目の前の椅子に、麻縄で胴を縛られた男が座っている。正しくは、私が誘拐し、眠らせて椅子に縛り付けておいた男だ。名を江戸川乱歩という。聡明で童子のような無邪気さを持った私の学生時代の知己である。
揺れる裸電球に隔てられながら、私は瞼を閉じた乱歩を、ぼうと見つめていた。どれほど経った頃か、彼の睫がピクリと揺れたのを見て、私は居住まいを正した。
「……ナマエ?」
乱歩は瞬きをしていた。驚いているからではない、僅かに残った眠気を覚ますためだ。
「あと七日で終わる」
「んー……僕の見立てでは五日だよ」
「お前はそう思うか」
乱歩がそう言うのならそうなのだろう。しかし誘拐した私の身としては、なるべく長い期間拘束しておきたいというのが犯人心というものである。せっかくだから、身代金などでも要求してみようか。金など手に入れても、使う当てもないのだが。
暢気に欠伸をしている乱歩の口に飴玉を放り込んだ。美味いと破顔する彼はとても誘拐されたようには見えなかった。
「さて、私はお前を誘拐した。いまこのとき、お前と私は友人ではないし、ましてやもてなしを受ける身分でもない。であれば、退屈な話の一つでも聞かねばならぬのが被害者の筋というものだ」
「そりゃまたケッタイだね」
「うん。その嫌がる顔が見たかったので、私なりに考えた」
ふと、壁に掛けたカレンダーを見た。過ぎた日付は塗り潰され、今日は七月の土曜日だ。乱歩が言うには五日で自分が発見されるという自信があるようなので、木曜には全て終わるのだろう。私が数年かけて練り上げた計画というのは、たった五日の命かと苦笑した。どこからか──否、きっと外だろう──幼い子供の笑い声が聞こえた。なんてことはない、土曜の昼下がりだった。
◆
乱歩との付き合いは中等部の頃まで遡る。
学校の書庫でのことだった。私はその頃退屈しのぎに蔵書の整理を行っていて、ちょうど入れ替えようと手を伸ばした本の背表紙に、違う誰かの指が触れた。
見ると、乱歩が立っていた。私は彼が本を借りるのだと思って身を引いたのだが、彼はそれを引き抜いて私に手渡してきたので、怪訝なふうに思った。
なんといっても、当時、彼は学校では悪い意味で有名人物だったからだ。サトリだとか腹黒だとかは同級生の弁である。たとえば、同級生の悪行を見ていたわけでもないのにぴしゃりと言い当ててしまうだとか、校庭に埋められていた犬の死体を下級生の愛犬だと言って、あまつさえその死体を泣いている当人に腐るまえに燃やしてくれと押しつけたとかで噂の絶えないやつだった。
私は彼を一瞥して、手にある本を元より二冊文ほど右にずらした。乱歩は頷いた。まったくその通りだと言いたげだった。
「全部覚えている?」
彼は不意にそう問いかけてきた。私は頷いた。
「何年前から?」
「一年前に」
「そう」
彼は私が先ほど入れた本を抜いて、今度は自らの手で一番最初の、私が整理する前に置かれていた場所に置いた。
「僕は二年前だ。だから僕のほうが、正しい」
私は彼が一つ年上だと気づいた。思い出したという方が正しかったろうか。
暗い書庫の中はいつも黴と蜘蛛の巣が張っていた。だから、私以外にこの書庫を使う生徒がいたのだなと感心したのを覚えている。また、彼の一連の行動に、私は彼が奇人たる所以を呆れながらに悟った。
「忘れてしまったことを思い出せるかい?」
「いいえ。そも、忘れてしまったことがないもので」
「そうだろうね。君は本当に初めて、僕の年について聞いたんだろう」
彼は好きなように呼び給えと私に言ったので、私は乱歩と呼んだ。よい名前だと思った。乱歩はその後、福沢諭吉という男と出会い、探偵社に入った。私は父の薦めで大学で薬学を学び、その後薬局に勤め始めた。
◆
「……きろ、ねえ、起きてってば!」
がつん、と体全体に衝撃が走って、私は目を覚ました。乱歩に食事を摂らせたあと、寝かしつけていたら、どうやら私まで眠ってしまったようだった。退屈そうに頬を膨らます乱歩は、私より先に起きていたようだが、退屈に耐えかねて実力行使に出たらしい。
乱歩が蹴ったのは私が座っていた椅子の脚で、角の塗装が白っぽくなっていた。ちなみに私の元々の寝床はやつに占領されている。また、麻縄はとうの昔に外され、乱歩は部屋を自由に行き来している。その気になればここを出ていけるのだろうが、なにぶん乱歩は世間一般的な常識がないので無理なのだ。分かりやすく言えばここは乱歩の勤めている探偵社から離れているので、帰るのには電車がいる。乱歩はどうせすぐ助けがくるのなら必要ないと自ら出て行くことを拒んだ。
「ねえ、遊びに行こうよ。どうせ暇なんだろう?」
「何を言うかと思えば。残念ながら、今日は仕事でね」
すると、乱歩は不思議そうに首を傾げた。
「僕を誘拐したくせに真面目に仕事をするのか」
「……むしろアリバイのためにやるとは思わないのか?」
「ないね。こんなバレバレの犯罪をしておいてそういうことを……冗談でも言うのは愚かだよ」
「じゃあ、明日から三日は有給を取る」
「そうこなくっちゃ! 行楽にでも行こうよ。それまでふて寝でもしておくから」
乱歩が寝床に横になったのを確認して、私は部屋を出た。玄関の鍵を施錠しようと思って、少し考えてから、やめた。
