「おや。お初にお目にかかります。わたくしオモダカという者です」
「……?」
「その節は、我が組織幹部のチリが粗相をしたようで……その後、お体の具合は?なにか酷い扱いを受けていませんか?」
エレベーターの前で居合わせた、お淑やかな女性に声をかけられた。この建物にいる人間で知らない人はいないチリさんが声をかけられることはあっても、新顔である私が声をかけられることは滅多にないから狼狽えてしまう。
……人違い、かな?
「……え、と」
「ああ、怖がらないで。そうですね。立ち話もなんですから、カフェテリアへご一緒してくださる?もちろん、お代は私が持ちますので。さあ、エレベーターが参りましたよ」
有無を言わさぬ雰囲気で、乗る予定のなかったエレベーターに連れ込まれた。え?私、チリさんにおつかいを頼まれてハッサクさんにお届け物をするところなんですが……?人違い、じゃ……?誰だか知らないけど、なんだかただならぬオーラを感じる……。といっても、この建物で会う人はたいてい普通じゃないから慣れたものだけれど。
「えっと……オモ、……?」
「はい。オモダカです」
だ、誰ですか……?って聞いていいのかな。
私の了承などなしに、勝手に上昇するエレベーターの箱の中で、横並びになった彼女をこっそりと見上げる。オモダカ……さんは、にっこり人のいい笑顔で笑い返してくれた。なんか優しそう。って、そうじゃなくて。
私、これからハッサクさんのところへ行かなくちゃならないんです。あのチリさんに怖い顔で「寄り道するんやないで」とまで言われてしまっているんです。だから、どこの誰とも知らないあなたとカフェテリア?へ行く暇なんてないんです。
……とは、とても言えない雰囲気だ。小心者でコミュニケーションが得意ではないから、こういう時に空気を悪くせずに断る方法なんて知らない。お喋りが得意なチリさんなら上手くやるんだろうけど……。
エレベーターはチンと音を立てて最上階に到着した。え?最上階?こんなところへ来たのは初めてだ。
「さあ。ご案内いたしますよ」
「ありがとう、ございます……?」
彼女に連れられてエレベーターを出る。この階はどうやら円形になっているようで、他の階とは様子が違った。オレンジ灯の目に優しい暗い通路を抜ければ、大きな窓から差し込む太陽の光で一気に明るみに出た。
「この展望フロアは一面の窓から周囲の街並みが見渡せるのです。ここから雲の動きを見ていると、不思議と時間が過ぎてしまう……。あなたも、心を落ち着かせたい時などは、ぜひともお立ち寄りなさって」
案内の人みたいに丁寧な解説をしてくれる彼女は、チリさんと違って歩幅を合わせてくれるから信じられないほど歩きやすかった。やっぱり優しい人だ。
ここまで来たらもう帰りますとは言えず、彼女の言葉通りにこの階の中央部に位置するオシャレなカフェに入ることになった。もうお昼ごはんの時間だから、少しお腹が空いている。でも知らない人について行っちゃだめって世間的には言うし、あんまり奢られるのも……。
「お好きなものをどうぞ」
「……えっと」
「コーヒーはお飲みになります?」
「い、いえ……のめないです」
「では、ココアはいかが?このお店はサンドイッチも美味しいんですよ。ああ、甘いものがお好きなら、デザートに苺のショートケーキもお忘れなく」
「えっと、えっと……」
結局一時間ほど長居することになった。諸々の事情で利き手が使えないから、逆の左手を一生懸命動かす私。その間、彼女はコーヒー一杯だけを優雅に嗜み、私が必死に食べる様子をにっこり笑って眺めていた。
その後、ハッサクさんのいるフロアまで付き添ってくれたかと思えば、「楽しい時間をありがとう」と言ってどこかへ行ってしまった。本当に誰だったんだろう……。疑問は残るが、とりあえず急いでハッサクさんの部屋へ向かう私だった。
+
「遅かったやないの」
「ごめんなさい……でも私は悪くないです」
「ふぅん?何してたん」
「知らない人に声をかけられて、美味しいココアを奢ってもらいました。あとサンドイッチと、ショートケーキも……」
「乞食か?」
部屋に戻ると、チリさんはやっぱり不機嫌そうな顔をして私を出迎えた。と言っても、ソファーに座ったままで。刃がむき出しのままのナイフを手の中でくるくると遊ばせている。あれは、チリさんだから出来る芸当だ。私がやったら一瞬で血だらけになる。もう手をダメにするのは勘弁だ……。
そんな彼女の手、昨日まで包帯が巻かれていたはずだが、今日は素手だった。私が切りつけた傷はもう塞がってしまったらしい。なんだ、どうせならもっと深くやっておけばよかった、こんなんじゃ割に合わない。
もう外に出る用事はないから、靴を脱いで靴箱にしまう。利き手が使えない……というのは思っていたよりも不都合な部分が多く、全ての動作が覚束無い。
やっとのことリビングまでやって来ると、チリさんが手招き代わりにナイフの刃先をくいっと動かした。あ、どやされる。そう察しながらも、とっくにこの人に躾られた私は素直に隣に座るしかない。
まあたぶん、私なんかにココアとサンドイッチとショートケーキを奢るような変わった人のことが気になるのだろう。わざとソファーの端に座ったのに、チリさんは即座に真隣に詰め寄ってきた。
「誰や、それ」
そんな、近寄らなくても話せと言われたら話すのに。
「えっと……」
「誰?」
「……えー、っと……」
私は首を傾げた。
