ねえ、及川。
あなたは知らないでしょうけど、あたしはあなた以外、好きになれないらしいの。
まだ雪もちらつく三月に、あたしたちは、最後の日を迎えた。
東京に行っても元気でねと泣いてくれる友人と、たくさんシャッターを切る。
遠くに見つけた姿に足を止めると、そっと背中を押された。
最後だ。もう、最後なんだ。
「及川っ!」
気づいたら駆け出していた足。名前の持ち主はゆっくりと振り返って微笑む。
泣いてぐしゃぐしゃの顔をしているくせに、微笑む。
「及川、好き……」
「俺も好き」
零れ落ちた言葉に同じものを返してくれるあなたが、愛しくて。
触れたくなって伸ばした手を、それはいけないとぎゅっと握り締める。
「俺ね。中学三年の頃からずっと、菜穂ちゃんのこと好きだったんだよ。知ってた?」
「知らないよ、そんなの……」
「ハハッ、だよね」
あなたとの出会いは、中学二年の春。たまたま同じクラスになっただけの、存在。
あたしは一方的にあなたを中学一年の頃から知ってたけど、それに深い意味などなかった。
「高一の時は? 知ってた?」
「知ってた……」
「じゃあいいや」
あなたの手が伸びる。そっと、あたしの頬に触れて、
「ちゃんと、俺の愛が伝わってたなら、それでいいや」
それはそのまま包み込むようにして、あたしの顔を上げる。
目と目が合う。あたしの大好きな、色素の薄い、あなたの目と。
「菜穂ちゃんと付き合った三年半が本当に本当に幸せだったよ」
「おいかわ……」
「彼氏らしいこと、ろくにしてあげられなくてごめんね」
ゆっくりと首を横に振る。そんなことない。そんなこと、ない。
あたしのほうが、たくさんたくさん幸せにしてもらった。意地張って、素直じゃないあたしに、いつもあなたは優しく笑ってくれた。
あたしは、あなた以外を、知らない。
だから、彼氏が本来どんなものかも、知らない。
だけど、あなたと付き合った三年半に一切の後悔がないというのは、それだけあなたが素敵だったからということでしょう?
「菜穂ちゃんは最高の彼女だったよ。可愛くて、優しくて」
ほんの少しだけ、あたしに触れた指先が力を持つ。
「飛雄のセットが一番好きなことだけ、気に入らないけど」
世界で一番好きなあなたのすべてを、世界で一番、好きでいたかった。そうしたら、あなたにこんな思いを、させずに済んだのだろうか。
どうして唯一あなたが一番大切にしているものを、一番好きになれなかったのだろう。
「あたしは、及川が女の子にデレデレしてるのやだったよ」
「そうなの? そういうの一切言わなかったじゃん」
「……言わないだけで、結構、隠せてなかったと思ってたんだけど」
「そう? そうだったかな。直接言われなかったから分かんないや」
「嫉妬深い女の子って思われたくなかったから」
「菜穂ちゃんなら全部大歓迎なのに。あーあ。見たかったな。『デレデレしないで! 及川はあたしのでしょ!?』って怒るところ」
クスクス笑う彼の空気が柔らんで、ほっと胸を撫で下ろす。
だけど、だけどね。あたしは、本当に、あなたが思ってるより嫉妬深い女の子なの。
心の奥底でほんの少し、あなたが一番大切なものに嫉妬するほどに。
「ごめんね」
「なにが?」
「あたしが、慣れたくて、バイバイって言ったのに」
「なんだ、そんなこと」
校舎を離れたら、もう、あたしたちに接点はなくなる。本来ならこうして声をかけるのも、きっと良くなかった。
あたしのワガママを聞き入れて、あなたはあたしに、声をかけなくなったのに。
こうしてまた話しかけるあたしのワガママを、あなたは笑って受け入れてくれる。
「俺は最後に菜穂ちゃんに会えて、話せて、幸せだよ」
及川。好き、大好き。
大好きなの。どうやったら、この気持ち、全部全部残さず伝わる?
「でも、そうだね。一つだけワガママを叶えてもらおうかな」
「なに?」
制服のボタンを全て失ったあなたはおもむろにそれを脱ぎ、あたしに掛ける。
「菜穂、大好きだよ」
そのまま引き寄せられて、あたしたちの唇は、触れ合った。
ほんの一瞬だけ熱を持ったそれが離れて、あなたは、微笑む。
「第二ボタンの意味なら、ジャージをあげるべきなんだけど。ごめんね。思い入れがありすぎて、あげられないんだ」
三年間、あなたを見てきた。あなただけを、見てきた。
その言葉がどんな意味を持ってるかなんて、痛いほど分かってる。
泣きそうになって、それをぐっと堪える。だって、もう、あなたはあたしの泣き顔なんて見たくないでしょう?
