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 ボールが触れて、離れる。
 一秒にも満たない時間。瞬きしている間に終わる動作。
 それがこんなにも惹かれて、恐ろしく美しいものであることを、あたしは知らなかった。



 放課後の体育館のギャラリーに女の子が並んでいることは珍しくはない。
 及川徹。
 その人物を目当てに多くの女の子はやって来る。
 昨年、中学二年の時に同じクラスだった彼とは特別仲が良いわけではなかったけれど、そこそこ話す間柄ではあった。いつも笑顔で人当たりの良い彼が人気者なのはよく分かる。それに何よりも見目麗しい容姿を持っていた。
 彼のことは入学したての頃から知っていた。格好良い子がいると評判だったのだ。昨年同じクラスになった時には友達からも羨ましがられ、いつも彼の隣には可愛い彼女がいた……ように思う。
「及川くん見に行こーよ!」
「えー……」
「ね! お願い!」
 あたしにとっての及川は元クラスメート以上でも以下でもなく、わざわざ見に行くというのが不思議だった。だけどその日は特に用がなかったし、女子バレー部の友達を見るのもいいかなぁ、なんて思って体育館へと向かった。
 この時のあたしの行動を、この先ずっとずっと、感謝することになるとは露知らず。
「……あの人、誰?」
 あたしの視線の先には黒髪の男の子がいた。顔は幼い気がするけど、随分と背が高い。たぶん同じ学年にはいなかったと思うけど……二年か、一年か。
 バレーのことはよく知らない。授業でやって、テレビでやってたら見る程度。なんとなーくのルールしか知らないし、ポジションとかもよく分からない。ああ、及川はセッターだって言ってたっけ。トスを上げる人。それくらいの、知識で。
 そんなあたしが、黒髪の男の子がトスを上げる動作に目を奪われたんだ。
 友達は知らないと言うし、女子バレー部の友達に聞こうかなぁ、なんて思い、男子バレー部が休憩に入ったタイミングで下へ降りる。体育館の外に出た瞬間、女子バレー部の友達ではない知人の姿を見かける。
「及川」
 振り返った彼はニコリと笑う。
「久しぶり、菜穂ちゃん。ついに俺のこと見に来てくれたんだね!」
 ……そういえば、昨年何度か「部活見に来なよ!」なんて誘われた覚えがある。結局一度も行かずじまいだったけど。
 彼はあたしを「菜穂ちゃん」と呼ぶが、特別仲が良いわけではない。彼は誰にでもあだ名をつけたり、下の名前で呼んだりするのだ。
「あの黒髪の男の子、誰?」
 彼の言葉をスルーして、黒髪の男の子に視線を向ける。
「飛雄のこと?」
「飛雄? っていう苗字? 珍しいね」
「いや、苗字は影山。影山飛雄」
 影山飛雄くん。聞いたことがない名前だ。
「飛雄目当てで見に来てるの?」
「影山くん目当てっていうか……」
 たまたま、友達に誘われただけ。
 そこでたまたま、彼を見ただけ。
 たった一瞬だった。瞬きしている間に終わる動作に、どうしようもなく惹かれてしまった。
「すごく、綺麗だなって」
 明日か、来週か、来月か。次はいつになるか分からないけど、あたしはきっとまた彼を見に来る。そんな予感がしたのだ。
 バレーボールがこんなにも目を奪われるスポーツだなんて知らなかった。
 トスが、あんなにも綺麗な動作だなんて知らなかった。
 ゴールデンウィークが明けた、五月中旬。
 あたしのその言葉が、どれほど彼を傷つけたかなんて、知らない。
「菜穂ちゃん」
 及川は、笑う。
 酷く綺麗に、笑う。
「俺と付き合わない?」
 あの時、あなたはあたしを好きなんかじゃなかった。
 あたしはあなたのように美しい人でもなかったし、何か秀でた人間でもなかった。
 そんなあなたがなぜ交際を持ち掛けたか、なんて。その理由を知るのは先の話で。
 これが、あたしたちの、始まりだったのだ。
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