スタート地点


「え………なんで、」

あの後、私は逃げるようにして自宅のマンションに帰宅し、そして暫く玄関で頭を抱えた。なんであの時、あんなことを言ってしまったんだろう。どうして私はいつも、思っていることがハッキリと言えないのだろう…、そう何度も思って。でもなんとか自分の考え込む癖を利用して必死に必死に荒北くんの為になることをしたんだ、荒北くんに悪くないように私は動いただけなんだと思い込んだ。まるでこれが100点満点の正解だっていうように、私は胸の内のモヤモヤに知らないフリをした。
時間は過ぎてもうすっかり辺りは暗くなった夜。こんな時間だというのに家のインターホンが部屋に鳴り響いた。学生の安いマンションなのでモニター付きのドアホンではなく、私は除き穴にそっと目を通した。するとまさかのその人影に、私は思わず手が震えて……ドアを開けるまでに時間を要してしまう。そして再度インターホンが鳴り響き、観念した私はそーっとドアを開けた。

「あ、荒北…くん……?」
「よォ……」
「えっと……え、なんで…?」
「あのさァ……入れてくんねェ?」

見上げた先の荒北くんは、何度か見たことのある薄手のカーキ色のミリタリージャケットを羽織っていて、昼間みたレースの時のユニフォームとは違ったいつもの恰好をしている。荒北くんの声色はどこか低く静かで、”入れて”と言われて私は慌ててドアを大きく開いた。そもそも荒北くんは今日の昼までずっとレースで走っていて、かなり疲れている状態だろう。だというのにわざわざ私の家まで来たということは……やっぱり、去り際のあの話になるのだろうか。まだなんの話もしていないというのに、纏う空気感に私はどうしようかと焦っていた。

「えっと、ベプシ…あるけど、飲む?」
「いや、別にィ…今日はいいわ」

荒北くんを部屋に入れるのはもう慣れたものだ。だから彼はいつものようにリビングと呼ばれるスペースにあるローテーブルの横に座った。彼はいつもそのすぐ近くにあるかなり大きいビーズクッションがお気に入りみたいで凭れ掛かるのだけど、今日はそこには触れなかった。彼のために買うようになったベプシも今日はいいと言われてしまい、私はただ不安になってその場に立って荒北くんを見下ろす。すると荒北くんは「座ればァ?」と言って自分の前の空間に目線で合図した。

「あの、えっと、来週のことはあの…ごめんね、今日言うつもりだったの……でもほら、また時間作れるし…やっぱ荒北くんもお友達との時間大事にしたいだろうし…」

これはさっきまで自分に言い聞かせていた言葉だ。それをなぜ私は今、荒北くんにも同じように言っているのだろう。別にこの話を聞かれているわけでもないのに…。けれどさすがにこの空気で、黙っていられなかった。泳ぐように彷徨っていた目は、言い終わると同時にゆっくり荒北くんを見つめた。

「ナマエチャンさァ……俺と居んの、つまんネェ?」
「…………………………へ?」

必死に覚悟して待った荒北くんからの言葉に、私は拍子抜けた。

「なんで……?え、どうして…そんなこと…?」
「いや、こんなんナマエチャンに聞くのやっぱ違ェよな…」
「え?」
「なんつーか、俺が舞い上がってたわ、わりィ」

私はなにも理解できぬまま、気づけば荒北くんはその場からゆっくりと立ち上がろうとしていた。え、ちょっと待って……なんだか今のこの空気、完全に最悪の方向に向かっているのでは?明確な言葉もなにも今は出ていないし決まっていないけど、このまま終わっては最悪の結果になるというのは…理解できた。私は咄嗟に、荒北くんのジャケットの裾をぎゅっと掴んだ。

「あの……えっと、ご…ごめんなさい…」
「いや、俺も悪いネ…なんか、ちょっと上手く考えまとまんねェわ」

違う、そうじゃない。多分そんな謝っただけの言葉では終わらない。そんなの分かっているのに、私は思うように声が出なかった。

「急に押しかけてゴメンネ、俺もォ帰るわ」

スルリと私が握っていた裾は離れていってしまい、そのまま荒北くんは私に背を向けた。どうしてこんな空気になっているのか私には分からなかったけれど、でも……荒北くんは悪くない。彼はとても申し訳なさそうに顔を歪めるけど、でもそれは私のせいなのだというのは分かった。
静かにフローリングの上で歩く足音が恐怖の音のように聞こえた。どんどんと荒北くんの背中が遠のいていく。どうしよう、だめだ………今まで散々我慢してきたけど、ここも我慢したら私…、

「や、やだっ……!!」
「は?」
「え、あっ…!」

ドスンッ!!
グッと、気づいた時には荒北くんのジャケットを思い切り引っ張っていた。そして思った以上の引っ張りを見せてしまった私は、迫りくる荒北くんの背中を受け止めきれず……そのまま倒れてしまう。鈍い音が鳴り響き、お互いの口から「ッーーー」という言葉にならぬ声が発せられた。

「ごごごごめんなさい!!」
「ハッ……何してんのォ、ったく」

意外にも荒北くんの口からは笑った声が聞こえて、慌てて彼を見やればその口角は上がっていた。私はとにかく謝ってどこも痛くないかと聞くと、荒北くんは「大丈夫ゥ」と言って静かに私の頭を撫でた。

