「お父さま?」
その時、大好きな人に名前を呼ばれたような気がしました。
「いかがされました?ご令嬢」
「いいえ……」
豪華客船の荘厳な装飾が施された廊下を振り返ると、ドレスやタキシードを美しく着飾った乗客たちが楽しそうに談笑しています。
何か、聞こえたような気がしたけれど……気のせいだったのでしょうか。耳を澄ましても、向こうのパーティー会場からかすかに漏れるジャズバンドの演奏が、鼓膜を通り過ぎていくだけ。特に変わった様子はありません。
「なんでも……ありませんでした」
本当に、なんでもなかったみたいです。それならなんでもいいわ。
また一歩、歩き出したところで、私はまた立ち止まりました。今日はお父さまの付き添いで慣れないヒールを長時間履き続けていたから、足を痛めてしまったようです。
それに、パーティーの独特な雰囲気のせいで精神が常に張り詰めてしまって、ぼんやりと頭痛がするような。
「あの、ごめんなさい。ええっと、オモダカさま?」
「はい。どうされました?」
「せっかくここまでご案内いただいたのですが、なんと言いますか、少し気分が優れなくて……」
「おや……これはこれは、こちらの思慮が至らず大変申し訳ありません。お体の具合は?あなた、医者をお呼びなさい」
「あっ、いいえ!そこまででは、ないのです。お部屋で休めば……きっと大丈夫になりますから」
私の言葉に、彼女は安心したように胸に手を当てました。
「よかった。大事には至っていないようですね」
この豪華客船のオーナーを名乗った彼女……オモダカさまは、さっき私が一人ぼっちでいたところを親切にも声をかけてくださいました。そればかりか、退屈しないように自ら案内役を買って出て、この一時間ほど色々なお話を聞かせてくれたのです。
パーティーの会場内でよく見かけたマダムより全然若く見えるのに、最初は少し威厳のようなものを感じて萎縮してしまったけれど……とても優しい目をした人です。
「では、お部屋へ……“戻られますか?”」
オモダカさまは、私を安心させるように微笑み、手袋をはめた右手をこちらへ差し出しました。
……今なにか、含みを持った笑顔のように見えたけれど、このお方はもともとミステリアスな雰囲気を纏う人だから、気のせいでしょうか。
「ええ、そうしますね」
「お供いたしましょう」
「まあ!お気遣いありがとうございます。ではお願いしようかしら」
部屋の扉を開けると、お父さまが全身から血を流して生と死の間をさ迷っているところでした。
豪華客船の一部屋。私たち父子に用意されたその客室に、吸い込まれるように一歩足を踏み入れた……私。それは即座に視界に入り込み、私の心を掻き乱しました。
「お、お父さま……?」
扉の正面、向かい合わせに置かれたソファーの片側に、お父さまは座っていました。いいえ、座っているというよりは、かろうじてソファーの座面に上半身が乗っているような体勢。
何よりも驚愕したのが、全身から……文字通り、全身から、たくさんの血を流してぐったりしているではありませんか。
船内でのパーティーから一時退却し、私より一足先に部屋に戻られた父に、いったい何が起こったのでしょう。頭を割られ、さっきまで紳士らしく着飾っていたタキシード諸共手足や胴体を引き裂かれ、床のそこかしこに血溜まりをつくり、精巧な蝋人形のように動かない。
私が見間違えるはずなんてないのに、あれが本当にお父さまであることを疑ってしまったくらい、それは常軌を逸した姿をしていました。
「お、お父さま……お父さまっ!」
私は即座に駆け寄ろうとしましたが……思わぬ出来事にその場で足踏みをしました。騒ぎを聞きつけたのか、“部屋の奥から”、見知らぬ緑髪の女性が「ふわぁ」とあくびをしながら登場したのです。
「え、?」
彼女はそこで父が血だらけになっているにも関わらず、まるでそれが普通であるかのように、悠長にも背伸びをしながらこちらに目をやりました。
だ、だれ?
まさか、犯人?
だって、服に血が――。
「なんや、わざわざここまで連れて来てくれはったんですか。探しに行くの面倒やと思ってたとこで……さすがボス、親切やわぁ」
……いったい誰に話しかけているの?
その時、誰かが私の両肩に後ろから手を置きました。手を置いて、返事をしました。そこにいるのはもちろんのこと、ずっと一緒にいた……彼女一人。オモダカさまが口を開きました。
「いいえ。私わたくしは部屋に戻られる彼女に付き添ったまで。あなたこそ、こんなところで油を売って何をしているのです?」
「いやぁ、この部屋、あっちの方にいいベッドがあったもんですから。仮眠でも取ろうかと」
「うふふ。まったく……困った人。あなたはマイペースなところが目に余る」
私はただ、その場に立ち尽くしました。オモダカさまは……私に親切にしてくださった、この豪華客船のオーナーで……今、私の目の前には父が、今にも死にそうな父が、ぐったりと倒れていて……その部屋に、返り血、のようなものを浴びた女性がいて……彼女と、顔見知りみたいに言葉を交わす、オモダカさまに、優しく肩に手を置かれている。
さっきはすぐに医者を呼ぼうとしてくれていたのに、どうして今は、呼んでくれないのですか……?明らかに、今の方が緊急事態なのに。
「しかし、今日のところは目を瞑りましょう。“彼女と最期に”楽しいひと時を過ごせたので、今はとても良い気分なんです」
後ろから身を乗り出したオモダカさまは、私に向かって「ね?」と微笑みました。その優しい表情が今となっては恐怖でしかなく、私の体は必然的に小刻みに震え始めました。
「はぁ。そりゃよかったですね」
そんな私のことには目もくれず、緑髪の女性はテーブルの上に置かれていた酒瓶を手に取り、我が物顔で煽って……あれは、父が今日のために用意していた、記念のものなのに……。
せっかくのお酒を、彼女はおそらく前々から少しずつ飲み進めていたようで、すぐに飲み干してしまいました。
オモダカさまは、その少々ふざけた態度にもふふ、と微笑み話を続けます。
「私はもう少しパーティーを楽しむことにします。せっかくの機会ですし、“あなたがた”もご一緒にいかが?ほら、素敵な衣裳に着替えて」
「あー、まあ、あなたが言うんなら。そうさせていただきますわ」
「そう。嬉しいお返事。ただし、“本日最後の仕事”を終わらせてからになさいね」
「ええ。そりゃあ、もう、仰せのままに――」
敬った言葉遣いをしていながら、どこかおぼつかない顔をしているのは、あの方が自分でそう言っていたように、つい今まで本当にこの部屋で眠っていたであろうことを示していて……この時点で、彼女が父をこんな状態にしたということは、しかと理解せざるを得ません。
「――このチリにお任せあれ」
酒瓶を手に持ちながら、ここばかりは背筋を伸ばし、片足を引き、至極丁寧にお辞儀をする緑髪の女性。それは恐怖に怯える私から見ても美しく、目が離せませんでした。
オモダカさまの手が肩からするりと離れたところで、いつの間にか扉の前にはさっきまで私のボディーガードだったはずの、スーツを着た屈強な男性がこちらを見張るように立っており、周りに誰も味方がいないことにただ絶望するばかり。
私にできることといえば、黙って様子を見守ることくらいで……オモダカさまは何事もなかったかのように部屋を出て行こうとしています。最後に「チリ」と彼女の名前を呼んで。
「愉しむのも結構。しかし、ほどほどに」
扉は音もなく閉められました。
+
「あの人、怖ない?」
今度は、今度こそ、彼女は私に話しかけてきたようです。訛りのある口調で、馴れ馴れしく。そんなことを尋ねられても、私は状況を整理するのに忙しくて何の反応もできませんでした。
「あぁ、もう、めぇっちゃビビったわぁ……。いっつも急に現れるんやから……こわぁ。ほんま、妖怪やなかったらなんなん」
それでも彼女はお構い無し。オモダカさまがいなくなった途端、さっきまで辛うじて保っていた礼儀正しさは、空の酒瓶をぽいっと床に投げ落としたことで台無しです。
それは絨毯の床に真っ逆さまにゴトンと落ち、その鈍い音にビクリと震えてしまいました。
「んなとこで何しとん。こっち来やぁ」
「え、あ、……だ、だれ、なの……っ?あなたたちは、いったい、なんなの……!?」
「いいから、はよ来いや。はよせんと、君のお父さんぽっくり逝ってまうで?最期の挨拶せんでええの?」
ようやく声を出せたと思っても、彼女は当然質問には答えてくれず。怯える私に向かって、手招きをしているよう。
「え、……え?」
「しゃあないなぁ、ほら、こっち」
うろたえる私に、彼女はその長い足で大股でこちらまでやって来て。二の腕を捕まれた私は、引きずられるように父の目の前まで連れてこられました。
父は……もう動いていませんでした。
「あちゃあ、間に合わんかった」
声にもならない声が、私の喉元をすり抜けていく。
「ぁ……、……っ」
人が死ぬところを見たのは初めてだったから、足が竦んで、息が上手く出来なくて、いくらお父さまでも見ていられなくて……その場に倒れ込そうになってしまいました。
それを彼女は、親切にも腕で支えてくれました。
「でもま、ニアミスみたいなもんやから。すぐ同じとこに行けるで。よかったなぁ」
……あ。
……ああ。
このお方は、私のことも殺す気なのですね。
どうしてこんな状況で笑っていられるのか、少しも理解できない。逃げなければ殺される。逃げなきゃ、逃げて、誰かに助けを、求めなければ。
「は、はなして……ッ」
私は思い切って踵を返し、なりふり構わず彼女の腕を振りほどいて駆け出しました。でも、いったいどこへ行けばいいの……?扉の方へ逃げたくても、そっちには見張りの男性が仁王立ちしています。
どうして?彼も、オモダカさまと同じで、彼女の仲間だったの……?考えたところで疑問が解消されるわけもなく、退路を絶たれた私は必然的に、奥の部屋のベッドがある方へ向かうことになりました。
そこで、私はようやくもう一人の存在に気が付きました。
「……ん……チリ、さ……」
ベッドの中から、声が聞こえてきたのです。すぐにどこかに消え入るような、か細い声が。
「……え、……!?」
さっきから、驚くことばかり。けれど、今の私は確かに正気で、夢の中とは思えないほど視界がクリアに見えています。
そこには……女の子がいました。私の部屋の、私のベッドで、同じくらいの歳頃の女の子が、すやすやと眠りについていました。
「な、なんなの……!?」
誰、なのでしょう。迷子……?まさか、そんな。パニック状態に陥っていた私は、そんなことよりもまず彼女の身を案じて無意識に駆け寄っていました。
「ねえ、ねえ!起きてっ……!起きなきゃ、あなたも危ないわ……!」
この部屋には父を殺した殺人鬼がいて、今まさに私が追われている。こんなところで寝ていたら危ない。それは、至極当たり前の思考だったはずなのに。
後から考えてみれば、この時の私の行動は相手から見るとどうしようもなく滑稽だったことでしょう。
そのまま追いついた彼女に後ろから口を塞がれるように、私の体は拘束されてしまいました。
「やかましいわ。起こさんでええねん」
捕まって、しまった。私、ここで終わってしまうの……?父と同じように。
それに、この子は……。この子がここで寝ていたこと、あなたは、知っていたの。ああ、そうだ、馬鹿な私。このお方は、今の今まで奥で寝ていたってこと、ついさっき教えてくれたじゃない。つまり、ここで、一緒に寝ていたの?この子もあなたの仲間なの……?