……だ、誰だったっけ?まずい、名前を忘れてしまった。頭をフル回転させて必死に名前を思い出そうとするけど、今の一瞬で曖昧な記憶しか思い出せなくなってしまった。考え込む私に、ますます怪訝そうな顔をするチリさん。
「誰やねん」
「……本当に、分からなくて」
嘘ではない。彼女は名前以外は自分のことを語らなかった。その唯一の情報である名前を忘れてしまって大変不甲斐ない……。
「じゃあ、どんな人やった?」
「それは……優しそうな人でした」
「優しそう?」
「はい、チリさんより……いたっ!」
デコピンされた……。
「どんな、人?」
チリさんはここぞとばかりに微笑んだ。私の前では滅多に笑わないのに、自分の表情の変化が相手にどう作用するのか、よく分かっているようだ。痛めた額を押さえながら、思惑通り震え上がる私。
「た、たしかっ!髪が長くて……それで、目が大きくて……」
「ほう」
「なんだか、お淑やかな人で……笑顔が素敵で……言葉遣いも丁寧で……」
「ほう」
「どこかのお嬢さま、みたいな……?あ、まあ普通に成人した女性なんですけど……」
名前が分からないのなら外見から攻めるしかない。思い出せるだけの情報を口にした。チリさんは「ほう、ほう」とフクロウみたいに相槌を打っている。心当たりがあるのだろうか。
「なるほど?よ〜く生きて帰れたもんや」
「え?」
「なんでもない」
なんでもない?独り言にしては大きな声で、はっきりと耳に届きましたけど。
……“よく生きて帰れたもんや”?え、そんなに危ない人なの?あんなに優しそうな人だったのに……。
「あの人のことは考えるだけ無駄や。妖怪みたいに神出鬼没で、こっちの方が振り回されるのがオチや。今度また偶然会ったらラッキーやと思えばええ」
「……?」
なにそれ。怪談?伝説?噂話?じゃあ会えた私はラッキー?実際、美味しいものを奢ってもらえたし。
チリさんはそれ以上は何も言わなかった。この人は教えてくれることは勝手に喋ってくれるから、これ以上聞いてもたぶんあしらわれるだけだ。考えるだけ無駄、と言うのなら、そうなのだろう。私はその人について考えるのをやめた。
「手」
「……。はい」
怪談話が済んだところで、“お手”を促すチリさん。とっくに躾られた私は、すぐに右手を差し出した。
数日前に開けられた穴は塞がりつつある……と思う。包帯の下は怖くて見れていない。組織のお医者さんであるミモザ先生?という人が適切な処置をしてくれたそうなのだけど、全て私が寝ている間に済ませてくれたようで、目覚めた時には既に新しい包帯が綺麗に巻かれている状態だった。
私の右手。ど真ん中に穴を開けられた。
ピアスじゃないんだから。
そういえば……閑話休題。
後々分かったことだけど、チリさんはどうやら組織の中でも『尋問』『拷問』『詰問』の役割を担う幹部として名が通っているらしかった。つまり人を傷つけるのが得意で、人に何かを問いただすのが得意で――本人曰く「人を殺すのは不得意」らしい。
それを言われた時は冗談かと思ったけど、単純に普段のお仕事が『捕虜を殺さないように痛めつけて喋らせること』だから、別に嘘を言ったわけでもないのだろう。
バラバラになりかけた父の死体を見て普通そうにしていたのも。
「殺し屋さんですか?」という問いかけに対してわざわざ訂正していたのも。
私のことを無為に殺さなかったのも。
たまにこれでもかと言うほど血みどろになって帰ってくるのも。
私の手にナイフを突き立てておきながら白々しい顔をしていたのも。
……とどのつまり、そういうことだったのだ。全部、紛れもなく、不殺を前提とした尋問の役を担う彼女の、普段通りの行動だった。特別何か変わった行動を起こしたわけじゃなかったのだ。
ハッサクさんが教えてくれた「チリは優しいほう」という言葉の意味が、実は“殺さず生かしてくれるから”なんていう、なんにも優しくない彼女の生態のことを言っていたとは、知る由もなかった。
……むしろ、片手で済ませてくれたことを真に“優しい”と思うべきなのだろうか……。
“優しい”ってなんだっけ。国語は難しいな。
「さて、どんなもんかな。傷の具合は」
チリさんは私の右手に巻かれた包帯をしゅるしゅると剥き始めた。え、もう外していいの?それ。怖いからやめて欲しいんだけど。でもやめて欲しいなんて言ったらまた“優しいこと”をされるから、何も言わずに顔を逸らす。
一応、痛み止めを飲んでいるし、既に麻痺してあまり感覚が無くなっているから、せめて視界に入れなければ何もされてないのと同じだ。
「……おお、思ったより綺麗やないの。ほんま、ミモザ先生は優秀やな。あの子にはいつも“やりすぎた時に”世話になってるけど、今度ちゃんとお礼せな。お土産のクッキーも貰ったことやし」
「……はあ、そうですか」
「……」
「……」
なんだろう、この沈黙。
「ほれっ」
「い゛ッ……!」
急に傷痕をほじくられた。麻痺していたはずの右手に、途端に鋭い痛覚が戻ってきた。あの日の痛みを思い出して、反射的に手を引き寄せた。
こ、こいつ!
痛い、痛い……思わず痛々しい針の跡も目にしてしまい、ますます感覚が戻ってくる。はあはあ息を切らしながらじんわり涙目になる私を見て、チリさんは笑った。鬼だ、鬼がいる。
「なっははー」
っていうか、チリさん、笑ってる。私の前ではあんまり笑わないのに。……かと思えば、急にスンと真顔になった。え?情緒不安定?