「情けねェな俺…、マジでヨユーとかねェんだわ」
「え?」
「ナマエチャンはそーでもねェかもしんねーけど、俺は結構真剣なんだよネ……この関係」

さっきまでの重苦しかった空気が少し晴れたようで、それでも荒北くんから出た台詞に私は再び衝撃を受けた。

「ナマエチャンいいコだからさァ、俺がアイツ等と飲み会行くっつっても何も言わねェだろ?最初は気ィ使ってくれてんのかなとか思ってたけど、やっぱ俺が舞い上がってただけっての…なんとなく察したっつーか、ホント……今まで悪かったネ」

なんでそんなに悲しそうな顔をして、どうしてそんなことを言うのだろうか……そう思って、ハっと気づく。私はなんてバカだったんだろうと。

「ちが……違うの…本当に、ごめ…ごめんなさいっ……!」
「イーヨ謝んなくて、俺が熱くなってただけだしィ…」
「そうじゃ…!なくてっ…!!」

私はやっと気づいた。どうして今まで気づかなかったんだろう。そんな理由を考えたらきっと悪い方へ悪い方へ考えてしまうのは分かっている。だから今はそうじゃない、違うんだということを荒北くんに伝えなければと思った。

「ずっとずっと……我慢してた…」
「あァ、やっぱ……ゴメンネ」
「違うの、ちゃんと全部…聞いて…」

だめだと分かっていても瞳からは涙が溢れてきて、必死に我慢するのも束の間でポロリとそれは簡単に落ちてしまった。きっとこんなの、また荒北くんを不安にさせる。でも私は必死に、言葉をつづけた。

「私…本当はすっごい我儘でね……でも、荒北くんに嫌われたくなくて……ずっと我慢してたの…」

こんな感情は絶対に見せてはいけないものだと思っていた。だけど、もし荒北くんが……私と同じ感情でいてくれるのなら。

「荒北くんが課題と練習で忙しいって分かっててもやっぱり寂しくて、でも寂しいなんて言って困らせたくなかったし……、もっと荒北くんとお昼ごはん学食で食べたりしたかったけど、お友達との時間を邪魔したくなかったし……、この前遅く帰って来た時…本当はすごく悲しくて、どうして連絡もくれなかったのって言いたかった……!」

荒北くんは何も言わずただじっと私を見つめて話を聞いていて、どう思われているのか正直怖かったけど…でも、私は紡いだ。

「それに、それ…に……わ、わたしだって荒北くんのこと…な、名前でっ……よび、たい…!」

そう最後の最後まで吐き出した瞬間、私の体は何かにグっと引き寄せられた。何かなんて、もう……荒北くん以外いるわけないんだけど。

「あら…きた、く…」
「ア”ーーーー!!!」

私を抱きしめる荒北くんから、突然が鳴り声が部屋中に響き渡った。

「荒北くん…?」
「ちげェだろ」
「え?」
「俺の下の名前はァ?」
「え……やす、とも…」
「そォ、そーダヨナマエチャン」

抱きしめられて見えなかった荒北くんの顔がやっと見えたかと思うとそう言われて、そもそもの距離の近さに私の顔はどんどんと赤くなっていく。ていうか今のこの状況は一体、どういうことなんだろうか…。

「バァカチャンがヨォ」
「え!?」
「ホントにバカだよナマエチャンはさァ…」
「ひ、ひどっ……え、ごめんなさい…?」
「マジ、謝って済まさねェーからァ!」
「えぇ!?じゃ、じゃあ…えっと、ど…どうしたら…?」

荒北くんの指が私の目元にきて、払うようにして涙を全て拭き取ってくれた。そして許してもらえないと聞いて焦る私に、荒北くんは私の両頬をガッシリと掴んだ。

「今度から我慢したら許さねェ、名前で呼ばねーと許さねェ、あとォ……来週の水曜、俺と一緒に居ねーと許さねェ…」
「あら………や、靖友、くん…っ」

私が彼の名を呼んだのを最後に、唇は奪われた。靖友くんとのキスはまだやっぱり慣れなくて、先ほどから上がっていた体温はみるみる限界を突破するように上昇していく。抑えられた頬も、全てを持っていかれてしまいそうな口づけも、乱暴だけど優しかった。

「正直言って甘ェんだよ」
「え、甘いものは何も食べてないけど…」
「違ェ!!ったくコレだから不思議チャンは……そォーじゃなくてェ!」
「ひゃいっ」

彼の手で囲われていた頬は、今度はぐにっと両サイドに引っ張られてしまった。

「ナマエチャンのワガママはァ、俺にとっちゃご褒美だからァ!つーか俺だって一緒に居てぇしィ?あのクソ野郎共に嫉妬するだけ無駄だしィ!ホント甘チャンなんだよオメーはよォ!」

今私は怒られているんだろうか、だとしても…こんなにニヤけてしまう怒りはない。私は彼の言うように確かに、バカだったのかもしれない。

「靖友くん…!」
「ナニィ?」
「今日は……帰らないで、欲しいっ…デス!」

今の私の、精一杯のわがまま。

「つーか、帰れって言われても帰ってやんねーヨォ??」

そう言って抱きしめられる。私はやっとここで、スタート地点に立てたのだなと…今更になって理解した。今までは序章に過ぎなくて、ここからやっと私は彼と肩を並べることができるのだ。とかなんとか思ったりして。

結局その日は靖友くんの疲労が回ってきて、私たちは2人仲良く安らかに温かな布団で眠ったのだった。





[スタート地点|完結]






 

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