十五回目の春が来た。いくらこの家が他よりそういったご縁が薄いからといって、年齢的にそういうことも考えなければいけない、そんなお家柄に生まれた此方の最近の趣味はお裁縫。昔から人と関わるのが得意ではない。だだっ広いお部屋の隅で小さくなっているのが好きだ。けれどこの家は弱小で穏やかな成りをしていながら、その実立派な貴族である。政治的に関わることはないけれど、氷川の人間は皆武術に秀でており、お殿様の身辺警護を優先的に務めることも多い半ば特殊な地位にある。当然のように縁談の話はいくつか持ちかけられているらしいが、此方はあまり興味がなかった。彼らの目的は所詮家柄のみ。こんな根暗な女を気に入る殿方など希少価値の高いこと。将来は空気の薄い女中のような嫁になるのだろう、平穏に暮らせるのならむしろそれが都合がいい、だから此方は針仕事くらいは人に負けぬようにあろうと、今日も無心で針を進める。日頃よりお世話になっているナナウミさまに送るお衣の刺繍をしているのだ。我ながら出来がいい。完成が待ち遠しい。けれどそれはかの方にお披露目することは叶わなかった。
数日前からやけにお屋敷が騒がしいと思っていたが、まさかこの時には既に決まっていたとは思いもしなかった。誰かのお誕生日でもない、宴でもない、それでもこんなに騒ぎになるなんて何かよっぽどの問題が起こったに違いない。お屋敷の奥の奥の此方の部屋にまで伝わってくる、この忙しない足音や話し声に耳を傾けていると、だんだん不安になってしまって、斜め前に姿勢よく正座する灰簾に視線を送ったらいつもより落ち着いた声色で諭された。
「……赤琉さま。ご安心ください。何があろうとも、この灰簾が後生おそばにおりますゆえ」
目を二つとも閉じて言う灰簾。どうやら事情を知っているようである。今言わないのはきっと意味があるのだ。必要があれば知らせてくれるはず。此方はあまり深く考えずに手元に視線を戻した。それを知るのは案外早かった。
その日の夕方、神妙な面持ちで部屋にやってきた父上と母上から、此方は予想だにせぬ縁談話を言い渡されました。
「赤琉。おんしはお隣の煌帝国の皇子に嫁ぐこととなった。もう決まったことじゃ。……我々の自慢の娘よ。達者でなぁ」
+
てっきり国内の有力な家臣の元に嫁ぐか、国内の腕っぷしのいい武術の達人を探してきて婿入りさせるのだと思っていたが。……まさか此方が海を渡ることになるなんて、そんなこと、ちっとも、想像すらしなかった。両親から話を聞いた時は「遂に」とか「やっぱり」とかそんなことを考えながら必死に話を聞いていたけど、少し落ち着いて話を整理してみると、此方は、近いうちにこのお屋敷を出て単身で海を渡り、顔も知らぬ皇子さまのもとへ向かうことになるのだと、言葉にしたら簡単でも、心中穏やかではなかった。気持ちを紛らわすためにいつもと同じようにお部屋の隅で針を動かす此方。灰簾は此方に似てか物静かだけれど、今日はまた一段と静かに、何か考えるように花瓶の花に手を添えている。此方を案じてのことだろうか。
「灰簾」
「はい、赤琉さま」
「此方、……」
「……」
「此方、お国から出たくない」
灰簾がそう言ってほしそうだったから、そう言った。うそつき。今のは此方の本音だった。此方は何の疑いもなく、この生まれた日ノ本で生涯を過ごし、そして死ぬのだと思っていた。お日様のように明るく天真爛漫なお殿様のおそばで、一生を終えるのだと。それなのに、どうして此方が海を渡らなければならないのだろう。
「赤琉さま。我が儘はいけませぬ。これも姫君としての立派なお務めでございます」
「……」
お姫さま、やめたい。生まれた時からそういう教育をたくさん受けて、とっくの昔に覚悟を決めたはずだったけれど、今の此方はなんだかやけになっている。