「なんで自分、利き手のほうダメにすんねん。おかげで介抱せなあかんこっちの身考えや。世話焼かすな」
「え?誰のせいだと……」
「自分のせいやろ」
「……」
この人やばすぎる。やばいって。頭のネジ飛んでる。
ちなみに、チリさんは元々やばいが、本当にやばい一面を知るのはこれからだった。
「服、脱げ」
「ま……またですか〜……?」
ある日の朝食後に放たれた一言に、朝っぱらから心底げんなりする私。
最近、チリさんが何故か私が着る用の可愛い服をたくさん買い込んでくるせいで、いっぱいになったクローゼットの整理でもしようかな〜と一日の予定を考えていたのだが。……それは明日の予定にする他ないようだ。
「今度は、なに……」
「そろそろ可愛がってやろと思てな」
「……?」
「チリちゃん、自分のことかなり気に入ってるみたいやわ」
「……」
いきなり何を言うんだろう。
はだけた服を直しもせず、私が普段寝ているベッドに腰掛けるチリさん。ふんふん鼻歌を歌いながら、長い脚をぶらぶらさせている。なにやらご機嫌のようだけど……何か良いことでもあったのだろうか。
まあ、あんなにご機嫌なら意地悪なことはされないだろう。と、無理やり楽観的に考え、そろりそろりと彼女の元へ向かう。
今日着ているのは黒のワンピースドレスだ。部屋着にしてはフリフリな気がするけど、チリさんが着ろと言うから着た。それを突然脱げだなんて、いったいどういうつもりなの。
「ほな、おいで」
やけに優しい声色で呼ばれ、さっそく嫌な予感がしたけれど、次の瞬間には腕を引かれて膝の上に座らせられた。「わあ」と驚いてチリさんの肩にしがみつく。華奢なのに骨張っていて、私とは全然体格が違う。
「な、なにするんですか」
「ええこと」
「……はあ?」
「とにかく、脱げや。はよ。自分で脱げるやろ?それとも脱がせてほしいんか?」
今日のチリさんは、なんだか様子がおかしい。まるでお酒に酔ってるみたいな……でも昨日からずっと一緒にいるけど、お酒なんて一滴も飲んでいなかった。
……じゃあ、何に酔っているの?
当然服なんか脱ぎたくない私は、時間を稼ぐためにぷいっと明後日の方向に視線をやった。最近のチリさんは本当の意味で優しい気がするから、これくらいのことで急に激怒したりしないのだ。
しらばっくれてやる。聞こえなかったフリでもしよう。なんでもかんでも思い通りになると思わないでほしいね。この自己中おばけ!――と心の中で叫んだはずが、どういうわけかチリさんが急に私の右手をガシッと掴んだ。
「い、いた、いっ」
「この反抗期め」
「待っ、い、いたい、はなして……っ」
毎日ぶつぶつ文句を言いながらもチリさんが自ら丁寧に巻き直している包帯越しに、患部を思いっきり揉みしだき始めた。ビリリと激痛が走る。
「もっと痛くされたいんか?」
「や、やだっ、やだ!」
「自分、チリちゃんのとこにいたいって言うたやろ?なんでもするって」
「い、言ったけど……痛いのは、いや!」
「せやったら、言うこと聞くのが筋っちゅうもんやろ?それとも、今すぐ追い出してほしい?嫌やろ?大好きな、チリちゃんと、お別れするんは」
「え、ええ?はぁ?わ、わたしべつに、“この部屋”が心地いいだけで、チリさんのことが、好きなわけじゃ、」
「ん?もう一回」
「いたたたたたた!す、好きですっ。チリさんのこと、好き。好き、好き。な、なんでも言うこと聞きます。だから、ここにいさせてくださいっ!!!」
「じゃあ、服脱いで?」
思考回路どうなってるの?
服を脱いだ。
「……ぐすん」
人間、誰だって痛みには弱いのだ。
右手が使えないから心底着にくい服だと思っていたけれど、脱ぐ時も心底脱ぎにくいと思った。手伝ってくれてもいいのに、チリさんは私があたふたしている様子を愉しそうに見ているだけ。見世物じゃないのに。
そういえば……笑顔でいるのがデフォルトになったようだ。不機嫌な時はいつもの怖い顔なんだけど、今みたいに上機嫌な時は簡単に笑ってくれるようになった。それがなんだか……その、いや、あの、べつに、ぜんぜんうれしくないけど。心が落ち着くからありがたい。
「下着も……?」
「いや、もうええよ。お疲れさん」
よかった、この下着はワンピースよりも着るのが大変だったのだ。安堵しながら、脱いだワンピースをベッドの端の方へ置く。
今の私は……これまたチリさんが用意してきた、可愛い下着だけを身につけている状態だ。今までちゃんとしたものを買える家庭環境じゃなかったから、下着なんてどれも同じだと思っていたけれど、サイズピッタリなブラジャーを付けると不思議と自分の胸が大きく見えるから、感動する。
けれど、普通の下着にしては透けている部分が多いような、なにか余計な紐?のようなものがついているような……太ももまであるレース、これは必要なものなのか?