「ベッド、貸してもらっておおきにな。しつこく眠い眠い言っとったから、もう少し寝かせたって」
どういう、こと?……なんで?……どうして、父をあんな目に遭わせておいて、どうして、そんなに優しい声をしているの……?
どうして?どうして?どうして……?
混乱に混乱を重ねた私は、堪えきれずに決壊してしまいました。強い不安が涙となって、口を押さえたままの彼女の手を濡らしていきます。
どうして、私たちは何も悪くないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの……?
「せやなぁ、難儀なことに……ボスは大事なことだけ黙っといて相手の反応を愉しむ癖があんねん。せっかく一緒にいたんなら、教えてくれたってもええのにな。同情するわ」
力の強い彼女の拘束は、もがくことすら許されず。私を捕まえたままベッドから離れ、窓際の方まで移動して、ナイフを首元に――――
「うちから一つ言えるんは……君は運がなかった。ただそれだけや。あ、大声だけは出さんようにな」
その言葉と同時に首元がグシャッと深く切り裂かれ、私の体はその場で崩れ落ちました。そのまま彼女の体に寄りかかったのを、邪魔そうに押しのけられて、柔らかい絨毯に仰向けに倒れ込みました。
動かない手足。開いたまま閉じない両目。視界に広がる赤い血液がとめどなく溢れ出て来ます。
「……お、……とう、さま……」
強烈な痛みと遠のく意識の中、緑髪の殺人鬼はこの騒ぎの中でも未だベッドで眠る女の子に……そっと、口付けをしました。まるでどこかの国の王子さまのように。まるで童話の中の幸せな光景を見せつけられているようでした。
そして私はただの背景に成り下がる。
どうしてあの子は無事で、私は殺されたのでしょう。
どうしてあの子は幸せそうな顔で眠りについていて、私は醜い顔で死にゆくのでしょう。
あの子と私の違いは……なんだったのでしょうか。
神様……?向こうへいったら、どうか、教えてくださいな。
+++
「よう眠りよる。いつの間にか死んどるんやないかと思ったわ」
「……ん、……おは、よ、ござ、ま……」
「もう夜やけど」
はて、私はいつから眠っていたのだろう。重たい目をこすりながらきょろきょろと周りを見回す。えーっと、確か……。
今日は深夜に突然「出かけるで〜」と叩き起されたかと思えば、お人形さんに着せ替えするみたいにあれよあれよと身だしなみを整えられ、いつもより華美なドレスに身を包み、髪の毛はくるんと巻いて、それに合うお化粧まで施された。
チリさんはチリさんで、なんだかモデルさんみたいな服装をしていて、今日はいったいどんなイベントが待ち受けているのだろうかと首を傾げている間に、駐車場でシンデレラの馬車みたいに待っていた、黒光りする大きな車に詰め込まれた。
「ああっ!チリさん今日もバシッと決めてカッコイイじゃないすか!」
そこで待っていたのは、片目が隠れたキザっぽい男の子……運転席に座っているから、運転手さんだろうか?
「どう?イケてる?」
「そりゃもう!ハイダイ料理長の美味いもんいっぱい食えるっていうから、俺も気合い十分入れてきたってのに、くはーっ!眩しいちゃんだぜ……さすが幹部ってか〜?」
「なはは。こんな時間でも元気がええなあ、ペパーくんは。ほんなら頼むわ」
私と歳が近そうなのに、チリさんに対して若干砕けた言葉遣いをしているから、普通の部下の人たちよりは親しい関係なのだろうか。
「これオルティガ坊ちゃんに借りた車なんで、ちょっとばかしうるさいちゃんかもだけど、安全運転で行くぜ」
出発前、頭上の小さな鏡(バックミラー)越しに目が合うと、その子はニッと笑って親指を立ててくれた。あ、いい人そう。
いったいどこに連れていかれるのか分からないまま……隣で平気そうに腕や足を組んでいるチリさんにしがみついて、ガタガタ震えながら人生で初めての高速道路を体験した私。
その車が行き着いた先は、豪華客船という、バカでかい船だった。
「じゃ、俺は先に来てるはずのいつメンと合流するんで。今夜か明日か明後日にでも、パーティー会場で会えたらいいっすね!」
「おー。お疲れさん。報酬はまた今度な〜」
車を降りるとき、運転手さんは外から後ろの座席のドアを開けて、段差を少なくするための木の足場まで用意して、流れるように私の手を取り「足元、気をつけな」と支えてくれた。
「ありがと……」
「いいってことよ!」
エスコートってやつ?なんか、今のは本当にシンデレラのような気分だった。私が唯一読んだことのある絵本だ。不幸な娘が綺麗なドレスに身を包んで、舞踏会へ……。
それ、今の私のこと?なんちゃって。
ほんと、変な気分。
「今日は全部で三人……か」
窓から朝焼けの見える客船の廊下を進みながら、チリさんの独り言に耳を傾ける。周りにはふつうに人がいるけど、この人が言っているのはたぶん今日殺す予定の人数だ。
この船では明日までに人が三人死んでしまうらしい。事件だ……通報しなきゃ。
「まあ、こういう重鎮が集まるパーティーにしては少ない方ではあるけどな?めんどいことには変わりないわ〜……このチリちゃんが、一日で三人も殺れるかっての、もー、困ったボスやで、ほんま」
「……」
それ、ボスに聞かれたらヤバいのでは?まあいいか。私には関係の無いことだ。
それより、私ってチリさんのお仕事現場を見たことがないんだよな……初対面の時を除けば。暗殺はもちろんのこと、普段この人が担当する尋問系のやつも、見たことがない。
チリさんはここでお仕事をするために招集されたらしいが、どうして私まで連れてこられたのだろう。
「そりゃあ、うちらのボス主催のパーティーなんやから、これ。お呼ばれされただけや」
パーティー……そんなもの、もちろん参加したことがないから想像もつかない。まあなんか人が集まってわいわいするやつ、っていうのはなんとなく分かる。
「もちろん表向きにはそうやなくて、ボスが持ってるグループ会社とその取引先のお偉いさんがたによる、えー、これからもよろしく〜っちゅうアレや。アレ」
「よくわかんないですけど……私は、そのどこかの会社の関係者のふりをしていればいいってことですか。一般人のふり、みたいな……」
「そゆこと。理解が早いなうちの子は。ま、ちゃあんと自分専属のボディガードがずっとそばにおるから安心せえよ」
「ボディガード……?だれですか、それ」
「チリちゃん」
「ああ……はい。そうですか」
「もっと喜べや」
そんなこんなで豪華客船は明け方に出港。この次に寄る港で、本当の一般客が乗り込んでくるらしい。
しばらくは自室で待機の時間だったが、初めてのことばかりでテンションが高まっていた私は、二度寝もしないで窓の外の海をわくわくと眺めたり、部屋の中のきらきらした飾りを眺めたりしていた。
そうそう、それで、その後さらに時が過ぎ、太陽が沈みかけた頃……。
「チリさん、ねむい」
「あー、今日あんま寝れんかったもんな」
「ねむい、ねむい、ねむい」
「やかまし……急かすなそうやって。もうすぐ終わるんやから我慢せえ」
「……でも、あと二人も残って……」
「なんや自分!チリちゃんの仕事が遅いって言いたいんか!?」
「うん……」
一人目、思ったよりもすんごい時間がかかっていたから、これがあと二人分あると思うと気が遠くなりそうだ。この人本当に……人を殺すの得意じゃないんだな……というよりは、もはや人を虐めるのが大好き!!!って感じだった。それはもう、引くほど……(話し出すと長くなるので、何があったのかは割愛)。
聞けば、今日は拳銃が使えない日なのだそうだ。理由はこの船のオーナーであるボスが、自身の持ち物の床や壁に穴が開くのを嫌うから。
おかげでナイフ一本での暗殺を余儀なくされ、結局多くの血液で床を汚すはめになっていた。傷を付けるのは嫌でも、血痕については謎に許容してくれる、謎の多いボスである。
「……ね〜え、……もうねるの……」
チリさんに小さな子みたいに手を引かれながら目を擦る私。眠いのは本当だ。でもかまって欲しくてわざと足取りを遅くして、わざと大きなあくびをすれば、思った通り「しゃあないなぁ」と体を支えてくれるチョロいチリさん。
「今夜はゆっくり寝させたるから。起きるまで起こさんようにしたるから。な?わかった?あとちょっと、我慢しよな?あと少しやねん。ほんま。チリちゃん、次は上手くやれるわ」
「(どうだかな……)わかった……我慢する……」
「よぉ〜しよしよしよし!いい子やねぇ〜」
そんな会話をしたところで、目的地に到着。二人目だ。中にはとある外資企業の偉い人がいるらしいが、私は今から殺される人の詳細なんて特に興味がないので、ただひたすらチリさんの後ろについていくだけ。
ボディーガードの人が忙しいと、こっちが振り回されるから大変だ……。
「ほな、ごめんくださーい。失礼しますよ」
「な、なんだ君たちは?外のガードは、どうした……!?」
「ん?ああ、外のあんちゃん、うちの知り合いなんよ。飯奢る仲やし、彼女さんの名前も知ってんで。そりゃあ顔パスや顔パス」
「……はっ?」
「んじゃ、さっそくやけど、さようなら」
「待っ――」
チリさんがようやく二人目のターゲットに取り掛かったところ……私は奥の方にいい感じのベッドを見つけ、誘われるように倒れ込んだのだった。
チリさんのことだ、どうせまた時間がかかるだろうし、ここで一休みすることにしよう。うん。それがいい。
「お、おま、えッ……!わ、私の……娘は……ぶ、無事、なのか……?……ッあ゛あ゛あ」
「うっさいわ。はよ逝け」
「ぎゃ、っあ゛あああっ!はぁ、はぁ、……っ離せっ、クソ、……リリー、リリーッ……!」
