ハンドバッグのほかにトートバッグを持って彼の部屋を訪ねた。オートロックマンションのエントランスを抜けたあと、彼の部屋の施錠をされていないことはわかっているからそのまま玄関ドアを開けた。
アディダスのセットアップを着て丸メガネをかけた彼がちょうど飲み物を取りに来たようで、自分の分とわたしの分であろうチルドカップを手にしながら、首を傾げる。視線の先は膨らんだトートバッグだ。
「何持ってきたの? 置いとく用の服?」
「ううん」
じゃあ何? と言いながら手を差し出してくる。部屋までの短い距離なのに、荷物を持ってくれようとしてくれるところがやさしい。けれど今日はそのやさしさにあまえず、いや、あまえるわけにはいかず、トートバッグを抱えて首を横に振る。わたしのその行動に彼はキョトンとした表情を見せた。
まあいいや。入りなよ。特に追求することなく部屋のドアを開ける彼に続く。今日の室温は少し高いみたい。と言ってもノースリーブや半袖のTシャツ一枚でちょうどよさそうなものだけど。
汗流してくるでしょ? 俺の服着なよ。と事前に用意してくれたTシャツに手を伸ばす倫くんの姿を見て「ううん、大丈夫」と伝えると、怪訝な目で見られた。ふふん。わたしは学習したのだ。
「着替えのTシャツ持ってきたから借りない」
「室温下げるよ」
「パーカーも持ってきたもん」
「じゃあタオル貸さない」
「持ってきたもん」
そう。このトートバッグは倫くんに借りないための服とタオルの一式だった。素直にそれを告げて彼に持ってもらっていたら取り上げれたに決まっている。この用意周到さは彼にとって予想外のことだったようで、普段ならすぐにわたしを言いくるめる何かを言い返してくるのにそれをしてこない。その隙に「じゃあシャワー借りるね」と浴室に逃げ込んだ。
とはいえ、わたしはそこまで意地悪をするつもりはない。今日こんな行動に出たのは、わたしはいつでも倫くんの思いどおりにはならないぞ、というところを見せたいのが一番の理由だったからだ。
上は持ってきたフレンチスリーブの服に着替えるけど、下は穿いてきたスカートをそのまま穿く。ミニ丈というには長いけど、ミディ丈よりは短いフレアスカートだ。いつも倫くんのハーフパンツを穿こうとするとだめと言われるけど、あれは膝よりも長い丈だからだろう。
シャワーを浴び終え、自分の思いどおりにならなくて拗ねてるだろうなぁと想像しながら部屋のドアを開けると、ちいかわのヘアピンで前髪を留め、クッションを抱えてあからさまに拗ねた顔をした倫くんがいた。
かわいい。ちいかわのヘアピンを使ってるのは絶対に狙ってだ。
「なんでそんな意地悪するわけ?」
「倫くんがいっつも意地悪するから、仕返し」
うっかり語尾に音符マークがつきそうなテンションで言葉を返してしまった。そんなわたしに彼はますます不貞腐れる。
どうしよう。かわいすぎる。いつも意地悪する倫くんにどうして意地悪するのかと聞くけど、これはわたしも意地悪したくなる。いや、違う違う。わたしのこれは意地悪でもなんでもない。倫くんが意地悪するからその対策を取っただけだ。
抱えていたクッションをぽいっと投げてわたしが入れる隙間を作る。その空間にすっぽりとおさまると、後ろから抱きしめてきた。前にわたしとお揃いで買った香水の匂いがする。なんでお揃いを買うの? と聞いたら「ん? 俺はナマエのものってアピールしてんの」とはにかまれた。わたしが倫くんのものじゃなくて、倫くんがわたしのものなんだ……と嬉しくてにやける顔をおさえることができなかった。
でも、今日はなんでこの香水をつけてるんだろう。時間的にわたし以外と会う用事なんてないはずなのに。
なんて考えているとフレアスカートの裾をつまんで遊び始めるからその手を叩く。全然痛がってない「いったぁい」の声が聞こえるけど無視。