「なんで、こんな、フリフリの……」
「可愛いやん。リップさんのブランドやし。デザインしたの、シュウメイくんらしいし。組織のオシャレ担当の最強タッグや」
ああ、リップさん。なんか、私の服を用意してくれているっていう噂の……。シュウ、メイ?という名前は初めて聞いたが。
「チリさんも、こういうの着るんですか?」
「え?べつに、趣味やないわ」
「……?」
「着る分にはな」
「ああ……」
裸(同然)になるのが三度目ともなると、慣れたものだ。……とはもちろんならず、三度目でも恥ずかしいものは恥ずかしい。
さて、これから私はいったい何をされるのだろう。どうせろくなことがないのだから、心構えが必要だ。健康観察その3……ではないはず。だって、チリさんの様子がいつもと違うし。これも単なる気のせいだろうか?……まあいいか。気にしたところで状況は変わらない。
「暑いなぁ、この部屋」
チリさんは、ブーツを脱いで両脚をベッドにあげた。
「……私は寒いです」
「そう?」
肌を隠したくてシーツを手繰り寄せようとするが、当然のように阻止されてしまう。寒いって言ってるのに……内心舌打ちをする私に、チリさんは笑う。
「すぐ良くなるから心配いらん」
と、言いながら。私の肩に手を置いて、そのままベッドに押し倒した。
「……わ、」
押し倒された。チリさんの力は優しくて無理やりじゃなかったのに、例に漏れず抵抗できない私の体は簡単にベッドに沈みこんでしまった。ぽすっと音を立てながら。
そのまま、お腹のところに馬乗りになるチリさん。体を浮かせてくれているからあんまり重くない。そんな気遣い、前までは全然なかったのに……。私の瞳を見つめながら、お仕事終わりではめたままだった手袋を外し、ぽいっと宙に投げてしまった。
「ち、チリさん……?」
何かがおかしい。何かが。
「不思議な子やな。他の人間と何が違うんや?最初からおもろい子やと思っとったけど、チリちゃん、ちっとも分からんかった」
顔のそばに、手を置かれた。
顔がだんだん近づいてくる。
チリさんは急に笑ったり、急に怒ったり、情緒不安定なところがあるから、その変化には慣れたものだけど、いま目の前にある彼女の顔は、見たことがなかった。
私の知らないチリさんだ。
「せやから、今までずっとそばに置いて様子を見てきたんやけど……最近、なんとなく、分かった気ぃするわ」
チリさんはその間にも、何かを考えるように表情を色々変えて、笑ったり、目を細めたり、目を閉じたり、笑ったり。
私はただじっと黙って様子を見ていた。そうするべきだと、思った。少なくとも何かを言える雰囲気ではなかった。
「愛着、というか、庇護欲、というか……なんやこれ……なんやと思う?んー、分からん、なんや、うまく説明できんな。ああ、でもな、これだけは分かるんよ。“あの時”、抱いた感情にあえて名前を付けるとしたら、そら……」
ぱちくりと瞬きをする私の首元に、
チリさんの指先が触れた。
「一目惚れ……みたいな」
……なんか、急に独白している。誰の話をしているんだろう?私に関係ある話?
この人、今日は特別様子がおかしいなと思っていたけど、そういえばチリさんがおかしいのはいつものことだった。
「……あんたの首は、白くて細くて、すぐに折れてしまいそうやなぁ」
チリさんの指は、長くてきれいで、片手でも子供の首を掴むのには十分だ。
「……チリさん?」
私の頭を撫でながら、反対の手で私の首を包んでくる。柔く、優しく、だんだん強く、手に力がこもっていく。
いつの間にかチリさんの頬はほんのり色付いていて、その目はまるで、興奮しきったけもののように……紅くて、艶やかで、美しい。私は一秒たりとも目が逸らすことができなかった。
「あの時、血だらけのあんたに心臓鷲掴みにされてしもたんや。最初は単なる好奇心やったのに……やばいで、ほんま。何してくれるん。今のチリちゃん、あんたこと、今すぐにでも……殺したくてたまらんわ」
「……」
首を絞められている。――かと思えば、ぱっと手の力が緩んだ。手は首に添えられたまま。可愛がるように喉元を撫でられている。
「……あかん、絞殺じゃ、声聞けんやないの。ひとの断末魔聞くの、“それでお楽しみが終わってしまうから”、普段はほんまに嫌いなんやけど、……あんたのは、興味あるな……」
「は、?」
なに、なに?今更私を殺そうとしているの?そんな、いきなり、心変わり?そんなの困るよ、私、死にたくないからね。抗議の声を上げようとチリさんの腕を左手でガシッと掴んだ。
「わ、」
そしたら、急に私の肩にドスッと頭が落ちてきた。チリさんの、頭が。
「はぁ……でも、いやや。殺しとうない……。どうすりゃええねん。人間って殺したら、死んでしまうやんか。ほんなら、殺しとうないわ。チリちゃん……人殺すの、得意やなくてよかったぁ……」
今まで聞いたこともないくらい弱々しい声で呟いている。独り言なのか、私に話しかけているのか、どっちなんだろう。ちゃんと聞いた方がいいの?これは。
「……な、何言って……」
「アオキさんみたいに、仕事早くなくてよかった……ハッサクさんみたいに、抜け目ない人やなくてよかった……あの二人なら、あの日、あの家で、速攻始末しとったはずやもん。……あの日、あの家に行ったのが、チリちゃんでよかったわ……」
私の体を抱きしめながら、額をぐりぐり押し付けてくる。
「え……?あ……?え……?」
なんか、え?人が変わったような、なんだ、これ。か、かわいい……?チリさんにも子供らしいところがあるんだ。甘えられているのが自分、というのが信じられないけれど。
チリさんがそのまま動かなくなってしまったから、私の肩に埋めたままの頭をそうっと撫でてみた。なで、なで。なんとなく、撫でたくなる頭をしていたのだ。昨日までの自分なら、こんなことできなかったろうけど……。
そんなこんなで十秒くらい後、ガバッと顔があがった。今度は不機嫌そうな顔をしている。今度はなに?
「自分、どないして、そんなに可愛いんや。もう認めたる。愛くるしい顔しよって。いい加減にせえよ、殺したろうか、むかつくなぁ……ほんま」
「えっ」
チリさんは起き上がったかと思うと、自分の後頭部に手を伸ばして髪を解いた。先程の手袋と同じように、ぽいっと髪留めを床に投げてしまう。お行儀が良いように見えて、案外中身は雑な人なのかもしれない。
最近、そんな一面を多く見せられている気がする。それもこれも、親しくなったから……なのだろうか。
「なんでもええわ、そういうわけで、今日は満足いくまで可愛がらせてもらうわ。うっかり殺してしまうかもしれんけど、“優しく”するから堪忍な」
……嫌な予感がする。私、やっぱり今日で死ぬのかな。
「……?」
「その節は、我が組織幹部のチリが粗相をしたようで……その後、お体の具合は?なにか酷い扱いを受けていませんか?」
エレベーターの前で居合わせた、お淑やかな女性に声をかけられた。この建物にいる人間で知らない人はいないチリさんが声をかけられることはあっても、新顔である私が声をかけられることは滅多にないから狼狽えてしまう。
……人違い、かな?
