ファニー・サマー
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せっかくの夏休みなのに、初っ端から補習なんて本当にツイてない。
元々得意な科目だったし、今回の期末テストは簡単な問題ばかりにしといた、なんて先生が言うから完全に油断していた。実際教科書丸暗記でOKレベルの簡単な問題ばかりだったけれど、どんなに正しい答えを書いていても解答欄がズレていたら元も子もないのだ。得意科目という言葉の概念が崩れ去るほどの最低な点数を叩き出した私は、補習常連と噂の切原赤也と同じ教室で退屈な時間を過ごしていた。
切原とは一年の頃から同じクラスだったけど、普段から接点があるわけでもなく、必要なとき(例えば授業とか掃除とか)くらいでしか話したことはなかった。ただ、立海テニス部の唯一の二年レギュラーだということは結構有名な話で、帰宅部でそういう話題に疎い私でもよく知っている事実だった。
外からは喧しい蝉の声に混ざって、掛け声やボールを打ち返す音がよく聞こえる。切原が大きなラケットバッグを持って来ているから、きっと今日も部活があるのだろう。かなりの強豪校である立海でレギュラーを勝ち取れる人が、こんなところで補習なんて受けていていいのだろうか。なんていうか、勉強も頑張ればいいのに。まあ、同じ補習組の私が言える立場ではないけれど。
先生から一通りテスト問題の解説を受けたあと、似たような問題のプリントを手渡された。これを全部解いて直接職員室に提出してくれたらそのまま終わっていい、と言い残して先生は教室を出ていった。ざっと目を通すと、テストのときより更に簡単になっている。さっさと終わらせて帰ろう、そう思って取り掛かろうとすると、「なんだよこれ……」と寝ぼけた声が聞こえた。声が聞こえた方へ目をやると、切原が「わっかんねえよ……」と頭を抱えてうなだれている。ちゃんと解説を聞いていたらわかるはずだけど、と呆れてから思い出す。そういえばこの人、さっきまで堂々と居眠りをしていた。先生が帰り際、ゆさゆさと豪快に揺らし、彼の寝ぼけまなこにプリントを押し付けていったのだ。
机に突っ伏す切原を横目で見ながら、私は教えてあげるべきか考えていた。でもあんなに懇切丁寧に解説してくれていたのに、寝ていたのだからわからないのは自分の責任だし……と思い直し、自分のプリントに向き合う。さっさとやっちゃおうとシャーペンを握り直したとき、切原がふいに話しかけてきた。
「なー、あんた、英語得意?」
話しかけられると思わなかったから、思わず声にならない声を上げてしまった。驚いて心臓がはねたように脈打つ。ビビりな心臓をなだめながら、赤点を取ることになった経緯を話すべきか、と悩んでいると、それを察したのか切原は口を開いた。
「あ、いやごめん。ここにいるってことは苦手だよな」
そう言って切原は大きなため息をつく。苦手じゃない、むしろ得意だし。第一ここにいるのは、回答欄がズレていたからで――と立派な言い訳が出来上がったけど、わざわざ言うほどのことではないので口をつぐんだ。
切原は相変わらず、プリントとにらめっこをしながらうなったりため息をついたりと忙しい。集中しようと思っても、視界の端に映るのでどうしても気になってしまう。でも助けてあげようとは思わない。だって自業自得だし。一通り足掻き、どうにもならないと悟ったのか、考えるのを諦めたのか、切原はまた机に突っ伏して呪詛のように何かぶつぶつ呟いていた。
やっと落ち着いて取り組める……そう思って私はプリントとにらみ合う。問題を読んで、解く。簡単だからそれほど考えることなくさくさく進んだ。半分くらい終えたところで一息つくと、切原がこっちを伺っていた。そして私のプリントをじっと見つめ、さっきまでのこの世を全て恨むような目つきから一転、子犬のように目をきらきらさせる。
「すっげえじゃんあんた。やっぱ英語、得意なんじゃん」
