昨日の時点でセックスの予約を入れたようなものだが、ノックして視線が合った瞬間から止まることなくずっと求め続けた逢瀬だった。
抱いていた感覚がまだ生々しく残っている。
ニヤけてしまう口元を手のひらで隠しながら、程よい高さのレンガ壁に頬杖をつき、ニックスは行き交う人の往来を眺めていた。
いや、視界からの情報など一切入っていない。反芻していた○○のことしか考えていなかった。
「ヤベ、もうそんなに時間経っちまったか?」
ピーという電子音でニックスを呼んだのは洗濯機。
ここは○○の家から2ブロック歩いたコインランドリーだ。
ズラリと壁際に並ぶ薄暗い店内で、唯一稼働していた洗濯機が仕事を終え左右と同様に眠りにつく。
自販機で洗剤を購入し硬貨を2枚投入したのはつい今しがただと思っていたが、楽しい反芻に30分は短かすぎたらしい。
フタを開けて洗い終えたシーツを取り出す。
もちろん、先程まで楽しむ二人を受け止めていたシーツである。
あー……悪い。
……別に。洗えばいいし。
俺、洗ってくるよ。いつもコインランドリーなんだろ? 近く、どこだ?
……向こうの角。
ローションの跡を不機嫌そうに見つめる○○に、洗ってくるとシーツを手繰り寄せて家を出てきた。
○○は今頃シャワーだろうか。
乾燥機まで掛けると更に眉間のしわが増えそうなので、脱水したてのシーツを抱えておとなしく外に出る。
さて戻るかと○○の家の方向に目を向け、ニックスは最大の目的を思い出した。
片手でシーツを抱え、尻ポケットから携帯電話を取り出す。
自分のではない。○○のだ。
謎の人物、ケージュ。
その存在を知ったのは昨日の事後だ。
羨ましくも、○○から電話を貰える人物。
候補としては、家族、数少ない友人、借金取りなどが考えられるが、○○自身の口から孤児と聞いたことがあるので親は消える。
元々携帯電話の文化がない○○に友人というのも違和感がある。いるのか不明な上、教えてなさそうだ。
一緒に出掛けるような友人はいるのだろうか。
連絡を取り合ってショッピングや旅行をする○○。
……違和感しかない。全く想像がつかない。
本当にニックスの知っている女性像とはかけ離れている。
もっと○○のことを知りたい。
あしらうための適当な即答なんかではなく本音ならば、好きな色ですら知りたい。
まるで初めて好きな子ができたアカデミー生のような甘酸っぱさだ。
しかしそれらの候補が消えるとなると、濃厚なのは金融関係の借金取り。
甘酸っぱさは急になりを潜めるが、何やら大金を必要としているようだし、一番考えられる。
会社名を聞き出し、そこが薄暗い会社であればこちらも相応の対応が取れるというものだが困るのが正規のところだったときだ。
ニックスには手の打ちようがない。
下手を打てばそこからニックスの風貌が○○に漏れる恐れもある。
昨日番号を控え帰宅してから、ケージュとやらにどう接触しようかと知謀を巡らせた。
まずはオーソドックスに間違い電話を装い探りを入れるのが上作か。
そう決め、昨夜は眠りにつき、今日に至る。
そして○○の携帯を手にして○○の目から離れる機会に遭遇し。
つい。思わず。
悪気はない。悪用はしない。許してくれ○○。
心の中で謝罪する。
こうして○○の携帯を触れるとなれば、拾った体で電話を掛けてみた方が得られるものが多そうだ。
「よし」
その作戦で行こうと決めたニックスは慣れた手つきで履歴をスクロールさせケージュを引っ張り出す。
咳払いをして喉を作り、鬼が出るか蛇が出るかと待っていると。
『もしもし』
出たのは予想外も予想外。天使だった。
……は?
珍しく思考が停止した。
ぱかりと口を開けて絶句しているニックスだが、向こうは当然○○だと思って疑わず、無言をからかいながら言葉を掛けてくる。
しかしその無言の間が不自然に長すぎたため、徐々に不安げな声に変わった。
『……お姉ちゃん? どうしたの……?』
「おねえちゃん……?」
『だ、だれ……?! ……ですか……?』
丸の模様の中に三角があるくらい違和感たっぷりの単語に、脳で考えることなく口に出してしまった。
○○ではない、ましてや男の声に、電話口の声が驚いたように固くなる。
しかし向こうが身構えたことによってニックスに冷静な思考力が戻ってきた。
「……ん? 電波悪いのか? 聞こえてるか? もしもし」
『も、もしもし……あの……その携帯電話……』
「ああ、拾ったんだ。履歴にあんたの名前があったから掛けてみたんだけど……知り合いだったりする?」
『あ……そうなんですね。はい、僕、持ち主の弟です』
お、弟……?!