「……え、と」
「ああ、怖がらないで。そうですね。立ち話もなんですから、カフェテリアへご一緒してくださる?もちろん、お代は私が持ちますので。さあ、エレベーターが参りましたよ」
有無を言わさぬ雰囲気で、乗る予定のなかったエレベーターに連れ込まれた。え?私、チリさんにおつかいを頼まれてハッサクさんにお届け物をするところなんですが……?人違い、じゃ……?誰だか知らないけど、なんだかただならぬオーラを感じる……。といっても、この建物で会う人はたいてい普通じゃないから慣れたものだけれど。
「えっと……オモ、……?」
「はい。オモダカです」
だ、誰ですか……?って聞いていいのかな。
私の了承などなしに、勝手に上昇するエレベーターの箱の中で、横並びになった彼女をこっそりと見上げる。オモダカ……さんは、にっこり人のいい笑顔で笑い返してくれた。なんか優しそう。って、そうじゃなくて。
私、これからハッサクさんのところへ行かなくちゃならないんです。あのチリさんに怖い顔で「寄り道するんやないで」とまで言われてしまっているんです。だから、どこの誰とも知らないあなたとカフェテリア?へ行く暇なんてないんです。
……とは、とても言えない雰囲気だ。小心者でコミュニケーションが得意ではないから、こういう時に空気を悪くせずに断る方法なんて知らない。お喋りが得意なチリさんなら上手くやるんだろうけど……。
エレベーターはチンと音を立てて最上階に到着した。え?最上階?こんなところへ来たのは初めてだ。
「さあ。ご案内いたしますよ」
「ありがとう、ございます……?」
彼女に連れられてエレベーターを出る。この階はどうやら円形になっているようで、他の階とは様子が違った。オレンジ灯の目に優しい暗い通路を抜ければ、大きな窓から差し込む太陽の光で一気に明るみに出た。
「この展望フロアは一面の窓から周囲の街並みが見渡せるのです。ここから雲の動きを見ていると、不思議と時間が過ぎてしまう……。あなたも、心を落ち着かせたい時などは、ぜひともお立ち寄りなさって」
案内の人みたいに丁寧な解説をしてくれる彼女は、チリさんと違って歩幅を合わせてくれるから信じられないほど歩きやすかった。やっぱり優しい人だ。
ここまで来たらもう帰りますとは言えず、彼女の言葉通りにこの階の中央部に位置するオシャレなカフェに入ることになった。もうお昼ごはんの時間だから、少しお腹が空いている。でも知らない人について行っちゃだめって世間的には言うし、あんまり奢られるのも……。
「お好きなものをどうぞ」
「……えっと」
「コーヒーはお飲みになります?」
「い、いえ……のめないです」
「では、ココアはいかが?このお店はサンドイッチも美味しいんですよ。ああ、甘いものがお好きなら、デザートに苺のショートケーキもお忘れなく」
「えっと、えっと……」
結局一時間ほど長居することになった。諸々の事情で利き手が使えないから、逆の左手を一生懸命動かす私。その間、彼女はコーヒー一杯だけを優雅に嗜み、私が必死に食べる様子をにっこり笑って眺めていた。
その後、ハッサクさんのいるフロアまで付き添ってくれたかと思えば、「楽しい時間をありがとう」と言ってどこかへ行ってしまった。本当に誰だったんだろう……。疑問は残るが、とりあえず急いでハッサクさんの部屋へ向かう私だった。
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「遅かったやないの」
「ごめんなさい……でも私は悪くないです」
「ふぅん?何してたん」
「知らない人に声をかけられて、美味しいココアを奢ってもらいました。あとサンドイッチと、ショートケーキも……」
「乞食か?」
部屋に戻ると、チリさんはやっぱり不機嫌そうな顔をして私を出迎えた。と言っても、ソファーに座ったままで。刃がむき出しのままのナイフを手の中でくるくると遊ばせている。あれは、チリさんだから出来る芸当だ。私がやったら一瞬で血だらけになる。もう手をダメにするのは勘弁だ……。
そんな彼女の手、昨日まで包帯が巻かれていたはずだが、今日は素手だった。私が切りつけた傷はもう塞がってしまったらしい。なんだ、どうせならもっと深くやっておけばよかった、こんなんじゃ割に合わない。
もう外に出る用事はないから、靴を脱いで靴箱にしまう。利き手が使えない……というのは思っていたよりも不都合な部分が多く、全ての動作が覚束無い。
やっとのことリビングまでやって来ると、チリさんが手招き代わりにナイフの刃先をくいっと動かした。あ、どやされる。そう察しながらも、とっくにこの人に躾られた私は素直に隣に座るしかない。
まあたぶん、私なんかにココアとサンドイッチとショートケーキを奢るような変わった人のことが気になるのだろう。わざとソファーの端に座ったのに、チリさんは即座に真隣に詰め寄ってきた。
「誰や、それ」
そんな、近寄らなくても話せと言われたら話すのに。
「えっと……」
「誰?」
「……えー、っと……」
私は首を傾げた。
……だ、誰だったっけ?まずい、名前を忘れてしまった。頭をフル回転させて必死に名前を思い出そうとするけど、今の一瞬で曖昧な記憶しか思い出せなくなってしまった。考え込む私に、ますます怪訝そうな顔をするチリさん。