「アッ避けんな!ダル〜!なんやコイツ、ちょこまかちょこまかと!ネズミか!?黙ってとっとと死に晒せッ!」
「チリさん、うるさい……」
……あの男の人、チリさんが殺すの得意じゃないせいでやっぱり無意味に拷問みたいな真似をされていた。まあこれでも一人目よりはマシだ。
苦しみに悶えながらずっと誰かの名前を呼んでいたから、眠るのに少し耳障りだったけど、眠くて眠くて、そんなことも気にならないくらいすぐに意識は遠のいた。
そして、現在。
窓の外はとっくに暗く、どのくらいの間眠っていたのか私には知る由もないけれど、目覚めた時、ちゃあんと私のボディガードさんがそばにいてくれたからとても安心した。
「おはよ。あんたがすやすやしてる間に、チリちゃんもう仕事終わらせてしもた」
「……そうですか」
てきとうに返事をしながら、ん、と両腕を広げると、チリさんはそれを無視して私の顎に片手を添え、優しいフレンチキスを始めた。……仕方なく、行き場をなくした腕をベッドに落としてまだ眠い頭でそれに応える。
だめだ、まだ眠い。眠たくて眠たくて、まぶたが落ちかけて頭がこてんと真横に倒れた。そんな私に微笑みながら、同じように顔を傾けキスをする彼女。さらに体ごと後ろに倒れ込みそうになると、チリさんは後頭部を支えてまでしつこく口付けを続けた。
「……ぐぅ」
チリさんの腕の中で、ほとんど二度寝につく私。こっくりこっくり船を漕ぐ頭が目の前の肩にコツンとぶつかり、さすがにうっすらと目を開ける。
「さーて、そろそろボスが待ちくたびれてるところや」
「……?今日は、このあとなんもないって……」
「それなぁ。今夜はパスしよかと思っとったんやけど、さっき直々にパーティーに誘われてしもたんでな。起きたんならはよ行くで」
「……そう、なんですか」
ふと。
窓際の方の床を見ると、いつの間にか死体がひとつ増えている。可愛らしいお洋服に身を包んだ、私と同じくらいの年頃の、可愛らしい女の子。
……ああ、この子が三人目だったのか。二人目の人の、娘さんかな……?本日三度目ともなるとチリさんの手も慣れたのか、あまり苦しんだような顔はしていなかった。切り口も一つだけ。すぐに楽になれたのかな。
「……」
いいなぁ、私もあんなふうに安らかな顔をして眠りたい。きっと天国へ昇ったのだろう。私はもうそこへは行けない。
「……チリさん、まって」
「なんや」
ベッドのへりから立ち上がろうとしたチリさんを呼び止める。私は振り返った彼女の頭に抱きついて、そのまま後ろに体重をかけた。
まっすぐ目を見て「まだ行きたくない」と訴えかけると、チリさんは片眉をあげて壁に手をつく。
「ハァ〜甘えたさんやなぁ。ボスに怒られてもええんか?」
「怒られるのは、チリさんだけだもん。あの人、いつも私には優しいから」
「しばくで」
ボス……というのは、聞いて驚け。前に私にココアとサンドイッチとショートケーキを奢ってくれた、お嬢様みたいな女性の正体だ。
その名もオモダカさん。あれから何度か顔を合わせる機会があり、その度に何故だか懇意にしてくれている。
正体を知った時には顎が外れそうになるほど口をあんぐり開けて驚いたものだけど、元々感じていたそのただならぬオーラに「言われてみれば感」があり、納得したものだ。
既に支度を整え、手袋まではめたチリさんの手を取る。今は、そういう気分なの。私はめげずに、すぽーんとその手袋を外してしまった。
「ああ、ああ、困った子やな」
「おねがい。チリさん。おねがい、します」
「お願いったって」
「少しだけ……私も天国に行きたいの」
「……なんや?それ」
「こっちの話」
+
「ん、……」
今日もまた、名前も知らないどこかの誰かを殺した、その手。ナイフや拳銃を握り慣れているとは到底思えない、チリさんの白くて綺麗で長い指が私の中で蠢いている。きもちいい。寝起きだから余計に。
血の香る死体のそばで、体をくねらせよがる背徳感に、脳内が焼けているみたいに熱い。
「……チリ、さ……ん」
「……ん?」
すき。
「ちょお、二度寝させるためにわがまま聞いたんやないで」
「……ん、…………」
「あかん、だめだこりゃ」
反応の薄い私に呆れながらも、優しく動かす手は止めないんだから、チリさんはとことん私に甘くなったな。
目を閉じて、だんだん強まってくる快感に集中する。めくれあがったスカートから覗く膝を擦り寄せ、素足をチリさんの腕に擦り付ける。
「……ぁ、……ん、っん……」
右手の甲を口元に寄せて、もう塞がった傷跡にガリッと歯を立てる。鈍い痛みで気が紛れるから、行為の際はこうするのが癖になってしまった。
「顔、隠さんといて」
すると、決まってチリさんはその手をとっぱらって、ほとんど密着するような形で覆い被さってくる。下の手は動かしたまま、口を塞いで、ちゃんと舌まで割り込ませて、口内をなぞられ、あつあつの唾液がおりてくる。
そんなことをされたら噛むにも噛めず、でも抵抗もでぎす。ほんのり香るお酒の匂いを感じながら、そのまましばらくの間きもちいところを執拗に撫でられて……すぐに頭が真っ白になった。
「……ひぁ……、っ、はぁ、はぁ……ん、…………っ」
いっちゃった。うっすらと目を開けて、肩で息をする。涙で視界がぼんやりする。酸素を取り込むために口を開けて、小さな声でチリさんの名前を呼んだ。チリさん、よく見えない。
そしたら、返事の代わりにまたキスをされた。三回くらい。軽く触れるだけのやつ。ぎゅうぎゅう締まる中の感触を楽しんでいるのか、未だに指を動かされてる。びくびく震える太ももが自分からでも丸見えだ。今になってスカートがめくれてるのが気になって、裾を手でぎゅっと引っぱった。
「かーわい」
「……」
眠たい。でも、起きなきゃ。わがままはこの辺にしないと。
チリさんにぎゅうっと抱きついて、起こしてもらった。そのままひっついていたら、何も言わずにしばらく抱っこしてくれた。その間、チリさんは背中を優しくさすってくれた。温かい。ママ、みたい。
私には訪れなかった幸せな幼少期を、今、取り戻している気分だ。
+++
「ごきげんよう、お二人とも。素敵なお召し物ですね。よく似合っていますよ」
「どうもおおきに……って、あなたもね。さっきは言いそびれてしもたけど。いつもの黒ずくめもあなたらしいけど、着飾った姿も好きですわ」
「ふふ、ありがとう」
「ほれ!あんたも!ボスの御前やで!」
「いたっ。……あ、ありがとう、ございます。オモダカさん、きれいです……」
「うふふ。ありがとう」
背中いたい。
目覚めてみれば思ったよりも夜はそこまで深くなく……むしろこれからが本番、みたいな雰囲気で会場内はわいわいと賑わっていた。
どこもかしこもキラキラしていて眩しい。自分がこんな、文字通り汚くない、綺麗な格好をして綺麗な場所に立てる未来が来るなんて。
まあ、多少血で汚れてはいるが……そんなことは些細なことだ。
「……」
片方はほとんど男装だけど、女性二人の会話なんてそっちのけで、テーブルに並べられた食事やらデザートやらを見つめる私。色鮮やかで、美味しそう。口の中でよだれがぶわっと吹き出してくる。
なにより、昔の私の百年分くらいの食事が一度に出されている光景は、目を見張るものがあった。あの量、ここにいる人だけで食べ切れるのかな……。
「なんや、腹減ったん?」
「……うん」
「あら。せっかくなら、良い場所をご案内いたしますよ。もしかしたら先客がいらっしゃるかもしれませんけれど」
オモダカさんはボスなのに、率先して色んなところを案内してくれるなぁ……まあこの船が彼女の表向きの会社のもの、という話は聞いているので、そういうものなのかもしれないが。
チリさんと私は、比較的人の少ない、けれども船内のきらきらな装飾が意外な角度から一望できる、穴場のような空間へ連れてこられた。
そこにはオモダカさんが予想した通り……なのかな?中央のテーブルのところで、女の子が三人、寄り添いあって美味しそうなデザートを食べているところだった。
「あれ?ねえねえ、二人とも。チリさんと一緒にいるの、誰かな?」
「……さ、さあ、誰だろうね。うちは知らないなぁ〜……」
「またまたー。なんでも知ってるボタンが知らないわけないでしょ?ねぇアオイ、声かけてみようよ!」
「あはは!はしゃぎすぎだよネモ〜」
さっき部屋で殺されてた女の子と同じ……私とも同じくらいの年頃の女の子たちは、私を一目見たとたんにこちらに走り寄ってきた。
え、なになに?チリさんと顔見知り?あと、去っていくオモダカさんに元気いっぱい手を振ってる。じゃあ、組織の人間なのだろうか。まさに、どこかの社長令嬢と言わんばかりに可愛いドレスを着こなしているから、見た目だけで言えば一般人みたいにしか見えない。
今朝の運転手さんのペパー?さんくらいの年齢の子たち、他にもいたんだ……。あんまり部屋から出ないから知らなかった。この組織に属する人間は本当に幅広いようだ。
「私、ネモ!こっちはアオイ。向こうでコソコソしてるのは、ボタン!」
「……は、はじめ、まして」
急に手を握られるからびっくりした。肩をビクつかせ、チリさんの後ろに隠れようとするが、駆け寄ってきた二人は目をキラキラさせながら私のことを見つめている。
あの、えっと、その、距離感どうなってるんだろう……チリさんとはまた違った遠慮のなさがある……。
「この子、シャイなんよ。あんまり詰め寄ったら怯えてまうで。手加減してな」
「そうなんだ!恥ずかしがり屋さんなんだね。大丈夫!私、怖くないよ〜?ぜんぜん怖くない、怖くない!」
「ネモ、怖がってる、怖がってるから」
なんか友だち多そうだな……私とは正反対。私とはテンションに差がありすぎる。普通だったら関わることもなかっただろう。私がチリさんといるから、物珍しく見えたとか?