「あーあ。平日は夕方まで仕事して、夜はバレーの練習して、休日もバレーの練習か試合かイベントで、やっとカノジョと過ごす時間作れて喜んでる俺にそーゆーことするんだ」
「わたしだって平日は朝から夜まで働いてるもん」
彼が忙しいのは知っているけど、大変なのは何も彼だけではない。わたしはわたしにそれなりに忙しいし大変なのだ。それに対して「そうだけどさぁ」と否定の言葉を返さないのは倫くんのいいところだ。倫くんにも、わたしにも、それぞれの大変さがある。もちろん彼のことをすごいなぁと思うけど、わたしの普段の生活を「大したことない」なんてふうに言われたら相手がいくら倫くんでも怒ってしまうだろう。
抱きしめられた状態で顔を彼に向ける。相変わらず拗ねた表情をしたままだ。
「わたしは倫くんと会うと嫌なこと忘れちゃうけど、倫くんは違うの?」
「その言い方ずっるぅ……」
そんなわけないじゃん、と素直に言う彼をかわいいなと思ったあと、そんな言葉どこで覚えてきたの、誰かに入れ知恵でもされた? なんて続けるから不貞腐れた表情で返す。反論しづらいことを言われたから誤魔化すために言ったのだろうけど、小バカにされたようであまりいい気分ではない。
そのことに気づいて「ごめん」と頭を撫でながら謝るのは、倫くんのいいところだ。
「嫌なことは忘れられるけど、疲れは残ってるから疲れ取るためにちゅーして」
「や、それは、」
「ナマエは俺とちゅーしたくないの?」
「そうじゃなくて、」
「じゃあ何?」
せっかく今日はわたしが主導権を握れたと思ったのに、たったのひと言で倫くんに渡ってしまった。さきほどの表情はどこへやら。口角を上げてわたしを見下ろしている。
ちゅーはしたい。だけど、自分からするのは恥ずかしい。
わかってる。倫くんはわたしの恥ずかしがってる姿を見たいだけなのだ。意地悪するのも、スカートの裾をつまんで遊ぶのも、わたしの反応を見たいから。ただそれだけ。
「……倫くんからしてほしい」
「だめ。今日はナマエから」
「倫くんの服着るから。ね?」
「着なくていーから」
「お願い。倫くんからして?」
「おねだりかわいいけどだーめ」
倫くんからしてってお願いするのも顔から火が出そうなほど恥ずかしいのに!
りんくん、とあまえた声を出して控えめに服を引っ張る。彼はなんだかんだわたしにあまい(あまい言葉や行動をくれるということではなく、許容してくれるという意味で)から、わたしがこうやってあまえると言うことを聞いてくれる。普段は恥ずかしくてあまりあまえた声など出さないからだ。得意げに笑んで、仕方ないなぁって。
「おねがい……」
「だーめ」
なのに、今日はそれが通用しないらしい。
「ナマエは俺としたくないの? キス」
「したいけど……」
「じゃあしてよ」
いつもはだめって言ってもたくさんキスしてくるくせに、意地悪だ。
したくないの? と聞かれて、したくないなんて嘘でも言えない。だから恥ずかしくてもしたいと答えるけど、だからと言って「じゃあして」と言われて素直に従えるわけじゃない。
おねがい、ともう一度言ってみても、だーめ、とやっぱり返される。
「ナマエからしないと今日はもうできないよ?」
「……どうせ倫くんはするもん」
「ナマエがしてくれたらね。してくれないなら俺からしないよ。知ってるでしょ? 俺の強情なところ」
「知ってるけど……」
「じゃあしてくれる?」
倫くんはすぐわたしに触るし、キスするし、大好きって態度で示してくれる。だめって言ってもあとでって言っても、聞いてくれるときもあれば聞いてくれないときもある。それくらい倫くんはいつもわたしを求めてくれる。