「誰やねん」
「……本当に、分からなくて」
嘘ではない。彼女は名前以外は自分のことを語らなかった。その唯一の情報である名前を忘れてしまって大変不甲斐ない……。
「じゃあ、どんな人やった?」
「それは……優しそうな人でした」
「優しそう?」
「はい、チリさんより……いたっ!」
デコピンされた……。
「どんな、人?」
チリさんはここぞとばかりに微笑んだ。私の前では滅多に笑わないのに、自分の表情の変化が相手にどう作用するのか、よく分かっているようだ。痛めた額を押さえながら、思惑通り震え上がる私。
「た、たしかっ!髪が長くて……それで、目が大きくて……」
「ほう」
「なんだか、お淑やかな人で……笑顔が素敵で……言葉遣いも丁寧で……」
「ほう」
「どこかのお嬢さま、みたいな……?あ、まあ普通に成人した女性なんですけど……」
名前が分からないのなら外見から攻めるしかない。思い出せるだけの情報を口にした。チリさんは「ほう、ほう」とフクロウみたいに相槌を打っている。心当たりがあるのだろうか。
「なるほど?よ〜く生きて帰れたもんや」
「え?」
「なんでもない」
なんでもない?独り言にしては大きな声で、はっきりと耳に届きましたけど。
……“よく生きて帰れたもんや”?え、そんなに危ない人なの?あんなに優しそうな人だったのに……。
「あの人のことは考えるだけ無駄や。妖怪みたいに神出鬼没で、こっちの方が振り回されるのがオチや。今度また偶然会ったらラッキーやと思えばええ」
「……?」
なにそれ。怪談?伝説?噂話?じゃあ会えた私はラッキー?実際、美味しいものを奢ってもらえたし。
チリさんはそれ以上は何も言わなかった。この人は教えてくれることは勝手に喋ってくれるから、これ以上聞いてもたぶんあしらわれるだけだ。考えるだけ無駄、と言うのなら、そうなのだろう。私はその人について考えるのをやめた。
「手」
「……。はい」
怪談話が済んだところで、“お手”を促すチリさん。とっくに躾られた私は、すぐに右手を差し出した。
数日前に開けられた穴は塞がりつつある……と思う。包帯の下は怖くて見れていない。組織のお医者さんであるミモザ先生?という人が適切な処置をしてくれたそうなのだけど、全て私が寝ている間に済ませてくれたようで、目覚めた時には既に新しい包帯が綺麗に巻かれている状態だった。
私の右手。ど真ん中に穴を開けられた。
ピアスじゃないんだから。
そういえば……閑話休題。
後々分かったことだけど、チリさんはどうやら組織の中でも『尋問』『拷問』『詰問』の役割を担う幹部として名が通っているらしかった。つまり人を傷つけるのが得意で、人に何かを問いただすのが得意で――本人曰く「人を殺すのは不得意」らしい。
それを言われた時は冗談かと思ったけど、単純に普段のお仕事が『捕虜を殺さないように痛めつけて喋らせること』だから、別に嘘を言ったわけでもないのだろう。
バラバラになりかけた父の死体を見て普通そうにしていたのも。
「殺し屋さんですか?」という問いかけに対してわざわざ訂正していたのも。
私のことを無為に殺さなかったのも。
たまにこれでもかと言うほど血みどろになって帰ってくるのも。
私の手にナイフを突き立てておきながら白々しい顔をしていたのも。
……とどのつまり、そういうことだったのだ。全部、紛れもなく、不殺を前提とした尋問の役を担う彼女の、普段通りの行動だった。特別何か変わった行動を起こしたわけじゃなかったのだ。
ハッサクさんが教えてくれた「チリは優しいほう」という言葉の意味が、実は“殺さず生かしてくれるから”なんていう、なんにも優しくない彼女の生態のことを言っていたとは、知る由もなかった。
……むしろ、片手で済ませてくれたことを真に“優しい”と思うべきなのだろうか……。
“優しい”ってなんだっけ。国語は難しいな。
「さて、どんなもんかな。傷の具合は」
チリさんは私の右手に巻かれた包帯をしゅるしゅると剥き始めた。え、もう外していいの?それ。怖いからやめて欲しいんだけど。でもやめて欲しいなんて言ったらまた“優しいこと”をされるから、何も言わずに顔を逸らす。
一応、痛み止めを飲んでいるし、既に麻痺してあまり感覚が無くなっているから、せめて視界に入れなければ何もされてないのと同じだ。
「……おお、思ったより綺麗やないの。ほんま、ミモザ先生は優秀やな。あの子にはいつも“やりすぎた時に”世話になってるけど、今度ちゃんとお礼せな。お土産のクッキーも貰ったことやし」
「……はあ、そうですか」
「……」
「……」
なんだろう、この沈黙。
「ほれっ」
「い゛ッ……!」
急に傷痕をほじくられた。麻痺していたはずの右手に、途端に鋭い痛覚が戻ってきた。あの日の痛みを思い出して、反射的に手を引き寄せた。
こ、こいつ!
痛い、痛い……思わず痛々しい針の跡も目にしてしまい、ますます感覚が戻ってくる。はあはあ息を切らしながらじんわり涙目になる私を見て、チリさんは笑った。鬼だ、鬼がいる。
「なっははー」
っていうか、チリさん、笑ってる。私の前ではあんまり笑わないのに。……かと思えば、急にスンと真顔になった。え?情緒不安定?