「あー……っとそうなのか……弟……」
『はい』
動揺が隠せない。
兄弟いたのか? アイツ孤児って……!
しかし掛かってきた電話で構えてもいない相手に嘘をつくのは難しいはずだ。
嘘を言っているようにも聞こえない。
弟分ではなく、本当に血の繋がりのある弟なのか?
そうだというなら何故○○と一緒に住んでいない?
どこで暮らしているんだ? 親といるのか? それは○○の親でもあるのか?
女の子と間違うほど電話口の声は高いが何歳なんだ?
聞き出したいことは山ほどある。
しかし○○の電話で長時間話をするわけにはいかない。
明細チェックをするかはわからないが、あからさまに料金が上がればバレてしまう。
僅かに逡巡したニックスは自分の携帯電話を取り出した。確かデフォルトで電子音が入っていたはず。
マイクのところに近付けて再生するとピピッと短い電子音が鳴った。
「あ、悪い。充電切れそうだ」
「えっ……どうしよう」
ニックスへの連絡手段がなくなるなら、○○の手元に戻るように方法を考え伝えることも出来なくなってしまう。
○○本人が、なくなっているということに気づいてアクションを起こすのを待つしかない。
困ったように考え込むケージュにニックスは先手を打って提案を持ち掛けた。
「完全に切れる前にあんたの番号、俺の携帯に控えて連絡するからさ。そっちにメールくれよ。会えれば渡せる。持ち主に返すことは可能か?」
「もちろんです! わかりました。ご迷惑をお掛けします」
まあ素直。
これが本当に○○の弟か。ますます疑わしい。
「じゃあ……切るぜ」
「はい」
ピ、と、電源ボタンを押して通話を終了させたニックスは、その携帯電話に視線を落としてしばし呆けた。
弟だと?
さすがに予想外だった。
というか考えつくはずがない。
家族はいないと、他の誰でもなく○○本人の口から聞かされていたのだから。
「全く……どこまでが本当なんだ? あいつは……」
よく思われていない、というのを抜きにしても真実の像がまるで見えない。
それは名前すら偽の可能性を含んでいるほどだが、しかし今はそれを追求してこのまま突っ立っていられない。
洗濯は終えた。不自然に戻りが遅くなりすぎるわけにはいかないのだ。
洗濯中の時間を別に使ってしまったことを少々後悔しながらニックスは○○の携帯電話で頭を掻いた。
考えろ。考えるんだ。
ケージュには近日中に会う都合をつけるとして、問題はニックスとケージュが会うまでに○○とケージュがコンタクトを取ってしまうことだ。
○○から電話をしようものなら、噛み合わない会話から辿り着くのがニックスであることは確実。
ブチギレられる。
さて……どうしたものかね。
携帯電話を壊す。バッテリーを抜く。
下策だ。
しばし拝借し、後日返す。
……いや駄目だ。今朝受信したメールが既読になっている。
恐らく家で見たはずだ。
どこかで忘れてたのを拾ったというのは苦しい。これも上策とは言い難い。
唸りながらもゆっくりと運んでいた足は慣れ親しんだ家路を着実に辿っており、よく鳴く階段を上がると○○の家の扉はもう目の前だった。
小さく息を吐き出して気持ちを切り替え、戻りましたよ、と玄関を開ける。
「クリーニング屋のニックスです」
どうしたものかと考えあぐねていたが、良策は思い浮かばず、結局流れに身を任せてみることにした。
○○に向かって洗いたてのシーツを差し出す。
「クリーニングショップ、ホワイティーンのお兄さん。これもアリ?」
「馬鹿言うな。全然笑えないから」
シーツを引ったくって寝室へ行った○○を尻目に、リビングのイスに座ったニックスは腕を伸ばして足元にするりと携帯電話を滑らせた。
テーブルから落ちたとしても不自然ではない場所だ。
「バリエーションがあった方が後々いいんじゃないか? そうだな……他には何がいいかな」
考えるふりをしながら計らいを巡らすと、偶然にも、コンセントに差しっぱなしの携帯電話の充電器が目に入った。
場所はテーブルの下。ニックスの足元だ。
断線させてしまえば充電することが出来なくなる。
あとはなんとか携帯電話の電池を使いきらせれば、連絡することも出来なくなるのではないか?