「じゃあね、菜穂ちゃん」
「おい、かわ……」
「大好きだよ。元気でね」
それが、あなたとあたしが交わした、最後の言葉だった。
最後の最後まであたしに愛を囁いたあなたが次の日、日本を発ったことを岩泉から聞かされた。
その五日後、あたしはキャリーバッグ片手に駅に立つ。
「……なんか、照れくさいんだけど」
「東京の悪い奴に騙されんなよ」
「騙されないよ」
「どーだか。及川と中学の頃から付き合うような奴だし?」
最後まで心配してくれる岩泉と、からかってくる松川。
仲の良い友人は仙台駅で最後の別れを惜しんでくれると言ってくれたから、ここ、地元で彼らとは最後になる。
「香月。寂しくなったらいつでも帰ってこいよ。んで、俺と付き合っちゃお」
「ふふっ。花巻はそんな冗談ばっか言ってないで早く彼女作んなよ」
あなたと付き合ってる時も幾度となく聞いたセリフ。そこに深い意味を持たないことも知ってる。ただの戯れを、最後まで言う花巻が可笑しい。
「香月さん……」
「ちょ、金田一、泣きすぎじゃない!?」
「だって、香月さん東京行くじゃないですか……」
「春高で待ってるよ」
「いっ、行きます! 待っててください!」
「一番待ってるのは影山のくせに」
「国見〜!?」
二歳年下の後輩までお見送りに来てくれて、なんてあたしは恵まれているんだろう。彼らとの直接的な関わりなんて、少なかったのに。
「なんっっで君はいつも一言多いかな! 金田一みたいに素直になればいいのに国見ちゃんは〜!」
「香月さん、うざいとこ及川さんに似ましたね」
「え、心外」
もうこの場所にあなたはいないのに。当たり前のようにあなたの名前が出て、当たり前のように、あなたがいる時のような空気感が漂う。
「可愛い後輩たちを一番待ってるに決まってるじゃん! わざわざお見送りに来てくれてありがとね!」
わしゃわしゃと二人の頭を撫でると、照れたようにする金田一も、拗ねたように口をとがらせる国見も、なにも言わなかった。
「……やっぱ俺、香月のこと東京まで送っていこうかな」
「は? お前なに言ってんの」
そんな花巻と岩泉の会話が聞こえて、そちらに視線を移すと、心配性な花巻と目が合う。
「香月」
思い返せば、あなたとあたしのことを一番心配してくれたのは、いつもいつも花巻だった。
「及川のことでどうしようもなく泣きたくなったら、いつでも連絡してこいよ」
「……やだ、惚れちゃいそうだなぁ」
「よく言う」
及川のことしか、好きになれないくせに。
そう言う彼に曖昧に笑って、肯定も否定もしなかった。
仙台に向かう電車が来て、彼らに手を振る。無愛想に手を挙げるだけの彼らと、対照的にぶんぶんと振ってくれる金田一。
「帰省した時は会ってよ」
「もちろんです!」
「ああ、気が向いたら」
「忘れてなかったら」
「暇だったらいいですよ」
「冷たすぎないかな、君たち」
「花巻〜会いたい〜って個別にハートつけたメッセージくれたら会ってやるよ」
「送んないよ」
最後の最後までらしい彼らに背を向けて、電車に乗り込む。きっと、半日後には恋しくなる雪景色。
そっと目を瞑って一番に思い出したのは、ユニフォームを着て真剣な顔をしたあなたの姿だった。
ねえ、及川。
あたしね。バレーボールをしてるあなたのことも、本当に本当に大好きだったんだよ。
菜穂が去った駅のホームで、涙を拭う金田一と寒さに身を縮める国見が話し始める。
「及川さんと香月さん、超遠距離恋愛になるな」
「あの二人ならなんとかなるでしょ」
疑わなかった。疑いの余地など一ミリもなかった。
そんな二人の後ろ姿に、岩泉は躊躇いがちに口を開く。
「わざわざ言うことでもないから言わなかったんだけど」
なんですか? と振り返る彼らに、続く言葉を言えずに口を閉ざす。そんな岩泉を不思議そうに見つめる二人に、答えを教えたのは、松川だった。
「あの二人、別れたよ」
「え?」
松川は冗談の多い人だ。だけど、こんなタチの悪い冗談を、この状況で言うはずがないことも、知っている。
「うそ、でしょ。及川さんが香月さんを手放すわけ──」
「本当。詳しいことは聞いてないけど」
戸惑いを隠せない国見は、中学の時から二人を見てきた。そんな二人が別れる想像なんてこれっぽっちもしたことがなかったのだ。
ハッとしてすでに電車が去った後の線路を見つめる。
「っ、俺」
「大丈夫だ。香月は気にするような奴じゃねーって」
「むしろ『国見に気を使わせちゃって申し訳ないなぁ』って言いかねないから、追い掛けるな」
「なんでっ、だって、あの二人はあんなに──」
国見は、知っている。
目の前にいる先輩たちが、決して及川と菜穂の関係に口を出したりしないことを。
別れた理由もきっと、聞いていない。なぜなら、それは、及川も菜穂も語りたがらなかったからだ。
ぎゅっと拳を握り締めて、やるせない思いを抱える。まさか俺のせいじゃないか、そんな一抹の不安を抱きながら。
「……花巻、お前、なんか聞いてんのか?」
「んー? まあ」
なにも言わない花巻に松川が問いを投げる。
岩泉も金田一も国見も、聞いていないことを確認しながら。
花巻はそれ以上を語らなかった。だから、松川もそれ以上は聞かなかった。
「早く迎えに来てやれよ、及川」
彼のそのつぶやきも、聞こえないふりをして。