「なんで自分、利き手のほうダメにすんねん。おかげで介抱せなあかんこっちの身考えや。世話焼かすな」
「え?誰のせいだと……」
「自分のせいやろ」
「……」
この人やばすぎる。やばいって。頭のネジ飛んでる。
ちなみに、チリさんは元々やばいが、本当にやばい一面を知るのはこれからだった。
「服、脱げ」
「ま……またですか〜……?」
ある日の朝食後に放たれた一言に、朝っぱらから心底げんなりする私。
最近、チリさんが何故か私が着る用の可愛い服をたくさん買い込んでくるせいで、いっぱいになったクローゼットの整理でもしようかな〜と一日の予定を考えていたのだが。……それは明日の予定にする他ないようだ。
「今度は、なに……」
「そろそろ可愛がってやろと思てな」
「……?」
「チリちゃん、自分のことかなり気に入ってるみたいやわ」
「……」
いきなり何を言うんだろう。
はだけた服を直しもせず、私が普段寝ているベッドに腰掛けるチリさん。ふんふん鼻歌を歌いながら、長い脚をぶらぶらさせている。なにやらご機嫌のようだけど……何か良いことでもあったのだろうか。
まあ、あんなにご機嫌なら意地悪なことはされないだろう。と、無理やり楽観的に考え、そろりそろりと彼女の元へ向かう。
今日着ているのは黒のワンピースドレスだ。部屋着にしてはフリフリな気がするけど、チリさんが着ろと言うから着た。それを突然脱げだなんて、いったいどういうつもりなの。
「ほな、おいで」
やけに優しい声色で呼ばれ、さっそく嫌な予感がしたけれど、次の瞬間には腕を引かれて膝の上に座らせられた。「わあ」と驚いてチリさんの肩にしがみつく。華奢なのに骨張っていて、私とは全然体格が違う。
「な、なにするんですか」
「ええこと」
「……はあ?」
「とにかく、脱げや。はよ。自分で脱げるやろ?それとも脱がせてほしいんか?」
今日のチリさんは、なんだか様子がおかしい。まるでお酒に酔ってるみたいな……でも昨日からずっと一緒にいるけど、お酒なんて一滴も飲んでいなかった。
……じゃあ、何に酔っているの?
当然服なんか脱ぎたくない私は、時間を稼ぐためにぷいっと明後日の方向に視線をやった。最近のチリさんは本当の意味で優しい気がするから、これくらいのことで急に激怒したりしないのだ。
しらばっくれてやる。聞こえなかったフリでもしよう。なんでもかんでも思い通りになると思わないでほしいね。この自己中おばけ!――と心の中で叫んだはずが、どういうわけかチリさんが急に私の右手をガシッと掴んだ。
「い、いた、いっ」
「この反抗期め」
「待っ、い、いたい、はなして……っ」
毎日ぶつぶつ文句を言いながらもチリさんが自ら丁寧に巻き直している包帯越しに、患部を思いっきり揉みしだき始めた。ビリリと激痛が走る。
「もっと痛くされたいんか?」
「や、やだっ、やだ!」
「自分、チリちゃんのとこにいたいって言うたやろ?なんでもするって」
「い、言ったけど……痛いのは、いや!」
「せやったら、言うこと聞くのが筋っちゅうもんやろ?それとも、今すぐ追い出してほしい?嫌やろ?大好きな、チリちゃんと、お別れするんは」
「え、ええ?はぁ?わ、わたしべつに、“この部屋”が心地いいだけで、チリさんのことが、好きなわけじゃ、」
「ん?もう一回」
「いたたたたたた!す、好きですっ。チリさんのこと、好き。好き、好き。な、なんでも言うこと聞きます。だから、ここにいさせてくださいっ!!!」
「じゃあ、服脱いで?」
思考回路どうなってるの?
服を脱いだ。
「……ぐすん」
人間、誰だって痛みには弱いのだ。
右手が使えないから心底着にくい服だと思っていたけれど、脱ぐ時も心底脱ぎにくいと思った。手伝ってくれてもいいのに、チリさんは私があたふたしている様子を愉しそうに見ているだけ。見世物じゃないのに。
そういえば……笑顔でいるのがデフォルトになったようだ。不機嫌な時はいつもの怖い顔なんだけど、今みたいに上機嫌な時は簡単に笑ってくれるようになった。それがなんだか……その、いや、あの、べつに、ぜんぜんうれしくないけど。心が落ち着くからありがたい。
「下着も……?」
「いや、もうええよ。お疲れさん」
よかった、この下着はワンピースよりも着るのが大変だったのだ。安堵しながら、脱いだワンピースをベッドの端の方へ置く。
今の私は……これまたチリさんが用意してきた、可愛い下着だけを身につけている状態だ。今までちゃんとしたものを買える家庭環境じゃなかったから、下着なんてどれも同じだと思っていたけれど、サイズピッタリなブラジャーを付けると不思議と自分の胸が大きく見えるから、感動する。
けれど、普通の下着にしては透けている部分が多いような、なにか余計な紐?のようなものがついているような……太ももまであるレース、これは必要なものなのか?