なんで補習なんか受けてんだよ、と人懐っこい笑顔を見せる。そして「頼む!」と手を合わせた。
「なーこれ、教えてくんね? 俺、今日部活あってさ……補習なんで遅刻しまーすって言ったら、副部長がこえーのなんのって……だから早く終わらせたいんだよ」
こっちだって早く終わらせて帰りたい。そう思ったけど、切原があんまりにも必死でお願いするから、なんだか気が変わった。まあ早く帰ったところで特にやることもないし、たまにはいい人になってあげるのも悪くない。
いいよ、と答えるや否や、切原はぱっと目を輝かせた。私の手を取ってぶんぶんと振り、懐っこい笑みを浮かべる。その笑顔につられて、私もつい頬が緩んだ。
「じゃあ早速! お願いしまっす!」
机を隣同士くっつけて、切原のまっさらなプリントと私のプリントを並べる。切原が問題文をにらみつけながら、さっぱりわかんねえ……とぽつり呟いていた。
単語の意味を問うものは飛ばした。こんなものはあとで教科書でも辞書でも使って調べればいい。最悪、わからなくてもそのまま解答を写せばいいのだ。問題は長文だ。長文、と呼べるほどの文量ではないが、単語の意味をそもそも理解してなければ読み解くことは難しい。一つ一つ読んで訳していく。重要そうな熟語や言い回しにチェックを入れ、訳を書き込み、わかりやすいようにしておく。解説しながら切原をちらりと見やると、いつになく真剣な表情をしていた。
一通りの解説のあとは問題へ。文中に書き込んだ訳と問題文を見比べながら解いていく。丁寧に解説をしたおかげか、切原でもそれほど悩むことなく解き終えることができた。残っているのは、単語の意味を答えるものだけ。ここまでよく頑張ったので、さすがに答えはそのまま教えてあげた。
回答欄がすべて埋まったプリントを見て、一息つく。切原も大きく伸びをし、達成感に顔をほころばせていた。ふと目が合い、互いに労いの言葉をかける。
「お疲れさま。頑張ったね」
「いやー、ほんとに頑張った! 教えてくれてサンキューな」
切原はそう言ってにこにこと笑顔を見せる。そして時計を見て、やっべ! と慌てて片付けをしてガタガタと騒がしく立ち上がる。ラケットバッグを背負ってプリントを掴もうとした切原の手を止め、自分のと切原のぶんのプリントを二枚重ねた。
「プリント、私が出しておくね」
「えっマジ? あー、でもめっちゃ急いでるからありがてえ! じゃあよろしく」
そう言い切る前に、切原はダッシュで教室から飛び出していった。パタパタと騒がしい足音が遠ざかっていく。
私も帰ろう、と荷物をまとめる。二枚重ねたプリントを手にして、教室の扉へ向かう。ふと騒がしい足音が近づいてきて、ガラガラと勢いよく扉を開ける音がした。見ると、部活に向かったはずの切原が息を切らせながら立っていた。忘れ物でもしたのかと問うと、首を振る。
「お礼!」
「え、何? お礼?」
「今日は無理だけど、ちゃんとあんたにお礼しなきゃって思って!」
そう言って切原は私に歩み寄り、何かを差し出した。受け取って見るとくしゃくしゃのレシート。何これ、と裏返すと電話番号とメッセージアプリのアカウント名が走り書きされていた。
「暇なときでいいから! 連絡! 昼間は部活あるし、すぐには返せないけど……でもちゃんと返事はするから!」
じゃ、そういうことで! と切原はまた走り去って行った。廊下を覗くと、もう彼の姿はなかった。
手元に残されたくしゃくしゃのレシートに視線を戻す。切原のことはよく知らなかったけど、勝手に不真面目で適当な人だと思っていた。補習になるくらいだし。お礼をしてもらうほどのことでもないのに、わざわざ戻ってきて連絡先をくれるなんて、意外と律儀な人なんだ、と少しだけ見直した。
もらったレシートはなくさないよう、丁寧に折りたたんで制服のポケットに入れる。早速今夜にでも連絡してみようかな、なんて考えながら、私は軽い足取りで教室を後にした。