ていうか、ボタンさんって……あの情報屋のひと?聞き覚えがあるから間違いない。私は一人だけ向こうで静かにデザートを食べ進めている、女の子を盗み見た。情報屋という言葉だけでインテリっぽい大人の人だと思っていたから、随分と幼いそのギャップにびっくりだ。
「えっと……ネモ、さん。アオイさん。あと、……ボタンさん。よろしくおねがい、します」
「ネモさんなんて、堅っ苦しい言い方!ネモって、呼び捨てにしていいんだよ!」
「そうそう、私のこともアオイって呼んでね。だって私たち、もう友達なんだから」
「……トモ……ダチ?」
友だちってこんなに安易になれるものなの?学校ではずっと一人でいたから、知らなかった。
私は今日、初めておともだちができた。
「ねえねえ、チリさんとはどこで知り合ったの?」
たくさんの料理が並べられたテーブルに座って、夕食を始めた私とチリさん。もうデザートも食べ終わってしまったネモ……と、アオイと、それからボタン……(呼び捨てに慣れない……)この三人は、向かい側に並んで座って私たちに問いかけてくる。
と言っても、ボタンさん(やっぱり心の中ではこう呼ぶことにする……)は一人黙って携帯電話みたいな小さな機械に目を落としているけど。
「チリさんは……数ヶ月くらい前に、突然私の家に来て、それで……拾われた、っていうか」
「へぇ〜?なんで、なんで?」
「な、なんでって……」
父を殺した私を面白がって……って言葉では簡単に言えるけど、このことって言ってもいいのかな?なんだかこの子たちは普通の一般人のように見えるから……。
私の隣で美味しそうなパスタにフォークを絡ませるチリさんに目をやる。
「仕事で家にお邪魔したら、この子自分の父親殺したとこやってん。オモロ〜って思って持って帰ってきたんよ」
そのまま言った……。
「へぇ〜?なんで、なんで?なんでお父さん、殺したの?」
「え、えっと、それは、その……」
なんだかネモさんからものすごく質問攻めにされてる。なんだろ、この、人を値踏みするみたいな目は……ちょっと怖い。
パーティー会場で食べる食事はなんだかいつにも増して美味しいから、一人でもくもくと食べたいところだけど仕方がない。せっかくできたおともだちなのに嫌われたくないからと、頑張って応答することにする。チリさんも、微笑ましそうに眺めていることだし。
なんで父を殺したのか?……ええっと、なんだったっけ。あの時のことを悶々としながら思い出そうとする私に、顔を覗き込んでくる一同。
最近は毎日を楽しく過ごせていて、過去のことを考える機会なんてなかったから、思い出すのに苦労する。
「たしか、手が、勝手に動いて……」
「勝手に?殺意、あったの?」
「たぶん……。気づいたら、全部終わっていました。だから、理由という理由も、特に思い当たらないです」
そう言うと、チリさんは隣で「ま〜た同じこと言うとる」と面白がるように呟いている。前にも同じことを言ったことがあったっけ?
「だから、あのひとがいつ死んだかも分からなくて……。ていうか……私は結構最後の方まで父は生きていると思い込んでて」
「じゃあ、生きてると思い込んだままぎったぎたにしたの?すっごーい。お父さんのこと、すんごい恨んでたんだね。ひどいこと、されてた?殴られてた……とか」
「……?そんなこと、されてないです」
放置はされていたけど。
「そう?じゃあ特に理由がないなりに、あえて理由をつけるとしたら、どう?」
それは、邪魔だったから、ですけど。
「ふぅ〜ん?そっか、答えてくれてありがと!色々あったんだね〜」
色々話したあと、ネモさんとアオイさんはふんふんと頷いていた。私の人生を色々で済まされてしまった。転校生みたいな感じで、好奇心から根掘り葉掘り聞いてきても……実際この子たちにとっては他人ごとだからな。私自身も他人ごとだし。
この話を聞いてからやけに嬉しそうに笑っているネモさんは怖いから気にしないようにして……その横で、アオイさんがいきなりテーブルにバシンと手を置いて言った。
「ていうか、チリさんが突然家に来るって怖くない?私ならすぐ逃げてるよ!」
「確かに……アオイの言う通り。チリさんって普段は捕虜のお世話ばっかりだから、滅多に外に駆り出されないからね……そんな中でチリさんと偶然出会って、殺されずに拾われて……相当運がよかったんじゃない?」
運?私、運が良かったのか。そうなのか。
当時のことなんて、全部チリさんのさじ加減で未来が変わっていただろうから、自分の幸運さなんて気にも留めてなかった。
「その時さ、どうして逃げなかったの?まあ……チリさんから逃げるなんて、至難の業だけど」
アオイさんの言葉に、また考える。どうして?さあ、どうしてだろう。逃げても無駄……って、思ったからかな。
当のチリさんも、自分の顎に人差し指を置いて当時のことを思い出しているようだ。
「そいや、あの時の自分、チリちゃんに見つかってもポケーっとしてて、逃げる気配まるでなかったわ。そんなに怖かったん?」
「そりゃあ、怖かったですけど……」
「ふぅん。せやけど、今はもうとっくに馴らされてしもたな。な?こーんなことされても、怖ないやろ?」
肩を組むように腕を回され、喉元を指先ですりすり撫でられた。まあ殺す気がないってことはもう分かってるから、怖くなんかないですが。
ていうか何を聞かれているんだ、私。
「……気づいてもらいたかったんじゃない。ゴミ屋敷に閉じ込められた自分を。誰かに」
その時、これまで黙って話を聞いていたボタンさんが口を開いた。視線は手元の機械に置いたまま。
「大騒ぎしたら近所に聞こえるだろうし。……近くの住民は不審に思って、警察を呼ぶかもしれない。アパートの上の階から血が垂れてきたらさすがに何事だって飛んでくるだろうし……残念ながら、当時はたまたま全部屋無人だったみたいだけど……」
「……ボタン?」
「変だと思ってたんよね……状況から見ても、変な行動する子だなって。でももう分かった。騒ぎを起こして、誰かに見つけてほしかったんでしょ。自分はここにいるよって。たぶん、だから、最初から逃げる必要もなかったんよ」
「……」
「まあ……それでやって来たのが反社の人間だったなんて、かわいそ……」
彼女が淡々と、あまりにも核心を突くようなことを言うものだから、全員でポカーンと口を開けた。私が一番口の開きが大きかった。
言われてみれば……その通りだ。私は誰かに見つけてほしかったのかも。早いところ、死んだように生きていたあの地獄みたいな生活から抜け出したかったんだ。
……その先に待っていたのが、一夜限りの舞踏会だったとしても。
色々酷いこともされたけど、今となってはチリさんにとても感謝してる。だから……可哀想というのは心外だ。
「なかなかオモロそうな子たちやろ。ボタンはうちらきっての情報通やし……ネモとアオイはあれでも次期幹部候補なんやで。チリちゃんなんかあっちゅう間に追い越されるやろなぁ」
「私はチリさんとずっと一緒なので、関係ありません」
お腹がいっぱいになったところで、パーティー会場を抜け出て部屋に戻ってきた。さっきまで寝ていたから寝れる気がしないけど……チリさんは明日はお仕事もなくゆっくりできるみたいだから、夜更かししても問題ない。
ソファーに並んで、たまに言葉を交わしながら静かに時を過ごした。
こうしてバスローブ姿になって髪をおろすと綺麗なおねえさんにしか見えない。なんで普段は男性的な格好をしているんだろう。似合ってるからなんでもいいけど。
どこかからお酒を持ち寄ってきたらしいチリさんの手には、ひとつのグラスが。なんとなくそれを両手で挟み込んで口元に持っていくと、意図を察したチリさんは手を少し傾けてくれた。
「にがぁい……」
「舌がお子ちゃまやねんな」
「……うぇ」
吐きそう……。口元を押さえようと手を離すと、チリさんもグラスをテーブルに置いた。
「お口直し、しよか」
チリさんも同じものを飲んでるんだから、そんなことしても意味ないです。その言葉は、発せられる前にチリさんのお口の中に消えてしまった。
その時、大好きな人に名前を呼ばれたような気がしました。
「いかがされました?ご令嬢」
「いいえ……」
豪華客船の荘厳な装飾が施された廊下を振り返ると、ドレスやタキシードを美しく着飾った乗客たちが楽しそうに談笑しています。
何か、聞こえたような気がしたけれど……気のせいだったのでしょうか。耳を澄ましても、向こうのパーティー会場からかすかに漏れるジャズバンドの演奏が、鼓膜を通り過ぎていくだけ。特に変わった様子はありません。
「なんでも……ありませんでした」
本当に、なんでもなかったみたいです。それならなんでもいいわ。
また一歩、歩き出したところで、私はまた立ち止まりました。今日はお父さまの付き添いで慣れないヒールを長時間履き続けていたから、足を痛めてしまったようです。
それに、パーティーの独特な雰囲気のせいで精神が常に張り詰めてしまって、ぼんやりと頭痛がするような。
「あの、ごめんなさい。ええっと、オモダカさま?」
「はい。どうされました?」
「せっかくここまでご案内いただいたのですが、なんと言いますか、少し気分が優れなくて……」
「おや……これはこれは、こちらの思慮が至らず大変申し訳ありません。お体の具合は?あなた、医者をお呼びなさい」
「あっ、いいえ!そこまででは、ないのです。お部屋で休めば……きっと大丈夫になりますから」
私の言葉に、彼女は安心したように胸に手を当てました。
「よかった。大事には至っていないようですね」
この豪華客船のオーナーを名乗った彼女……オモダカさまは、さっき私が一人ぼっちでいたところを親切にも声をかけてくださいました。そればかりか、退屈しないように自ら案内役を買って出て、この一時間ほど色々なお話を聞かせてくれたのです。