だけど、それはそれ、これはこれなのだ。一度決めたら、「ナマエのせいでキスできない」「ナマエのせいで触れない」と不貞腐れながら、それでも絶対に自分からキスしたり触ったりしてこないのだ。わたしがキスしないで触らないでって言ってるわけでもないのに。
「今日はしない? キス。ナマエがしなくていーならいいけど」
「やだ……」
「じゃあして?」
涙目になって訴えかけても、仕方ないなってキスしてくれない。
わたしがしないならキスしなくていいなんて、嘘なくせに。本当はしたいって思ってることくらい、わかってる。なのに意地でもしないことも、わかってる。
さっきまでわたしが倫くんのことを振り回してたはずなのに、もう倫くんに振り回されてる。
「ナマエ」
「んっ」
腰をすり、と撫でられる。
ビクリと体を震わせるわたしに、彼は困ったように微笑った。
「ナマエがしなくていーならいいなんて嘘だよ。したいから、ナマエからして?」
「……」
「ね、ナマエ。おねがい」
あまえた声でおねだりする。ずるい。倫くんはずるい。
駄々をこねているのは倫くんのはずなのに、いつの間にかわたしが駄々をこねて宥めすかされているようだ。
「倫くんずるい……」
そんなふうに言われたら、わたしがこれ以上断れないことを知っているくせに。
「うん。俺ずるいよ?」
言葉は意地悪なのに、やさしい声で、やさしい表情で。わたしの頬に触れるその指先ひとつでさえ、わたしを好きだと言う。
倫くんの肩に手を添えて、ゆっくりと顔を近づけると合わせるようにゆっくりと目を瞑った。
切れ長の涼しげな一重まぶた。長く濃く伸びたまつ毛。倫ちゃん、なんて呼ばれて小学校に入るまでは女の子と間違えられることもあったそうだ。
薄い唇にそっと口づける。倫くんの唇はいつもやわらかくて潤っていて、それを「だってガサガサした唇とちゅーするのいやでしょ?」と、そんな些細なことまでわたしのためだった。バレーボールのために指先は乾燥させないように気を使っているけれど、それ以外は特にそこまで保湿に気を使ったりもしないのに。
唇を離すと彼はゆっくり目を開けて「終わり?」と尋ねた。頷こうとした。頷こうと、本当に思っていた。
だけど、至近距離でわたしを映すその錫色の瞳がやさしいから。わたしは言葉の代わりに再び唇を重ねた。
好き。倫くん、大好き。
たくさん言葉にするよりも、キスするほうがたくさん伝わると思ったの。
「よくできました」
「……ご褒美、くれる?」
「うん。あげる」
倫くんの形のいい唇がわたしのそれに重なった。ちゅ、ちゅ、ちゅ、と短いキスを三回繰り返したあと、舌が割って入ってくる。舌を絡ませると「じょーず」と頭を撫でる。
たくさんキスをして、倫くんのキスに慣れた。この慣れはもちろん悪い意味ではなく、互いが互いの一番気持ちいいと感じるように、そのタイミングで、唇を、舌を、重ね合わせるということだ。
いよいよ息が苦しくなって、それでもキスが終わっちゃうのが嫌で、駄々をこねるみたいに倫くんのシャツを掴んだら、仕方ないなって言うように彼はふっと笑った。そしてそのまま、キスを与え続けてくれる。
どれくらいそうしていたのか。唇が離れたあと、倫くんの胸に自分の頭を預ける。その頭を彼はやさしく撫でてくれる。大好きな倫くんの手。
「ていうかさぁ」
息が整ったころ、倫くんの声に顔を上げる。
「俺、本当はナマエのために言ってあげたんだよね」
「何を?」
「俺の服着て、って」
なんの話かと頭上にクエスチョンマークを浮かべたあと、自身の行動を思い返す。そうだ。今日のこれは、わたしが倫くんの服を着ないと言ったところから始まったのだ。
でも、だって、いつでも倫くんの思いどおりになるみたいなの嫌だったんだもん。結局今日も倫くんの思いどおりになってしまっているけど。
倫くんの膝の上に乗ったままのわたしのふとももを撫でる。声が出そうになるのを耐えて、シャツを掴んだままの手に力をこめた。