「……なんで此方が」
「鬼倭は小さな島国でありながら、この地にしかない資源や特産品が多く眠っています。煌帝国は鎖国体制の続く我らとの繋がりがこのまま絶たれてしまうのを、惜しいと考えているようです」
「それで、婚姻関係が欲しかったの」
「おそらくは。手遅れになる前に、一刻も早く独自の関係を持とうと……」
「それで、どうして此方が嫁がなきゃならないの。向こうがこっちに来ればいいのに」
「赤琉さま。この世は道理が通らない場合もあるのです」
そんな世の中、くそくらえです。灰簾は博識で聡明だからすぱっと割り切れるのかもしれないけれど、此方にとっては一大事なの。この居心地のいいお屋敷と数日後にはお別れしないといけないなんて、此方、嫌すぎて地縛霊になる。
「私を置いて逝かないでください、赤琉さま」
「……」ふん。
そういえば、健彦さまはどう思っているのだろう。今回の縁談はおそらくこの国にとってあまり例がないはずだ。今でこそ七海連合に加入しているとはいえ、極力国外との関係を持とうとしない性格だから……いくら氷川が若干弱い立場にあるとはいえ快く頷くとは思えない。両親は家が大きくなるならなんでもする人だけど、その辺はどうなっているのだろう。それくらいは教えて欲しい。当の本人が事情を知らされないのはいくらなんでも理不尽がすぎる。
「ここだけの話、健彦殿は煌帝国の第一皇子、並びに第二皇子の御二方と年齢が近く、前代の頃より友好的な関係を築いているそうで……今回の弟君の縁談にも少々……。いえ、ここだけの話ですよ」
お殿様もノリ気だった。
「……ますます納得できない。此方、国から出たくない」
「赤琉さま」
灰簾は遂に名前を呼ぶだけ呼んで何も言わなくなった。ここでごねても何も変わらない。そんなことは分かっている。でも灰簾にだけは本音をぶちまけてもいいだろう。今だけはただの年頃の子供でいたいのだ。
「ご安心ください。何があろうとも、この灰簾が後生おそばにおりますゆえ」
「……うん」
唯一の救いと言えば、灰簾も一緒に海を渡って此方のお付きで居続けてくれるそうだ。この人は優しい。此方には嘘をつかない。そういうところが好き。彼に出会えたから、この家に生まれて良かったとすら思う。此方にとってこの家の存在はそんなものだ。
数日前からやけにお屋敷が騒がしいと思っていたが、まさかこの時には既に決まっていたとは思いもしなかった。誰かのお誕生日でもない、宴でもない、それでもこんなに騒ぎになるなんて何かよっぽどの問題が起こったに違いない。お屋敷の奥の奥の此方の部屋にまで伝わってくる、この忙しない足音や話し声に耳を傾けていると、だんだん不安になってしまって、斜め前に姿勢よく正座する灰簾に視線を送ったらいつもより落ち着いた声色で諭された。
「……赤琉さま。ご安心ください。何があろうとも、この灰簾が後生おそばにおりますゆえ」
目を二つとも閉じて言う灰簾。どうやら事情を知っているようである。今言わないのはきっと意味があるのだ。必要があれば知らせてくれるはず。此方はあまり深く考えずに手元に視線を戻した。それを知るのは案外早かった。
その日の夕方、神妙な面持ちで部屋にやってきた父上と母上から、此方は予想だにせぬ縁談話を言い渡されました。
「赤琉。おんしはお隣の煌帝国の皇子に嫁ぐこととなった。もう決まったことじゃ。……我々の自慢の娘よ。達者でなぁ」