パーティーの会場内でよく見かけたマダムより全然若く見えるのに、最初は少し威厳のようなものを感じて萎縮してしまったけれど……とても優しい目をした人です。
「では、お部屋へ……“戻られますか?”」
オモダカさまは、私を安心させるように微笑み、手袋をはめた右手をこちらへ差し出しました。
……今なにか、含みを持った笑顔のように見えたけれど、このお方はもともとミステリアスな雰囲気を纏う人だから、気のせいでしょうか。
「ええ、そうしますね」
「お供いたしましょう」
「まあ!お気遣いありがとうございます。ではお願いしようかしら」
部屋の扉を開けると、お父さまが全身から血を流して生と死の間をさ迷っているところでした。
豪華客船の一部屋。私たち父子に用意されたその客室に、吸い込まれるように一歩足を踏み入れた……私。それは即座に視界に入り込み、私の心を掻き乱しました。
「お、お父さま……?」
扉の正面、向かい合わせに置かれたソファーの片側に、お父さまは座っていました。いいえ、座っているというよりは、かろうじてソファーの座面に上半身が乗っているような体勢。
何よりも驚愕したのが、全身から……文字通り、全身から、たくさんの血を流してぐったりしているではありませんか。
船内でのパーティーから一時退却し、私より一足先に部屋に戻られた父に、いったい何が起こったのでしょう。頭を割られ、さっきまで紳士らしく着飾っていたタキシード諸共手足や胴体を引き裂かれ、床のそこかしこに血溜まりをつくり、精巧な蝋人形のように動かない。
私が見間違えるはずなんてないのに、あれが本当にお父さまであることを疑ってしまったくらい、それは常軌を逸した姿をしていました。
「お、お父さま……お父さまっ!」
私は即座に駆け寄ろうとしましたが……思わぬ出来事にその場で足踏みをしました。騒ぎを聞きつけたのか、“部屋の奥から”、見知らぬ緑髪の女性が「ふわぁ」とあくびをしながら登場したのです。
「え、?」
彼女はそこで父が血だらけになっているにも関わらず、まるでそれが普通であるかのように、悠長にも背伸びをしながらこちらに目をやりました。
だ、だれ?
まさか、犯人?
だって、服に血が――。
「なんや、わざわざここまで連れて来てくれはったんですか。探しに行くの面倒やと思ってたとこで……さすがボス、親切やわぁ」
……いったい誰に話しかけているの?
その時、誰かが私の両肩に後ろから手を置きました。手を置いて、返事をしました。そこにいるのはもちろんのこと、ずっと一緒にいた……彼女一人。オモダカさまが口を開きました。
「いいえ。私わたくしは部屋に戻られる彼女に付き添ったまで。あなたこそ、こんなところで油を売って何をしているのです?」
「いやぁ、この部屋、あっちの方にいいベッドがあったもんですから。仮眠でも取ろうかと」
「うふふ。まったく……困った人。あなたはマイペースなところが目に余る」
私はただ、その場に立ち尽くしました。オモダカさまは……私に親切にしてくださった、この豪華客船のオーナーで……今、私の目の前には父が、今にも死にそうな父が、ぐったりと倒れていて……その部屋に、返り血、のようなものを浴びた女性がいて……彼女と、顔見知りみたいに言葉を交わす、オモダカさまに、優しく肩に手を置かれている。
さっきはすぐに医者を呼ぼうとしてくれていたのに、どうして今は、呼んでくれないのですか……?明らかに、今の方が緊急事態なのに。
「しかし、今日のところは目を瞑りましょう。“彼女と最期に”楽しいひと時を過ごせたので、今はとても良い気分なんです」
後ろから身を乗り出したオモダカさまは、私に向かって「ね?」と微笑みました。その優しい表情が今となっては恐怖でしかなく、私の体は必然的に小刻みに震え始めました。
「はぁ。そりゃよかったですね」
そんな私のことには目もくれず、緑髪の女性はテーブルの上に置かれていた酒瓶を手に取り、我が物顔で煽って……あれは、父が今日のために用意していた、記念のものなのに……。
せっかくのお酒を、彼女はおそらく前々から少しずつ飲み進めていたようで、すぐに飲み干してしまいました。
オモダカさまは、その少々ふざけた態度にもふふ、と微笑み話を続けます。
「私はもう少しパーティーを楽しむことにします。せっかくの機会ですし、“あなたがた”もご一緒にいかが?ほら、素敵な衣裳に着替えて」
「あー、まあ、あなたが言うんなら。そうさせていただきますわ」
「そう。嬉しいお返事。ただし、“本日最後の仕事”を終わらせてからになさいね」
「ええ。そりゃあ、もう、仰せのままに――」
敬った言葉遣いをしていながら、どこかおぼつかない顔をしているのは、あの方が自分でそう言っていたように、つい今まで本当にこの部屋で眠っていたであろうことを示していて……この時点で、彼女が父をこんな状態にしたということは、しかと理解せざるを得ません。
「――このチリにお任せあれ」
酒瓶を手に持ちながら、ここばかりは背筋を伸ばし、片足を引き、至極丁寧にお辞儀をする緑髪の女性。それは恐怖に怯える私から見ても美しく、目が離せませんでした。
オモダカさまの手が肩からするりと離れたところで、いつの間にか扉の前にはさっきまで私のボディーガードだったはずの、スーツを着た屈強な男性がこちらを見張るように立っており、周りに誰も味方がいないことにただ絶望するばかり。
私にできることといえば、黙って様子を見守ることくらいで……オモダカさまは何事もなかったかのように部屋を出て行こうとしています。最後に「チリ」と彼女の名前を呼んで。
「愉しむのも結構。しかし、ほどほどに」
扉は音もなく閉められました。
+
「あの人、怖ない?」
今度は、今度こそ、彼女は私に話しかけてきたようです。訛りのある口調で、馴れ馴れしく。そんなことを尋ねられても、私は状況を整理するのに忙しくて何の反応もできませんでした。
「あぁ、もう、めぇっちゃビビったわぁ……。いっつも急に現れるんやから……こわぁ。ほんま、妖怪やなかったらなんなん」
それでも彼女はお構い無し。オモダカさまがいなくなった途端、さっきまで辛うじて保っていた礼儀正しさは、空の酒瓶をぽいっと床に投げ落としたことで台無しです。
それは絨毯の床に真っ逆さまにゴトンと落ち、その鈍い音にビクリと震えてしまいました。
「んなとこで何しとん。こっち来やぁ」
「え、あ、……だ、だれ、なの……っ?あなたたちは、いったい、なんなの……!?」
「いいから、はよ来いや。はよせんと、君のお父さんぽっくり逝ってまうで?最期の挨拶せんでええの?」
ようやく声を出せたと思っても、彼女は当然質問には答えてくれず。怯える私に向かって、手招きをしているよう。
「え、……え?」
「しゃあないなぁ、ほら、こっち」
うろたえる私に、彼女はその長い足で大股でこちらまでやって来て。二の腕を捕まれた私は、引きずられるように父の目の前まで連れてこられました。
父は……もう動いていませんでした。
「あちゃあ、間に合わんかった」
声にもならない声が、私の喉元をすり抜けていく。
「ぁ……、……っ」
人が死ぬところを見たのは初めてだったから、足が竦んで、息が上手く出来なくて、いくらお父さまでも見ていられなくて……その場に倒れ込そうになってしまいました。
それを彼女は、親切にも腕で支えてくれました。
「でもま、ニアミスみたいなもんやから。すぐ同じとこに行けるで。よかったなぁ」
……あ。
……ああ。
このお方は、私のことも殺す気なのですね。
どうしてこんな状況で笑っていられるのか、少しも理解できない。逃げなければ殺される。逃げなきゃ、逃げて、誰かに助けを、求めなければ。
「は、はなして……ッ」
私は思い切って踵を返し、なりふり構わず彼女の腕を振りほどいて駆け出しました。でも、いったいどこへ行けばいいの……?扉の方へ逃げたくても、そっちには見張りの男性が仁王立ちしています。
どうして?彼も、オモダカさまと同じで、彼女の仲間だったの……?考えたところで疑問が解消されるわけもなく、退路を絶たれた私は必然的に、奥の部屋のベッドがある方へ向かうことになりました。
そこで、私はようやくもう一人の存在に気が付きました。
「……ん……チリ、さ……」
ベッドの中から、声が聞こえてきたのです。すぐにどこかに消え入るような、か細い声が。
「……え、……!?」
さっきから、驚くことばかり。けれど、今の私は確かに正気で、夢の中とは思えないほど視界がクリアに見えています。
そこには……女の子がいました。私の部屋の、私のベッドで、同じくらいの歳頃の女の子が、すやすやと眠りについていました。
「な、なんなの……!?」
誰、なのでしょう。迷子……?まさか、そんな。パニック状態に陥っていた私は、そんなことよりもまず彼女の身を案じて無意識に駆け寄っていました。
「ねえ、ねえ!起きてっ……!起きなきゃ、あなたも危ないわ……!」
この部屋には父を殺した殺人鬼がいて、今まさに私が追われている。こんなところで寝ていたら危ない。それは、至極当たり前の思考だったはずなのに。
後から考えてみれば、この時の私の行動は相手から見るとどうしようもなく滑稽だったことでしょう。
そのまま追いついた彼女に後ろから口を塞がれるように、私の体は拘束されてしまいました。
「やかましいわ。起こさんでええねん」
捕まって、しまった。私、ここで終わってしまうの……?父と同じように。
それに、この子は……。この子がここで寝ていたこと、あなたは、知っていたの。ああ、そうだ、馬鹿な私。このお方は、今の今まで奥で寝ていたってこと、ついさっき教えてくれたじゃない。つまり、ここで、一緒に寝ていたの?この子もあなたの仲間なの……?