「俺ねー、しょっちゅうナマエのおなかとかふとももとかおしりとか触るけど、スキンシップの一種でさぁ」
「知っ、てる」
「でもねー」
ふとももを撫でたまま、倫くんの唇が、二の腕に触れた。
「二の腕見ると、えろいなって思うんだよね」
次の瞬間にはわたしの体は宙に浮いていて、そのままベッドへ運ばれる。差し込む自然光を遮るように遮光カーテンを閉めた。隙間から漏れ出す明かりは、部屋の中を照らすには不十分だ。
代わりにリモコンに手を伸ばし、常夜灯をつける。見慣れた部屋。見慣れた薄暗さ。熱を孕んだ倫くんの瞳を見るには十分な明るさだった。
「りん、く、ん」
首筋を彼の唇が這う。ピクリと反応するわたしに、気をよくしたように服の上から腰を撫で、ゆっくりと中に指を滑り込ませる。ひやりとした彼の指先に粟立つ。
「まだ外あかるいよ」
「夜まで待てない」
抵抗なんて結局口だけで、いや、口でもハッキリとした言葉は出さなくて、そうしているうちに彼の手は上に向かって伝い、膨らみに触れた。
「誘ったナマエが悪い」
「誘ってな──」
「だって俺は言ったもん。俺の服着て、って」
唇を離した彼がニンマリとした笑みを浮かべて見下ろす。
「でも着ないって言ったのはナマエでしょ?」
いつもこうなのだ。いつもいつも、最終的には倫くんの言うとおりになる。何をしたって何を言ったって、わたしが起こした行動の結果だって。
「文句言えませーん」
「おかしい……」
本当におかしいのは、それをほんとうは、嫌だと思っていないわたし自身だ。倫くんはわがままで、あまえんぼうで、意地悪で、わたしを振り回して、わたしの反応を見ていつだって楽しんでいる。
そんな彼をいとしい、だなんて。
「倫くんのわがまま。えっち」
「うん。でもそーゆー俺が好きでしょ?」
全部全部見透かされて、意地悪な笑みにさえドキドキして、嫌じゃないって思う。こんな表情を見せるのはわたしにだけだって、こんな行動を取るのはわたしにだけだって、優越感さえ覚える。
「……すき」
「アハッ。俺も素直で意地っ張りなナマエが好きだよ」
素直で意地っ張りなんて、なんて矛盾した言葉なのだろうと思うけど、確かにそれが一番ピッタリ来る。倫くんの思いどおりにならないと意地を張って、拗ねて、抵抗して、でもやっぱり倫くんが大好きだから、倫くんの言うとおりにしてしまう。
だって倫くんはわたしが本当に嫌がることはしないから。倫くんの意地悪もすべて、わたしのことが大好きでしてしまうことだから。
お揃いで買った香水の匂いが混ざり合う。同じ匂いのはずなのに、倫くんがつければ自分がつけているのとはまた違った匂いに感じるのはなぜだろう。
キスをしてほしいと思うタイミングでしてくれて、かわいいと何度も囁いてくれて、何度も何度も名前を呼んでくれる。
体を重ねなくても愛は成立するけれど、それでも求め合ってしまうのは、言葉では足りないいくつもの思いを伝えられるからなのだろう。
高い位置にあったはずの陽は傾いて、倫くんのぶかぶかのTシャツを身にまとって、そんなわたしを見て上機嫌になる彼に納得いかないなぁと思いながらも、それをいとしいと思うわたしはもうどうしようもない。
倫くんがキャップを開けて渡してくれたペットボトルのミネラルウォーターに口をつけながら、ふと抱いていた疑問を口にする。どうして今日、お揃いで買った香水をつけていたんだろう。
「今日だけじゃないよ。最近ずっと」
「どうして?」
錫色の瞳を細めて、とびきりあまい声で囁く。
「だって会いたかったんだもん。お揃いの香水つけてたら、ナマエと一緒にいるみたいな気分を味わえるでしょ?」
ま、ナマエがつけたほうがいい匂いするんだけどさ。と当たり前みたいに言うから。
ああ、もう。
大好きすぎて、困った。