乱歩を誘拐してから四日目の日。昨日と一昨日と遊園地ではしゃぎ疲れた乱歩が流石に休憩させろとストを起こしたので一日中家にいた。
明日は乱歩の言う、解放の日だった。私は誘拐犯として最低限のあがきを見せようと思い、夕方から乱歩を連れて私たちのいたアパートから少し行った山へと車を走らせた。七月とはいえ、僅かに地上よりも高い場所にあればそう蒸し暑くもない。と、私は思っていたのだが。
「暑い。冷房つけてよ」
「生憎中古車でな。対して効かないぞ」
「いいからいいから」
辛抱のきかない乱歩に言われるがままに冷房をつけると、「多少はマシになった」と彼は自身が座っている助手席のシートを倒した。それから被っていた帽子を顔の上にのせ、静かになった。
私はしばらく運転を続けていたが、空から赤みが引き、日が沈んだのを確認すると、車を止めた。道路の隅に車を寄せ、エンジンを切る。ライトが消え、辺りは静まりかえった。山を中ほどまで登ったためか、虫とかよりも梟の声がよく聞こえた。
乱歩を見ると、彼は静かに寝息を立てていた。あと数刻もすれば私の犯罪は曝かれる。不思議と、口惜しいという気持ちはなく、それどころか私は完全犯罪を成し遂げたような気持ちで、口元が緩んだ。
私も彼と同じ高さに座席のシートを倒し、静かに目を閉じた。不意に、乱歩が差し込んだ本の位置が思い起こされた。記憶を紐解いていく。埃、黴、蜘蛛、本、指。何一つ欠けることなく、今でも鮮明に思い出すことができる。──それはまるで、本の頁のように。
「ねえ、ラジオを点けてよ」
意識が浮上した。いつの間にか、乱歩が起きていた。
私は車のエンジンをかけ直し、望み通りラジオをつけた。窓の外を見ると月は真上にあって、星空が煌めいている。
古めいた歌謡曲がノイズ混じりに掠れて、車内が静かになる。無機質な音が三つ鳴った。私はほうと息をついた。女性の声が今日が七月の木曜と告げる。それと同時に、車のサイドミラーにライトを点けてこちらに走ってくる車が遠く見えた。
隣に座る乱歩はむつかしい顔をして、というよりかは、屈辱そうな表情で、深い溜息をつく。
「君のそういうところが嫌いだよ」
──何を突然。私は乱歩を見た。
「はあ」
「……ずっと考えていたんだ。君が誘拐なんて巫山戯たことをする理由を」乱歩は淡々と、けれども本の一節を諳んじるようにすらすらと言葉を紡いだ。
「せっかく誘拐なんて面白いことをしでかしたんだからね。何か一つや二つ手を出してくるかと思ったらまるで介護じゃないか。僕の行きたいところに行き、食わせろといったものを与え、まるでそれが目的なのだと言わんばかりなのだから。だからさ、……つまらないよ! 退屈な男だ!」横たわったまま段々と喚きだした乱歩が五月蠅かったので、私はごろりと寝返りをうった。
「忘れたことがないから忘れる感覚が分からないんだろう。確かに記憶しちゃいないだろうけども、それは確かに僕も君から感じていたものだ。だから君に返す為に代弁するよ」
「何を?」
乱歩は静かになった。ふうと息を整えているので私は彼が何を言うのか待っていた。ただぼんやりと、彼が怒るというのはそう記憶にないなあと考えていた。
「独占欲。我が儘。嫉妬。劣情。この放蕩男め。君はただそれを処理する方法を知らなかったんだ。記憶しているだけだから。遡りもしなければ進んで行くわけでもない。昔からそうだった。最適解がない、有り体に言うと要領が悪いんだよ」
「我が儘はお前にも当てはまるぞ、乱歩」
「そうだ。けれど、それを自覚するぶん君よりはマシだ。君は、ナマエ──、こういうことは一度しか言いたくない。君の初恋は、僕だね」
「…………」
そのとき、私はようやっと乱歩の顔をまともに見た。「顔が赤いよ」指摘される。だけど心臓も熱い、私自身が熱源になってしまったかのように。狼狽する私を見て乱歩は首を緩く傾けて子供のように笑った。流れ落ちる前髪と、開いた目の翠が月明かりに照らされて、茹だった頭の中でひどく綺麗だと思った。冷房から流れる弱々しく黴臭い空気が、あの書庫と似ていた。
「そうだったか?」辛うじて言葉を吐いた。
「そうとも」乱歩は淡々としていた。
「……すきだ」
「嗚呼。分かっていたさ」
「愛している」
ウン、と頷いた乱歩は起き上がると、身を乗り出して私の唇に接吻した。一瞬だけ車内に明るい光の束が流れていって、すぐに暗くなった。止まると思っていた車は、緊迫した様子もなく私達の横を通り過ぎたのだ。私はそれに驚いたが、乱歩は気にすることもなく、私の耳元で囁きかけた。
「……それから、これは偶然だが……僕も有給を取っていた」
「有給?」
「そう。君に誘拐された日から五日。友人の家に泊まってくると言ってね」
「…………」
「だから、初めから誘拐なんてなかったのさ」
嘘だろうな、と私は思った。この聡明な男が、偶然なんて言葉で私と同調するわけがない。ただ、歩調を合わせられただけだ。乱歩はいつも、私の二歩も三歩も先を行くのだから。
「……帰るか」
乱歩は頷いた。私は座席を元の位置に戻し、車のエンジンをかけ直す。車を動かす前に、もう一度すきだと云った。乱歩はなんでもない様子で、僕もだよ、と応えた。──今の君がね、と付け足して。
Title by クラムボンをさがしに▲|BACK|▼