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てっきり国内の有力な家臣の元に嫁ぐか、国内の腕っぷしのいい武術の達人を探してきて婿入りさせるのだと思っていたが。……まさか此方が海を渡ることになるなんて、そんなこと、ちっとも、想像すらしなかった。両親から話を聞いた時は「遂に」とか「やっぱり」とかそんなことを考えながら必死に話を聞いていたけど、少し落ち着いて話を整理してみると、此方は、近いうちにこのお屋敷を出て単身で海を渡り、顔も知らぬ皇子さまのもとへ向かうことになるのだと、言葉にしたら簡単でも、心中穏やかではなかった。気持ちを紛らわすためにいつもと同じようにお部屋の隅で針を動かす此方。灰簾は此方に似てか物静かだけれど、今日はまた一段と静かに、何か考えるように花瓶の花に手を添えている。此方を案じてのことだろうか。
「灰簾」
「はい、赤琉さま」
「此方、……」
「……」
「此方、お国から出たくない」
灰簾がそう言ってほしそうだったから、そう言った。うそつき。今のは此方の本音だった。此方は何の疑いもなく、この生まれた日ノ本で生涯を過ごし、そして死ぬのだと思っていた。お日様のように明るく天真爛漫なお殿様のおそばで、一生を終えるのだと。それなのに、どうして此方が海を渡らなければならないのだろう。
「赤琉さま。我が儘はいけませぬ。これも姫君としての立派なお務めでございます」
「……」
お姫さま、やめたい。生まれた時からそういう教育をたくさん受けて、とっくの昔に覚悟を決めたはずだったけれど、今の此方はなんだかやけになっている。
「……なんで此方が」
「鬼倭は小さな島国でありながら、この地にしかない資源や特産品が多く眠っています。煌帝国は鎖国体制の続く我らとの繋がりがこのまま絶たれてしまうのを、惜しいと考えているようです」
「それで、婚姻関係が欲しかったの」
「おそらくは。手遅れになる前に、一刻も早く独自の関係を持とうと……」
「それで、どうして此方が嫁がなきゃならないの。向こうがこっちに来ればいいのに」
「赤琉さま。この世は道理が通らない場合もあるのです」
そんな世の中、くそくらえです。灰簾は博識で聡明だからすぱっと割り切れるのかもしれないけれど、此方にとっては一大事なの。この居心地のいいお屋敷と数日後にはお別れしないといけないなんて、此方、嫌すぎて地縛霊になる。
「私を置いて逝かないでください、赤琉さま」
「……」ふん。
そういえば、健彦さまはどう思っているのだろう。今回の縁談はおそらくこの国にとってあまり例がないはずだ。今でこそ七海連合に加入しているとはいえ、極力国外との関係を持とうとしない性格だから……いくら氷川が若干弱い立場にあるとはいえ快く頷くとは思えない。両親は家が大きくなるならなんでもする人だけど、その辺はどうなっているのだろう。それくらいは教えて欲しい。当の本人が事情を知らされないのはいくらなんでも理不尽がすぎる。
「ここだけの話、健彦殿は煌帝国の第一皇子、並びに第二皇子の御二方と年齢が近く、前代の頃より友好的な関係を築いているそうで……今回の弟君の縁談にも少々……。いえ、ここだけの話ですよ」
お殿様もノリ気だった。
「……ますます納得できない。此方、国から出たくない」
「赤琉さま」
灰簾は遂に名前を呼ぶだけ呼んで何も言わなくなった。ここでごねても何も変わらない。そんなことは分かっている。でも灰簾にだけは本音をぶちまけてもいいだろう。今だけはただの年頃の子供でいたいのだ。
「ご安心ください。何があろうとも、この灰簾が後生おそばにおりますゆえ」
「……うん」
唯一の救いと言えば、灰簾も一緒に海を渡って此方のお付きで居続けてくれるそうだ。この人は優しい。此方には嘘をつかない。そういうところが好き。彼に出会えたから、この家に生まれて良かったとすら思う。此方にとってこの家の存在はそんなものだ。