ゴッド・ファーザー


願いを込める。
ふと思い浮かんだのは家の近くの店でニューモデルと銘打って売られていた新作のスニーカーだったが、ナマエは頭を振ってその考えを打ち切った。
──母さんが帰ってきますように。ぼくたちの生活はもう滅茶苦茶です。観光客相手に雑貨だなんだとちょっとしたぼったくりで物を売って、しかも店主の婆さんにキツーく搾取されて儲けも雀の涙。その涙さえも妹の頬にぽたぽたと垂れていくばかりで、まったくままならない。だから、母さんが帰ってきますように。

街の広場にある噴水──観光客には“願いの噴水”だのなんだの言われて有難がられてるようでその実ただの噴水──に、一セント硬貨を投げ込み、ナマエは帽子のつばを押さえた。
「……はあ」
水底で小さく煌めく硬貨は一粒の砂金のように頼りない。昼間に観光客がこぞって投げ入れたであろう硬貨は殆ど回収されている。噴水が願いを聞き届けたから、なんてことではなくて、単に小遣い稼ぎとしてこっそりと拾い上げていく輩が多いからだ。

 イタリアの休日はナマエにとって大きな稼ぎ時だ。夏頃は特に儲かる。言葉が通じなくとも身振りと手ぶりで異国からの客を出迎える。最近はでたらめな英語も覚えた。しつこいと追い払われることも多々あるが、ナマエのような少年であれば彼らは警戒心を抱かない。
食器はあまり売れないが、ストールはよく売れる。ブランドのコピー品なんかは、偽物か本物かの鑑別をつける前に売り払ってしまう。値段交渉を挑む客に対して大げさに「酷い人ですね! 仕方ないなあ」と困ったようにしてみせるのもナマエは得意だった。

ただ、それでもナマエはときどき良心がちくりと痛んだ。
何十万と騙し取ったわけではない。観光客が帰国してからぼられたと気づいたとして、顔も思い出せない売り子に腹を立てるか、旅の教訓だと心に刻むくらいのものだ。殆どは。
ただ、たった一セント噴水に投げ込むのを躊躇する自分を思い出し、ナマエは客から受け取ったユーロ紙幣をしまい込むのに戸惑うことがあった。
「もっと別の仕事がしたいな」
「?」
「ああ、すみません。なんですか?」
食器を手に取って見ていた客──恐らくアジア系の男女がカップとソーサーをナマエに差し出してきていた。男性が財布を取り出している。購入するのだろう、ナマエは毎度、と言って代金を受け取った。
食器を簡単に紙で包みながら、ナマエは割れないといいな、と思った。この後、二人がどうするのかはナマエには知る由もない。旅行鞄に詰められるか、郵送されるかもだ。酷い扱われ方をするときもあるのだという。
ナマエは、もし自分だったら、出先で買った物が、家に帰って包みを開けて少しでも欠けていたら悲しくなるだろうな、とぼんやり思った。きっととてもがっかりするだろう。
数日も経てば忘れてしまうだろうが、痛みは必ず一度、やってくる。
「どうもありがとう。気をつけて」
 気持ち多めの紙で包んだ食器を袋に入れ、女性の方へ手渡す。ありがとう、と女性は言った。ナマエは、異なる言語での会話はうまくできないが、“ありがとう”の言葉だけは理解できていた。

広場の鐘が十八時を告げるころ、ナマエは店じまいをした。夜になれば治安の関係か、客足は遠のく。
売れ残りを持つと、店を開いている路地のすぐ近くにある家に向かい、ナマエは戸を叩いた。
しばらくして老婆が顔を出す。ナマエは売上を入れた籠と、売れ残りとを彼女に手渡した。小銭を避け、老婆が紙幣を一枚一枚数え始める。それが終わると、老婆はその中から一枚を抜き取ってナマエに手渡した。
「十ユーロ」
「二十は?」
「バカ言うな。十五だね」
「小銭は?」
「十セント」
「……二十」
「いいや、十セントだ」
また明日、と名前は戸を閉めて二枚のユーロ札をポケットに突っ込んだ。

 ぐう、と空腹を訴える腹を宥めながらナマエは帰路を急いだ。
帰り道には必ず少し高級なリストランテの前を通り過ぎなくてはならず、ナマエは歩きながらちらと赤い照明の輝く看板を見た。
数秒、足を止めてしまう。
文字つきのガラスの向こうに、食事をしている家族が見える。父親と母親、そしてその子供だろうか。懐かしいような光景を見て名前は知らずのうちにため息をついていた。
からん、と戸を開く音がする。ナマエは我に返り、ガラスの向こうの光景から目を反らした。

出てきたのは四人の男女だった。男が三人、女が一人。
一人が少し酔っているのか、金髪の青年が介抱している。その隣を女性と、もう一人の青年がなにやら話しながら歩いていた。