「ベッド、貸してもらっておおきにな。しつこく眠い眠い言っとったから、もう少し寝かせたって」
どういう、こと?……なんで?……どうして、父をあんな目に遭わせておいて、どうして、そんなに優しい声をしているの……?
どうして?どうして?どうして……?
混乱に混乱を重ねた私は、堪えきれずに決壊してしまいました。強い不安が涙となって、口を押さえたままの彼女の手を濡らしていきます。
どうして、私たちは何も悪くないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの……?
「せやなぁ、難儀なことに……ボスは大事なことだけ黙っといて相手の反応を愉しむ癖があんねん。せっかく一緒にいたんなら、教えてくれたってもええのにな。同情するわ」
力の強い彼女の拘束は、もがくことすら許されず。私を捕まえたままベッドから離れ、窓際の方まで移動して、ナイフを首元に――――
「うちから一つ言えるんは……君は運がなかった。ただそれだけや。あ、大声だけは出さんようにな」
その言葉と同時に首元がグシャッと深く切り裂かれ、私の体はその場で崩れ落ちました。そのまま彼女の体に寄りかかったのを、邪魔そうに押しのけられて、柔らかい絨毯に仰向けに倒れ込みました。
動かない手足。開いたまま閉じない両目。視界に広がる赤い血液がとめどなく溢れ出て来ます。
「……お、……とう、さま……」
強烈な痛みと遠のく意識の中、緑髪の殺人鬼はこの騒ぎの中でも未だベッドで眠る女の子に……そっと、口付けをしました。まるでどこかの国の王子さまのように。まるで童話の中の幸せな光景を見せつけられているようでした。
そして私はただの背景に成り下がる。
どうしてあの子は無事で、私は殺されたのでしょう。
どうしてあの子は幸せそうな顔で眠りについていて、私は醜い顔で死にゆくのでしょう。
あの子と私の違いは……なんだったのでしょうか。
神様……?向こうへいったら、どうか、教えてくださいな。
+++
「よう眠りよる。いつの間にか死んどるんやないかと思ったわ」
「……ん、……おは、よ、ござ、ま……」
「もう夜やけど」
はて、私はいつから眠っていたのだろう。重たい目をこすりながらきょろきょろと周りを見回す。えーっと、確か……。
今日は深夜に突然「出かけるで〜」と叩き起されたかと思えば、お人形さんに着せ替えするみたいにあれよあれよと身だしなみを整えられ、いつもより華美なドレスに身を包み、髪の毛はくるんと巻いて、それに合うお化粧まで施された。
チリさんはチリさんで、なんだかモデルさんみたいな服装をしていて、今日はいったいどんなイベントが待ち受けているのだろうかと首を傾げている間に、駐車場でシンデレラの馬車みたいに待っていた、黒光りする大きな車に詰め込まれた。
「ああっ!チリさん今日もバシッと決めてカッコイイじゃないすか!」
そこで待っていたのは、片目が隠れたキザっぽい男の子……運転席に座っているから、運転手さんだろうか?
「どう?イケてる?」
「そりゃもう!ハイダイ料理長の美味いもんいっぱい食えるっていうから、俺も気合い十分入れてきたってのに、くはーっ!眩しいちゃんだぜ……さすが幹部ってか〜?」
「なはは。こんな時間でも元気がええなあ、ペパーくんは。ほんなら頼むわ」
私と歳が近そうなのに、チリさんに対して若干砕けた言葉遣いをしているから、普通の部下の人たちよりは親しい関係なのだろうか。
「これオルティガ坊ちゃんに借りた車なんで、ちょっとばかしうるさいちゃんかもだけど、安全運転で行くぜ」
出発前、頭上の小さな鏡(バックミラー)越しに目が合うと、その子はニッと笑って親指を立ててくれた。あ、いい人そう。
いったいどこに連れていかれるのか分からないまま……隣で平気そうに腕や足を組んでいるチリさんにしがみついて、ガタガタ震えながら人生で初めての高速道路を体験した私。
その車が行き着いた先は、豪華客船という、バカでかい船だった。
「じゃ、俺は先に来てるはずのいつメンと合流するんで。今夜か明日か明後日にでも、パーティー会場で会えたらいいっすね!」
「おー。お疲れさん。報酬はまた今度な〜」
車を降りるとき、運転手さんは外から後ろの座席のドアを開けて、段差を少なくするための木の足場まで用意して、流れるように私の手を取り「足元、気をつけな」と支えてくれた。
「ありがと……」
「いいってことよ!」
エスコートってやつ?なんか、今のは本当にシンデレラのような気分だった。私が唯一読んだことのある絵本だ。不幸な娘が綺麗なドレスに身を包んで、舞踏会へ……。
それ、今の私のこと?なんちゃって。
ほんと、変な気分。
「今日は全部で三人……か」
窓から朝焼けの見える客船の廊下を進みながら、チリさんの独り言に耳を傾ける。周りにはふつうに人がいるけど、この人が言っているのはたぶん今日殺す予定の人数だ。
この船では明日までに人が三人死んでしまうらしい。事件だ……通報しなきゃ。
「まあ、こういう重鎮が集まるパーティーにしては少ない方ではあるけどな?めんどいことには変わりないわ〜……このチリちゃんが、一日で三人も殺れるかっての、もー、困ったボスやで、ほんま」
「……」
それ、ボスに聞かれたらヤバいのでは?まあいいか。私には関係の無いことだ。
それより、私ってチリさんのお仕事現場を見たことがないんだよな……初対面の時を除けば。暗殺はもちろんのこと、普段この人が担当する尋問系のやつも、見たことがない。
チリさんはここでお仕事をするために招集されたらしいが、どうして私まで連れてこられたのだろう。
「そりゃあ、うちらのボス主催のパーティーなんやから、これ。お呼ばれされただけや」
パーティー……そんなもの、もちろん参加したことがないから想像もつかない。まあなんか人が集まってわいわいするやつ、っていうのはなんとなく分かる。
「もちろん表向きにはそうやなくて、ボスが持ってるグループ会社とその取引先のお偉いさんがたによる、えー、これからもよろしく〜っちゅうアレや。アレ」
「よくわかんないですけど……私は、そのどこかの会社の関係者のふりをしていればいいってことですか。一般人のふり、みたいな……」
「そゆこと。理解が早いなうちの子は。ま、ちゃあんと自分専属のボディガードがずっとそばにおるから安心せえよ」
「ボディガード……?だれですか、それ」
「チリちゃん」
「ああ……はい。そうですか」
「もっと喜べや」
そんなこんなで豪華客船は明け方に出港。この次に寄る港で、本当の一般客が乗り込んでくるらしい。
しばらくは自室で待機の時間だったが、初めてのことばかりでテンションが高まっていた私は、二度寝もしないで窓の外の海をわくわくと眺めたり、部屋の中のきらきらした飾りを眺めたりしていた。
そうそう、それで、その後さらに時が過ぎ、太陽が沈みかけた頃……。
「チリさん、ねむい」
「あー、今日あんま寝れんかったもんな」
「ねむい、ねむい、ねむい」
「やかまし……急かすなそうやって。もうすぐ終わるんやから我慢せえ」
「……でも、あと二人も残って……」
「なんや自分!チリちゃんの仕事が遅いって言いたいんか!?」
「うん……」
一人目、思ったよりもすんごい時間がかかっていたから、これがあと二人分あると思うと気が遠くなりそうだ。この人本当に……人を殺すの得意じゃないんだな……というよりは、もはや人を虐めるのが大好き!!!って感じだった。それはもう、引くほど……(話し出すと長くなるので、何があったのかは割愛)。
聞けば、今日は拳銃が使えない日なのだそうだ。理由はこの船のオーナーであるボスが、自身の持ち物の床や壁に穴が開くのを嫌うから。
おかげでナイフ一本での暗殺を余儀なくされ、結局多くの血液で床を汚すはめになっていた。傷を付けるのは嫌でも、血痕については謎に許容してくれる、謎の多いボスである。
「……ね〜え、……もうねるの……」
チリさんに小さな子みたいに手を引かれながら目を擦る私。眠いのは本当だ。でもかまって欲しくてわざと足取りを遅くして、わざと大きなあくびをすれば、思った通り「しゃあないなぁ」と体を支えてくれるチョロいチリさん。
「今夜はゆっくり寝させたるから。起きるまで起こさんようにしたるから。な?わかった?あとちょっと、我慢しよな?あと少しやねん。ほんま。チリちゃん、次は上手くやれるわ」
「(どうだかな……)わかった……我慢する……」
「よぉ〜しよしよしよし!いい子やねぇ〜」
そんな会話をしたところで、目的地に到着。二人目だ。中にはとある外資企業の偉い人がいるらしいが、私は今から殺される人の詳細なんて特に興味がないので、ただひたすらチリさんの後ろについていくだけ。
ボディーガードの人が忙しいと、こっちが振り回されるから大変だ……。
「ほな、ごめんくださーい。失礼しますよ」
「な、なんだ君たちは?外のガードは、どうした……!?」
「ん?ああ、外のあんちゃん、うちの知り合いなんよ。飯奢る仲やし、彼女さんの名前も知ってんで。そりゃあ顔パスや顔パス」
「……はっ?」
「んじゃ、さっそくやけど、さようなら」
「待っ――」
チリさんがようやく二人目のターゲットに取り掛かったところ……私は奥の方にいい感じのベッドを見つけ、誘われるように倒れ込んだのだった。
チリさんのことだ、どうせまた時間がかかるだろうし、ここで一休みすることにしよう。うん。それがいい。
「お、おま、えッ……!わ、私の……娘は……ぶ、無事、なのか……?……ッあ゛あ゛あ」
「うっさいわ。はよ逝け」
「ぎゃ、っあ゛あああっ!はぁ、はぁ、……っ離せっ、クソ、……リリー、リリーッ……!」