不便を感じれば数日の内に購入するだろうが、依存しているわけではない○○なら即日購入に走ることはしないだろう。
完璧。
「何が完璧だ、変態」
「おうっ?!」
漏れていたらしい呟きを聞き咎めた○○はトゲトゲしさも露に吐き捨てるが、跳び跳ねるほど驚いたニックスはしかし安堵していた。
聞こえていた呟きが一言だけで良かった。日頃の行いから勘違いしてくれているようだ。
変態の俺に感謝……んん?
「逆に知りたいね。惚れた女を前に変態にならない男なんているのか?」
いつもの軽口で返せばいつもの舌打ちが返ってくる。
そっと足で充電コードをたぐり寄せながら、隣室にいる○○との会話は途切らせない。
「お前もそうだろ? 聖人君子なんてつまらねえよ」
「否定はしない。どいつもこいつも変態ばかりだ。本当、気持ち悪い」
シーツをシワなく張る音の合間に盛大な舌打ちが聞こえてくる。
娼婦という職は、普段接しているだけでは到底知り得ない他人の性癖を目の当たりにする職業である。
そのデリケートな部分を数多くの人間から引き出している○○は、やはり才能がある、と言わざるを得ないのだろう。ニックスとてその虜になっている一人の男だ。
当然、惚れた女が他の男に抱かれるなんていい気はしないが、恋人でもない自分にはそんなことを言う資格はないし、恋人であったとして同じことを言っても聞いてくれるかは怪しいもの。
仕方のないことなのだ、と言い聞かせて溜飲し、苦笑をこぼす。
「狂わせてるのはお前だよ。それだけ魅力的なんだ。……出掛けるのか?」
携帯電話の充電コードを断線させることに成功したニックスは、閉まりきっていなかった扉を押し開けてもたれ掛かった。
洗いたてのシーツに負けずとも劣らない、○○の白い背中が目に眩しい。
「入ってくるな」
「今更恥ずかしがることないだろ? 全部知ってる仲なんだからよ」
クリーニングから戻ったときに○○が着ていたシャツはベッドのマットレスに放られており、衣類が入っているらしい簡素な収納から、恐らく袖であろう部分を引っ張り出していた。
「で?」
「仕事。」
「また?! さっきのだって……言っちまえば仕事だろ?」
先ほどまでの身体を重ねていた至福とも言える時間。それを至福と思っているのはニックスだけであり、○○にとってはビジネスのひとつでしかなく、それ以上でも以下でもない。
ただ、金を出す客が眼前のニックスではないというだけだ。
「いちいち煩いな。あんたに関係ない」
睨み付けても動く気配のないニックスは無視することにしたようで、七分丈のカットソーを頭から被った○○は、襟口にすぼまった髪の毛を払うと、同じようにデニムの裾であろう部分を引っ張り出してタイトなジーンズに捩じ込んだ。
ベッドの上に腰掛け両足一気に履くという豪快な方法だ。
ベルトは省略。その簡易な身だしなみで出掛ける様子から、今からの仕事は皿洗いだろうとは予想できるが。
「そんなに稼いでどうする気だよ。借金でもあるとか?」
毎日目新しい洋服を着ているわけでも、見るたびに新しいバッグを持っているわけでもない。自分磨きに勤しんでいるようでもなければ良いところに住んでいるわけでもないから、収支の釣り合いは取れていないはず。
親しい仲になりたい身としてはソコは気になる点だ。
もちろん、借金があるからと言って離れるわけではなく、出来る範囲でならば協力は厭わない。
不明瞭、ということが単に気になるのだ。
ラインが二本入っているだけの底の浅いスニーカーを履いた○○はニックスを通り過ぎようとして立ち止まった。
ヒールを履いている○○にも慣れているニックスとしては別人ほども視線先が下がる。
小柄な○○。顔があるのは胸の辺りだ。首はニックスの腕よりも細い。
働いて働いて、なおも働く○○はこんなにも華奢で頼りない。
しかし庇護されるだけではない彼女は、眉間にしわを刻んでニックスを睨み上げその口を開いた。
「「あんたに関係ない」」
ニックスの目の前で、刻まれた音すら聞こえてきそうなほど、しわが一層深くなる。
「いてッ」
二人でいて機嫌がいいことなどない○○からパンチをもらった。
遠慮なんてしてなくとも鍛え上げた戦闘職種の身体にはびくともしないが、声が出てしまったのはただの反射だ。小柄だが大変凶暴である。
「何突っ立ってんだよ」
「ん?」
「わたしが出掛けるんだ、お前もさっさと出てけ!」
一緒に居るだけでこんなにもストレスを与えてくる人間はそうはいないだろうな。
○○は察しの悪いニックスを怒鳴り付けながらイライラと扉を開けた。