「だからぼくは飲ませるのに反対だったんです」
「あたしに止める義理はないわ」
「もうミスタは捨てていっていいんじゃあないですか? ……はあ? だったらスタンドのお前らが止めればいいだろォーがッ!」

 騒ぎながらもどこか楽し気に去っていく彼らをナマエは見る。羨ましい、というのが素直な感想だった。同時に、妬ましい、とも思った。
──みっともない。ナマエは苦笑して踵を返そうとする。その拍子、かちん、と小さな音が鳴って、ナマエは歩きかけた足を止めた。振り返る。彼らが通り過ぎて行った道に光るものがあった。それは転がってきて、ナマエの足元近くで止まる。
光ったのは十セント硬貨だった。先ほどの四人から落ちたのだろうか、ナマエはそれを拾い上げて逡巡した。
「…………」
ナマエは自分のポケットから同じ十セント硬貨を取り出した。どちらも代り映えしないただの硬貨だ。
売り上げの籠の中身。本当は二十セント欲しかった。一枚二枚増えても別に何かを買えるわけではないが、多いに越したことはないから──。
二枚の硬貨を握りしめる。ふと、今日食器を買っていった男女の嬉しそうな顔を思い浮かべた。

「×××××」

小さく口にしたのは彼らが口にした異国の言葉だ。ありがとう、という意味。
ナマエは十セントをポケットに戻し、息を整えてから、少し遠くに見える四人の背中を追いかけた。



「ほら、百ユーロ」

渋々といった様子で差し出された数枚の紙幣を見て、ナマエは老婆を二度見した。
本当に? と尋ねると「いらないならいいんだよ、いらないなら……」と凄まれたため、ナマエは即座にそれをしまい込んだ。
確かに今日は休日で儲かったとはいえ、かなりいつものレートより高い。ナマエはなにか別口の仕事でも始めるのかと身構えたが、また明日と言っても戸を閉めても、何も起こることはなかった。

 帰りがけになんとはなしにいつもの噴水に寄って、ナマエは一セント硬貨を取り出す。
願いが叶った──わけではないが、生活を少しでも安定させたいという望みは叶った。もっとも、明日にはいつも通りしょっぱい給料を支払われるだけかもしれない。
硬貨を泉に投げ込む。緩く放射を描いたそれは水に落ちた。ナマエは癖で中を覗き込み、首を傾げた。

「あれ……?」
投げ込んだはずの硬貨は見当たらず、代わりに赤い金魚が一匹泳いでいる。
「ねえ、きみ」
とん、と肩を叩かれてナマエはびくりと振り返った。
「これ、落ちたよ」
差し出されたのは一セント硬貨だ。
「えっ? あれ、確かに──」
「投げた?」
「そう。あれ……」
ナマエが見上げた先にいたのは、数日前にリストランテから出てくるのを見た男女のうちの一人、女性と話していた金髪の青年だった。
「そうだ、ジョルノ、ジョルノさん」
ナマエが思い出したように青年の名を言うと、青年──ジョルノは一セント硬貨を手渡して言った。

「ここに投げたものは返ってこない。きみの願いとは関係なしにほかの誰かが持っていくだけだ。だから、それはきみが持っていたほうがいい」
「ちょっと待って、これは僕のじゃ……」

ナマエは振り返って噴水を見た。先ほど水中を泳いでいた金魚はおらず、かと言って硬貨が沈んでいるわけでもない。
「きみのものだよ」
ジョルノは重ねて言った。
ナマエは不思議に思いながらもそれをまた否定するわけにもいかず、素直に硬貨をポケットに戻した。ポケットの中の、もらったばかりの紙幣に少し皺が寄った。
それを見届けたジョルノは噴水を一瞥すると、それから何事もなかった様子で歩いていく。
ナマエは呆気にとられてただ彼の背中を見つめていたが、それから弾かれたように声をあげた。

「……ねえ! 仕組みはよく分かんないけど……あなたがすごく優しくて、いい人だってことは僕にも分かるよ!」
ジョルノがぴたりと立ち止まる。彼は振り返って答えた。
「……ぼくは別に慈善家ってわけじゃあない。ただ君は自分の良心に従って、ぼくはそれが好ましいと思った。それだけのことだ」
彼はそのまま、また歩き出した。ナマエの頭にはたくさんの言葉が思い浮かんでは消えた。それから、ナマエは少し踵を上げた。

「ありがとう!」
 ジョルノは、今度はなにも答えなかった。ナマエは被っていた帽子を取って、胸の前に抱いた。教会で祈るのと同じように、一瞬だけ目を閉じた。

 ナマエはしばらくジョルノを見送ったあと、帽子を被りなおすと、急いで帰路についた。
家のドアの前にはナマエの帰りを待つ幼い妹がいつものようにじっと座り込んでいた。ナマエは彼女に駆け寄ると、思いきり、力いっぱい抱きしめたのだった。


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