「アッ避けんな!ダル〜!なんやコイツ、ちょこまかちょこまかと!ネズミか!?黙ってとっとと死に晒せッ!」
「チリさん、うるさい……」
……あの男の人、チリさんが殺すの得意じゃないせいでやっぱり無意味に拷問みたいな真似をされていた。まあこれでも一人目よりはマシだ。
苦しみに悶えながらずっと誰かの名前を呼んでいたから、眠るのに少し耳障りだったけど、眠くて眠くて、そんなことも気にならないくらいすぐに意識は遠のいた。
そして、現在。
窓の外はとっくに暗く、どのくらいの間眠っていたのか私には知る由もないけれど、目覚めた時、ちゃあんと私のボディガードさんがそばにいてくれたからとても安心した。
「おはよ。あんたがすやすやしてる間に、チリちゃんもう仕事終わらせてしもた」
「……そうですか」
てきとうに返事をしながら、ん、と両腕を広げると、チリさんはそれを無視して私の顎に片手を添え、優しいフレンチキスを始めた。……仕方なく、行き場をなくした腕をベッドに落としてまだ眠い頭でそれに応える。
だめだ、まだ眠い。眠たくて眠たくて、まぶたが落ちかけて頭がこてんと真横に倒れた。そんな私に微笑みながら、同じように顔を傾けキスをする彼女。さらに体ごと後ろに倒れ込みそうになると、チリさんは後頭部を支えてまでしつこく口付けを続けた。
「……ぐぅ」
チリさんの腕の中で、ほとんど二度寝につく私。こっくりこっくり船を漕ぐ頭が目の前の肩にコツンとぶつかり、さすがにうっすらと目を開ける。
「さーて、そろそろボスが待ちくたびれてるところや」
「……?今日は、このあとなんもないって……」
「それなぁ。今夜はパスしよかと思っとったんやけど、さっき直々にパーティーに誘われてしもたんでな。起きたんならはよ行くで」
「……そう、なんですか」
ふと。
窓際の方の床を見ると、いつの間にか死体がひとつ増えている。可愛らしいお洋服に身を包んだ、私と同じくらいの年頃の、可愛らしい女の子。
……ああ、この子が三人目だったのか。二人目の人の、娘さんかな……?本日三度目ともなるとチリさんの手も慣れたのか、あまり苦しんだような顔はしていなかった。切り口も一つだけ。すぐに楽になれたのかな。
「……」
いいなぁ、私もあんなふうに安らかな顔をして眠りたい。きっと天国へ昇ったのだろう。私はもうそこへは行けない。
「……チリさん、まって」
「なんや」
ベッドのへりから立ち上がろうとしたチリさんを呼び止める。私は振り返った彼女の頭に抱きついて、そのまま後ろに体重をかけた。
まっすぐ目を見て「まだ行きたくない」と訴えかけると、チリさんは片眉をあげて壁に手をつく。
「ハァ〜甘えたさんやなぁ。ボスに怒られてもええんか?」
「怒られるのは、チリさんだけだもん。あの人、いつも私には優しいから」
「しばくで」
ボス……というのは、聞いて驚け。前に私にココアとサンドイッチとショートケーキを奢ってくれた、お嬢様みたいな女性の正体だ。
その名もオモダカさん。あれから何度か顔を合わせる機会があり、その度に何故だか懇意にしてくれている。
正体を知った時には顎が外れそうになるほど口をあんぐり開けて驚いたものだけど、元々感じていたそのただならぬオーラに「言われてみれば感」があり、納得したものだ。
既に支度を整え、手袋まではめたチリさんの手を取る。今は、そういう気分なの。私はめげずに、すぽーんとその手袋を外してしまった。
「ああ、ああ、困った子やな」
「おねがい。チリさん。おねがい、します」
「お願いったって」
「少しだけ……私も天国に行きたいの」
「……なんや?それ」
「こっちの話」
+
「ん、……」
今日もまた、名前も知らないどこかの誰かを殺した、その手。ナイフや拳銃を握り慣れているとは到底思えない、チリさんの白くて綺麗で長い指が私の中で蠢いている。きもちいい。寝起きだから余計に。
血の香る死体のそばで、体をくねらせよがる背徳感に、脳内が焼けているみたいに熱い。
「……チリ、さ……ん」
「……ん?」
すき。
「ちょお、二度寝させるためにわがまま聞いたんやないで」
「……ん、…………」
「あかん、だめだこりゃ」
反応の薄い私に呆れながらも、優しく動かす手は止めないんだから、チリさんはとことん私に甘くなったな。
目を閉じて、だんだん強まってくる快感に集中する。めくれあがったスカートから覗く膝を擦り寄せ、素足をチリさんの腕に擦り付ける。
「……ぁ、……ん、っん……」
右手の甲を口元に寄せて、もう塞がった傷跡にガリッと歯を立てる。鈍い痛みで気が紛れるから、行為の際はこうするのが癖になってしまった。
「顔、隠さんといて」
すると、決まってチリさんはその手をとっぱらって、ほとんど密着するような形で覆い被さってくる。下の手は動かしたまま、口を塞いで、ちゃんと舌まで割り込ませて、口内をなぞられ、あつあつの唾液がおりてくる。
そんなことをされたら噛むにも噛めず、でも抵抗もでぎす。ほんのり香るお酒の匂いを感じながら、そのまましばらくの間きもちいところを執拗に撫でられて……すぐに頭が真っ白になった。
「……ひぁ……、っ、はぁ、はぁ……ん、…………っ」
いっちゃった。うっすらと目を開けて、肩で息をする。涙で視界がぼんやりする。酸素を取り込むために口を開けて、小さな声でチリさんの名前を呼んだ。チリさん、よく見えない。
そしたら、返事の代わりにまたキスをされた。三回くらい。軽く触れるだけのやつ。ぎゅうぎゅう締まる中の感触を楽しんでいるのか、未だに指を動かされてる。びくびく震える太ももが自分からでも丸見えだ。今になってスカートがめくれてるのが気になって、裾を手でぎゅっと引っぱった。
「かーわい」
「……」
眠たい。でも、起きなきゃ。わがままはこの辺にしないと。
チリさんにぎゅうっと抱きついて、起こしてもらった。そのままひっついていたら、何も言わずにしばらく抱っこしてくれた。その間、チリさんは背中を優しくさすってくれた。温かい。ママ、みたい。
私には訪れなかった幸せな幼少期を、今、取り戻している気分だ。
+++
「ごきげんよう、お二人とも。素敵なお召し物ですね。よく似合っていますよ」
「どうもおおきに……って、あなたもね。さっきは言いそびれてしもたけど。いつもの黒ずくめもあなたらしいけど、着飾った姿も好きですわ」
「ふふ、ありがとう」
「ほれ!あんたも!ボスの御前やで!」
「いたっ。……あ、ありがとう、ございます。オモダカさん、きれいです……」
「うふふ。ありがとう」
背中いたい。
目覚めてみれば思ったよりも夜はそこまで深くなく……むしろこれからが本番、みたいな雰囲気で会場内はわいわいと賑わっていた。
どこもかしこもキラキラしていて眩しい。自分がこんな、文字通り汚くない、綺麗な格好をして綺麗な場所に立てる未来が来るなんて。
まあ、多少血で汚れてはいるが……そんなことは些細なことだ。
「……」
片方はほとんど男装だけど、女性二人の会話なんてそっちのけで、テーブルに並べられた食事やらデザートやらを見つめる私。色鮮やかで、美味しそう。口の中でよだれがぶわっと吹き出してくる。
なにより、昔の私の百年分くらいの食事が一度に出されている光景は、目を見張るものがあった。あの量、ここにいる人だけで食べ切れるのかな……。
「なんや、腹減ったん?」
「……うん」
「あら。せっかくなら、良い場所をご案内いたしますよ。もしかしたら先客がいらっしゃるかもしれませんけれど」
オモダカさんはボスなのに、率先して色んなところを案内してくれるなぁ……まあこの船が彼女の表向きの会社のもの、という話は聞いているので、そういうものなのかもしれないが。
チリさんと私は、比較的人の少ない、けれども船内のきらきらな装飾が意外な角度から一望できる、穴場のような空間へ連れてこられた。
そこにはオモダカさんが予想した通り……なのかな?中央のテーブルのところで、女の子が三人、寄り添いあって美味しそうなデザートを食べているところだった。
「あれ?ねえねえ、二人とも。チリさんと一緒にいるの、誰かな?」
「……さ、さあ、誰だろうね。うちは知らないなぁ〜……」
「またまたー。なんでも知ってるボタンが知らないわけないでしょ?ねぇアオイ、声かけてみようよ!」
「あはは!はしゃぎすぎだよネモ〜」
さっき部屋で殺されてた女の子と同じ……私とも同じくらいの年頃の女の子たちは、私を一目見たとたんにこちらに走り寄ってきた。
え、なになに?チリさんと顔見知り?あと、去っていくオモダカさんに元気いっぱい手を振ってる。じゃあ、組織の人間なのだろうか。まさに、どこかの社長令嬢と言わんばかりに可愛いドレスを着こなしているから、見た目だけで言えば一般人みたいにしか見えない。
今朝の運転手さんのペパー?さんくらいの年齢の子たち、他にもいたんだ……。あんまり部屋から出ないから知らなかった。この組織に属する人間は本当に幅広いようだ。
「私、ネモ!こっちはアオイ。向こうでコソコソしてるのは、ボタン!」
「……は、はじめ、まして」
急に手を握られるからびっくりした。肩をビクつかせ、チリさんの後ろに隠れようとするが、駆け寄ってきた二人は目をキラキラさせながら私のことを見つめている。
あの、えっと、その、距離感どうなってるんだろう……チリさんとはまた違った遠慮のなさがある……。
「この子、シャイなんよ。あんまり詰め寄ったら怯えてまうで。手加減してな」
「そうなんだ!恥ずかしがり屋さんなんだね。大丈夫!私、怖くないよ〜?ぜんぜん怖くない、怖くない!」
「ネモ、怖がってる、怖がってるから」
なんか友だち多そうだな……私とは正反対。私とはテンションに差がありすぎる。普通だったら関わることもなかっただろう。私がチリさんといるから、物珍しく見えたとか?