「なんで、こんな、フリフリの……」
「可愛いやん。リップさんのブランドやし。デザインしたの、シュウメイくんらしいし。組織のオシャレ担当の最強タッグや」
ああ、リップさん。なんか、私の服を用意してくれているっていう噂の……。シュウ、メイ?という名前は初めて聞いたが。
「チリさんも、こういうの着るんですか?」
「え?べつに、趣味やないわ」
「……?」
「着る分にはな」
「ああ……」
裸(同然)になるのが三度目ともなると、慣れたものだ。……とはもちろんならず、三度目でも恥ずかしいものは恥ずかしい。
さて、これから私はいったい何をされるのだろう。どうせろくなことがないのだから、心構えが必要だ。健康観察その3……ではないはず。だって、チリさんの様子がいつもと違うし。これも単なる気のせいだろうか?……まあいいか。気にしたところで状況は変わらない。
「暑いなぁ、この部屋」
チリさんは、ブーツを脱いで両脚をベッドにあげた。
「……私は寒いです」
「そう?」
肌を隠したくてシーツを手繰り寄せようとするが、当然のように阻止されてしまう。寒いって言ってるのに……内心舌打ちをする私に、チリさんは笑う。
「すぐ良くなるから心配いらん」
と、言いながら。私の肩に手を置いて、そのままベッドに押し倒した。
「……わ、」
押し倒された。チリさんの力は優しくて無理やりじゃなかったのに、例に漏れず抵抗できない私の体は簡単にベッドに沈みこんでしまった。ぽすっと音を立てながら。
そのまま、お腹のところに馬乗りになるチリさん。体を浮かせてくれているからあんまり重くない。そんな気遣い、前までは全然なかったのに……。私の瞳を見つめながら、お仕事終わりではめたままだった手袋を外し、ぽいっと宙に投げてしまった。
「ち、チリさん……?」
何かがおかしい。何かが。
「不思議な子やな。他の人間と何が違うんや?最初からおもろい子やと思っとったけど、チリちゃん、ちっとも分からんかった」
顔のそばに、手を置かれた。
顔がだんだん近づいてくる。
チリさんは急に笑ったり、急に怒ったり、情緒不安定なところがあるから、その変化には慣れたものだけど、いま目の前にある彼女の顔は、見たことがなかった。
私の知らないチリさんだ。
「せやから、今までずっとそばに置いて様子を見てきたんやけど……最近、なんとなく、分かった気ぃするわ」
チリさんはその間にも、何かを考えるように表情を色々変えて、笑ったり、目を細めたり、目を閉じたり、笑ったり。
私はただじっと黙って様子を見ていた。そうするべきだと、思った。少なくとも何かを言える雰囲気ではなかった。
「愛着、というか、庇護欲、というか……なんやこれ……なんやと思う?んー、分からん、なんや、うまく説明できんな。ああ、でもな、これだけは分かるんよ。“あの時”、抱いた感情にあえて名前を付けるとしたら、そら……」
ぱちくりと瞬きをする私の首元に、
チリさんの指先が触れた。
「一目惚れ……みたいな」
……なんか、急に独白している。誰の話をしているんだろう?私に関係ある話?
この人、今日は特別様子がおかしいなと思っていたけど、そういえばチリさんがおかしいのはいつものことだった。
「……あんたの首は、白くて細くて、すぐに折れてしまいそうやなぁ」
チリさんの指は、長くてきれいで、片手でも子供の首を掴むのには十分だ。
「……チリさん?」
私の頭を撫でながら、反対の手で私の首を包んでくる。柔く、優しく、だんだん強く、手に力がこもっていく。
いつの間にかチリさんの頬はほんのり色付いていて、その目はまるで、興奮しきったけもののように……紅くて、艶やかで、美しい。私は一秒たりとも目が逸らすことができなかった。
「あの時、血だらけのあんたに心臓鷲掴みにされてしもたんや。最初は単なる好奇心やったのに……やばいで、ほんま。何してくれるん。今のチリちゃん、あんたこと、今すぐにでも……殺したくてたまらんわ」
「……」
首を絞められている。――かと思えば、ぱっと手の力が緩んだ。手は首に添えられたまま。可愛がるように喉元を撫でられている。
「……あかん、絞殺じゃ、声聞けんやないの。ひとの断末魔聞くの、“それでお楽しみが終わってしまうから”、普段はほんまに嫌いなんやけど、……あんたのは、興味あるな……」
「は、?」
なに、なに?今更私を殺そうとしているの?そんな、いきなり、心変わり?そんなの困るよ、私、死にたくないからね。抗議の声を上げようとチリさんの腕を左手でガシッと掴んだ。
「わ、」
そしたら、急に私の肩にドスッと頭が落ちてきた。チリさんの、頭が。
「はぁ……でも、いやや。殺しとうない……。どうすりゃええねん。人間って殺したら、死んでしまうやんか。ほんなら、殺しとうないわ。チリちゃん……人殺すの、得意やなくてよかったぁ……」
今まで聞いたこともないくらい弱々しい声で呟いている。独り言なのか、私に話しかけているのか、どっちなんだろう。ちゃんと聞いた方がいいの?これは。
「……な、何言って……」
「アオキさんみたいに、仕事早くなくてよかった……ハッサクさんみたいに、抜け目ない人やなくてよかった……あの二人なら、あの日、あの家で、速攻始末しとったはずやもん。……あの日、あの家に行ったのが、チリちゃんでよかったわ……」
私の体を抱きしめながら、額をぐりぐり押し付けてくる。
「え……?あ……?え……?」
なんか、え?人が変わったような、なんだ、これ。か、かわいい……?チリさんにも子供らしいところがあるんだ。甘えられているのが自分、というのが信じられないけれど。
チリさんがそのまま動かなくなってしまったから、私の肩に埋めたままの頭をそうっと撫でてみた。なで、なで。なんとなく、撫でたくなる頭をしていたのだ。昨日までの自分なら、こんなことできなかったろうけど……。
そんなこんなで十秒くらい後、ガバッと顔があがった。今度は不機嫌そうな顔をしている。今度はなに?
「自分、どないして、そんなに可愛いんや。もう認めたる。愛くるしい顔しよって。いい加減にせえよ、殺したろうか、むかつくなぁ……ほんま」
「えっ」
チリさんは起き上がったかと思うと、自分の後頭部に手を伸ばして髪を解いた。先程の手袋と同じように、ぽいっと髪留めを床に投げてしまう。お行儀が良いように見えて、案外中身は雑な人なのかもしれない。
最近、そんな一面を多く見せられている気がする。それもこれも、親しくなったから……なのだろうか。
「なんでもええわ、そういうわけで、今日は満足いくまで可愛がらせてもらうわ。うっかり殺してしまうかもしれんけど、“優しく”するから堪忍な」
……嫌な予感がする。私、やっぱり今日で死ぬのかな。