ていうか、ボタンさんって……あの情報屋のひと?聞き覚えがあるから間違いない。私は一人だけ向こうで静かにデザートを食べ進めている、女の子を盗み見た。情報屋という言葉だけでインテリっぽい大人の人だと思っていたから、随分と幼いそのギャップにびっくりだ。
「えっと……ネモ、さん。アオイさん。あと、……ボタンさん。よろしくおねがい、します」
「ネモさんなんて、堅っ苦しい言い方!ネモって、呼び捨てにしていいんだよ!」
「そうそう、私のこともアオイって呼んでね。だって私たち、もう友達なんだから」
「……トモ……ダチ?」
友だちってこんなに安易になれるものなの?学校ではずっと一人でいたから、知らなかった。
私は今日、初めておともだちができた。
「ねえねえ、チリさんとはどこで知り合ったの?」
たくさんの料理が並べられたテーブルに座って、夕食を始めた私とチリさん。もうデザートも食べ終わってしまったネモ……と、アオイと、それからボタン……(呼び捨てに慣れない……)この三人は、向かい側に並んで座って私たちに問いかけてくる。
と言っても、ボタンさん(やっぱり心の中ではこう呼ぶことにする……)は一人黙って携帯電話みたいな小さな機械に目を落としているけど。
「チリさんは……数ヶ月くらい前に、突然私の家に来て、それで……拾われた、っていうか」
「へぇ〜?なんで、なんで?」
「な、なんでって……」
父を殺した私を面白がって……って言葉では簡単に言えるけど、このことって言ってもいいのかな?なんだかこの子たちは普通の一般人のように見えるから……。
私の隣で美味しそうなパスタにフォークを絡ませるチリさんに目をやる。
「仕事で家にお邪魔したら、この子自分の父親殺したとこやってん。オモロ〜って思って持って帰ってきたんよ」
そのまま言った……。
「へぇ〜?なんで、なんで?なんでお父さん、殺したの?」
「え、えっと、それは、その……」
なんだかネモさんからものすごく質問攻めにされてる。なんだろ、この、人を値踏みするみたいな目は……ちょっと怖い。
パーティー会場で食べる食事はなんだかいつにも増して美味しいから、一人でもくもくと食べたいところだけど仕方がない。せっかくできたおともだちなのに嫌われたくないからと、頑張って応答することにする。チリさんも、微笑ましそうに眺めていることだし。
なんで父を殺したのか?……ええっと、なんだったっけ。あの時のことを悶々としながら思い出そうとする私に、顔を覗き込んでくる一同。
最近は毎日を楽しく過ごせていて、過去のことを考える機会なんてなかったから、思い出すのに苦労する。
「たしか、手が、勝手に動いて……」
「勝手に?殺意、あったの?」
「たぶん……。気づいたら、全部終わっていました。だから、理由という理由も、特に思い当たらないです」
そう言うと、チリさんは隣で「ま〜た同じこと言うとる」と面白がるように呟いている。前にも同じことを言ったことがあったっけ?
「だから、あのひとがいつ死んだかも分からなくて……。ていうか……私は結構最後の方まで父は生きていると思い込んでて」
「じゃあ、生きてると思い込んだままぎったぎたにしたの?すっごーい。お父さんのこと、すんごい恨んでたんだね。ひどいこと、されてた?殴られてた……とか」
「……?そんなこと、されてないです」
放置はされていたけど。
「そう?じゃあ特に理由がないなりに、あえて理由をつけるとしたら、どう?」
それは、邪魔だったから、ですけど。
「ふぅ〜ん?そっか、答えてくれてありがと!色々あったんだね〜」
色々話したあと、ネモさんとアオイさんはふんふんと頷いていた。私の人生を色々で済まされてしまった。転校生みたいな感じで、好奇心から根掘り葉掘り聞いてきても……実際この子たちにとっては他人ごとだからな。私自身も他人ごとだし。
この話を聞いてからやけに嬉しそうに笑っているネモさんは怖いから気にしないようにして……その横で、アオイさんがいきなりテーブルにバシンと手を置いて言った。
「ていうか、チリさんが突然家に来るって怖くない?私ならすぐ逃げてるよ!」
「確かに……アオイの言う通り。チリさんって普段は捕虜のお世話ばっかりだから、滅多に外に駆り出されないからね……そんな中でチリさんと偶然出会って、殺されずに拾われて……相当運がよかったんじゃない?」
運?私、運が良かったのか。そうなのか。
当時のことなんて、全部チリさんのさじ加減で未来が変わっていただろうから、自分の幸運さなんて気にも留めてなかった。
「その時さ、どうして逃げなかったの?まあ……チリさんから逃げるなんて、至難の業だけど」
アオイさんの言葉に、また考える。どうして?さあ、どうしてだろう。逃げても無駄……って、思ったからかな。
当のチリさんも、自分の顎に人差し指を置いて当時のことを思い出しているようだ。
「そいや、あの時の自分、チリちゃんに見つかってもポケーっとしてて、逃げる気配まるでなかったわ。そんなに怖かったん?」
「そりゃあ、怖かったですけど……」
「ふぅん。せやけど、今はもうとっくに馴らされてしもたな。な?こーんなことされても、怖ないやろ?」
肩を組むように腕を回され、喉元を指先ですりすり撫でられた。まあ殺す気がないってことはもう分かってるから、怖くなんかないですが。
ていうか何を聞かれているんだ、私。
「……気づいてもらいたかったんじゃない。ゴミ屋敷に閉じ込められた自分を。誰かに」
その時、これまで黙って話を聞いていたボタンさんが口を開いた。視線は手元の機械に置いたまま。
「大騒ぎしたら近所に聞こえるだろうし。……近くの住民は不審に思って、警察を呼ぶかもしれない。アパートの上の階から血が垂れてきたらさすがに何事だって飛んでくるだろうし……残念ながら、当時はたまたま全部屋無人だったみたいだけど……」
「……ボタン?」
「変だと思ってたんよね……状況から見ても、変な行動する子だなって。でももう分かった。騒ぎを起こして、誰かに見つけてほしかったんでしょ。自分はここにいるよって。たぶん、だから、最初から逃げる必要もなかったんよ」
「……」
「まあ……それでやって来たのが反社の人間だったなんて、かわいそ……」
彼女が淡々と、あまりにも核心を突くようなことを言うものだから、全員でポカーンと口を開けた。私が一番口の開きが大きかった。
言われてみれば……その通りだ。私は誰かに見つけてほしかったのかも。早いところ、死んだように生きていたあの地獄みたいな生活から抜け出したかったんだ。
……その先に待っていたのが、一夜限りの舞踏会だったとしても。
色々酷いこともされたけど、今となってはチリさんにとても感謝してる。だから……可哀想というのは心外だ。
「なかなかオモロそうな子たちやろ。ボタンはうちらきっての情報通やし……ネモとアオイはあれでも次期幹部候補なんやで。チリちゃんなんかあっちゅう間に追い越されるやろなぁ」
「私はチリさんとずっと一緒なので、関係ありません」
お腹がいっぱいになったところで、パーティー会場を抜け出て部屋に戻ってきた。さっきまで寝ていたから寝れる気がしないけど……チリさんは明日はお仕事もなくゆっくりできるみたいだから、夜更かししても問題ない。
ソファーに並んで、たまに言葉を交わしながら静かに時を過ごした。
こうしてバスローブ姿になって髪をおろすと綺麗なおねえさんにしか見えない。なんで普段は男性的な格好をしているんだろう。似合ってるからなんでもいいけど。
どこかからお酒を持ち寄ってきたらしいチリさんの手には、ひとつのグラスが。なんとなくそれを両手で挟み込んで口元に持っていくと、意図を察したチリさんは手を少し傾けてくれた。
「にがぁい……」
「舌がお子ちゃまやねんな」
「……うぇ」
吐きそう……。口元を押さえようと手を離すと、チリさんもグラスをテーブルに置いた。
「お口直し、しよか」
チリさんも同じものを飲んでるんだから、そんなことしても意味ないです。その言葉は、発せられる前にチリさんのお口の中に消えてしまった。